最終話 扉のむこう 海のむこう
大声で二人の名を叫んだあと崖下を覗きこみ、玉城は息を呑んだ。
ずぶ濡れの長谷川が、同じくずぶ濡れのリクの肩に掴みかかっている様は、救助にも抱擁にも見えず、リクはまた彼女の逆鱗に触れ、今度こそ鉄槌を喰らってしまったのかと、玉城は本気で思った。
けれども玉城の呼びかけであっさりリクを解放した長谷川は、笑顔で玉城に応えた。
「警察呼んでよ玉城。私の携帯はどっかその辺に落としたみたいでさ。探すの時間かかりそうだから」
「警察!? なんで警察なんですか? いったい何があったんです。さっきあの女が走って行っちゃいましたが、あの女が何かやったんですか!?」
「ごちゃごちゃ言う前にさっさと電話しろ! 鷹ノ巣山、旧赤津村の沢の中で白骨死体発見、それからちょっと怪我人いるから救急セットひとつつけてもらって」
「そんな出前みたいに……え。今なんか白骨って…」
「早く!」
「はいっ!」
この地域を知り尽くしているだけあって、警察の到着は早かった。
少女のモノと思われる白骨死体の所在を適確に警察に示した後長谷川は、怪我人がいることを理由に、ひとまず今日は帰らせてくれるよう、警察にきっぱり話をつけた。
救護員に手の傷の処置だけしてもらったリクは、長谷川の手を借りることもせず、少し足を引きずりながら自力で歩いた。
「可愛くない」、と長谷川が漏らした言葉を玉城は黙って聞きながら、少し笑った。
閉鎖区域まで乗り付けてあった車に二人を乗せ、とりあえず玉城はリクの家に向かった。
リクも長谷川も、まだじっとり濡れたままだ。
「ちょっとドライヤー貸して」と、長谷川が奥へ引っ込んだ間に、自らも着替えを始めたリクから、玉城は少女の遺体発見に至るまでのあらましを聞いた。
「じゃあ、あの女があやのって子を殺した訳じゃないのか」
「新田奈津美はあやのさんを束縛しきれないと思ったとたんに、突き放して忘れ去っただけ。彼女にど
こかで気持ちを縛られていたあやのさんが、勝手に追いかけて勝手に落ちただけなんだ。誰にも知ら
れずに朽ちて行くことが無念で、魂があそこに留まってしまったんじゃないかな」
ゆっくりとシャツを羽織りながら言ったリクは、加えて少し辛そうに眼を細めた。
「でも奈津美さんが自分の死をまるで悲しんでくれない事が分かって、悲しみが最後怒りに変わったんだと思う」
あやのにほんの少しの間、心を乗っ取られ同化したリクには、その悲しみが染み付いて剥がれないでい
るのかもしれない。
憑依されたことのない玉城だったが、その感覚は理解できないこともなかった。
「ったく。結局彼岸の者の感情に振り回される。そんなんだから何回も死ぬ目に遭うんだよ、あんたは」
いつの間にかリビングに戻ってきていた長谷川が、元のピリリとした姿に戻ってリクの方を見ていた。
リクは少し拗ねたように長谷川の視線をかわし、ソファに荒っぽく座った。
……久しぶりに会ったというのに。しかも片方がもう片方の命を救う救出劇があったというのに。
なんだこの戦闘前のような険しい空気は。
じわりと、玉城の背に汗が滲む。
「小赤が5匹……か」
長谷川が視線をリビングの隅に移して、ぽつりと言う。
視線の先のガラスボウルの中で、小さな赤い生き物がチョロチョロと泳いでいる。
「せいぜい大事にしてあげるんだね、リク」
リクはソファに沈み込んだまま、無表情でただ長谷川を見上げた。
コツコツとヒールを響かせてソファに近寄った長谷川は、感情の分からない静かな声でリクに言った。
「じゃあ、シンガポールに戻るから。元気でね」
玉城は「え、」と思ったが、引き止める雰囲気でも、見送る雰囲気でもなかった。
長谷川はほんの一瞬目を伏せ、そして玉城に少しだけ笑ってみせた後、振り返りもせずに出て行ってし
まった。
追う事も出来ず、玉城は言葉に詰まり、次の瞬間にはリクに詰め寄っていた。
「いったいお前たち、どんな険悪なバトルしてたんだよ、あの崖下で。長谷川さんのあれ、普通じゃな
いぞ。そうとう怒ってるぞ。あの人があんな調子で静かに微笑む時ってヤバいんだぞ。お前知ってるだ
ろ? 命助けて貰っといて、お前いったい長谷川さんに何失礼な事言ったんだよ、リク!」
「何も言ってないよ」
「そんなはずないだろ! 吐け」
「言ってきたのは長谷川さんの方だ」
「何て」
「シンガポールに来いって」
「……あ?」
玉城の手から力が抜け、リクの肩から外れた。
「いきなりシンガポールに来いって言われたから、嫌だっていった。それだけだよ。別に変なこと言ってないだろ?」
腰から砕けそうになった。あの崖下のふたりは、そういうやり取りをしていたのか、と。
玉城は長谷川の気持ちをようやく理解して、泣きそうになった。
長谷川はついに自分の気持ちに気づいて、この男に歩み寄ったのだ。
けれどもきっと無下に突っ返されたのだろう、この唐変木に。
玉城はリビングの隅のガラスボウルの水を、この男の頭にぶちまけてやりたい衝動に駆られた。
けれども水の中にチラチラと赤いやつが泳いでいるのを見て、ぐっと堪える。
この家に似つかわしくない生き物だな、と冷静な部分でチラリと思いながら。
「ホントお前は人の気持ちが分かんない奴だよな。情けなくなる。いったいどんな酷い理由つけて断ったんだよ」
「金魚がいるから、って言ったんだ」
「……は?」
リクがリビングの隅の、あの水の入ったガラスボウルの方へ視線を流した。
「あの金魚5匹、道端で拾っちゃったから。だからシンガポールには一緒にいけないって言ったんだよ。それだけだ」
拗ねたようにリクがつぶやく。
自分が頭から水を浴びせられた様な気分になった。
そしてその架空の水は、ずぶずぶと報われない粘りを持って玉城に張り付いてきた。
不服そうに言ったリクの目の中に苛立ちと、そして少しばかりの後悔の色を見た気がしたからだ。
この男はどこかで憂いているのかもしれない。
ここで玉城が何か言えば100%反論し更に意固地になるだろうが、きっとどこかで憂いているに違い
なかった。
思えばあの時、玉城にだけ来た長谷川のメールに、明らかに拗ねていた。
気のせいではなく、この男は長谷川を強く慕ってるのだ。
恋とはいえないかもしれないが、こんな別れ方は不本意なのに違いない。
激しくじれったい。
けれどここで玉城が何か言えば100%反論し意固地になり……。 堂々巡りだ。
ああ、この二人はなんでこうなんだ。 もうくっついちまえよ、お前ら!
恋人でも親子でも姉弟でもなんでもいいから、くっついちまえよ!
うなだれた玉城の横で、小さな緋色がピチャンと跳ねた。
---------- エピローグ ---------
……そもそも諸悪の根源は何だ。
まだ手の傷が疼くらしいリクを残して彼の家を出、駅前の量販店のテレビ画面で少女の白骨死体発見の速報を見、玉城は悶々としながら家路に向かった。
長谷川はもう旅立っただろうかと、時折秋晴れの空を見上げながら。
時間が経過しても悶々は取れない。
JRと電車を乗り継ぎ、九段下駅近くに差し掛かった時、ずっと引っかかっていたその問いの答えがはっ
きりと映像になって脳裏に浮かび上がってきた。
諸悪の根源。それはこの地下鉄の入り口でぶつかったあの女。新田奈津美だ。
コインロッカーに荷物を入れっぱなしだったことも同時に思い出し、その駅で地下鉄を飛び降りる。
降りると同時に更なる新田奈津美への怒りが湧きたってきた。
セコいスリや窃盗を繰り返しながら一度も検挙されず悪びれもしない女。
子供のころに遡っても、友人を無駄に傷つけ、故意ではないにしても死に至る行為に導き、その子の死
を悼むどころか迷える魂を罵倒した。
それだけでも許せないのに、何の落ち度もない、いや逆に被害者である玉城への罵詈雑言だ。
ボケなら百歩譲って目を瞑れても、クソってなんだ! と。
リクに負わせた怪我は、リク自身が正当防衛の範疇だと判断して被害届を出さなかったため、結局のところ今現在、新田奈津美を追う法は無く、裁く権利は誰にも与えられていない。
いいのか、あの女がなんの罰も受けないなんて。これからももしかして誰かから大切な何かを盗み、傷
つけて行くに違いないのに、いいのか? いやよくない。絶対に良いはずはない。
心の中で脳内のボイスレコーダーに大音量でボヤク。
けれど何にもならない。証拠もない。打つ手など無い。
玉城は奇しくも自分の元に戻ってきた、他人には価値のない長財布を眺めながら、コインロッカーのあ
る場所に向かう。
ファスナーを開け、以前長谷川にもらった赤いお守りを取り出してぎゅっと握った。
もう一度その価値のない長財布をショルダーバッグに突っ込みながら、コインロッカーのカギを探った。
「れ?」
妙な感触だ。
コインロッカーのオレンジのタグが付いた鍵がどういうわけか、バッグの底からふたつ出てきたのだ。
なぜ二つも。雑誌類を入れたロッカーは確かに一つだけだったはず。
玉城は少し薄暗い場所に設置されたコインロッカーに近づくと、記憶にある左端の扉の鍵を開けてみた。
間違いない。確かに昨日の朝、取材前に自分が入れた雑誌類が入っていた。
ではもう一つは? そもそも、この鍵をどこで? 息を詰めて1日前を思い出してみる。
そういえば昨日、落ちていた鍵を拾って鞄に放り込んだ。
何か、酷くムシャクシャしながら放り込んだ。
そうだ、あの新田奈津美とぶつかった直後だ。
ぶつかったはずみに自分の鍵を落としたのだと思って拾ったのだが、そうではなかったのか?
だとしたら、これは新田奈津美のロッカーのカギだ。
ごくりと息を呑み、玉城はタグに書かれている数字を確認する。
番号を辿り、右端の方の目の高さの扉に鍵を突っ込み、慎重に開けてみた。
小さな四角い闇の中で、チラリと鮮やかな色が翻った。
玉城は再び息を呑み、そして両目を見開いた。
蛍光灯の薄い光をすべて取り込んでその肌に纏い、そしてゆらりと滑らかに撥ね返す。
そこに居たのは、なんとも美しい花を思わせる、2匹の金魚だった。
網から取りこぼされようとしていた記憶が瞬時に蘇り、各神経回路が繋がった。
これは……。
「緋柳!!」
思わず大声を上げ、玉城は天井付近に目を走らせた。
薄暗い天井には有難いことに、ちょうどいい場所に半球形の装置が張り付いていた。
監視カメラだ。玉城は嬉しくてニンマリとその装置に笑いかけた。
見てたよな、お前! ばっちり捉えたよな! 心の中でそう呟く。
30時間前の、あのアクアリウムでの緋柳盗難事件の犯人は奈津美だったのだ。
子供のころ、何度も友人の金魚をくすねた奈津美には、躊躇などなかったのだろう。
綺麗だから自分のものにしたい。そう言う単純な思考回路があの女の中には出来上がっているのだとリ
クは教えてくれた。
いや、教えてくれたのは、あの、「奪われかけて、飽きて捨てられた」あやのという少女だったのかも
しれない。
ガラス瓶の中で、涼しい顔で泳ぐ2匹の緋柳は、弱くて儚いと言われる割には逞しく見えた。
自分が一番綺麗に見えた赤い浴衣を纏い、奪われた金魚を水に返し、そしてあの世からリクを利用して
新田奈津美に自分の存在を訴え続けた、あの少女になぜか重なる。
凛として強靭な赤。
玉城はもう一度カメラを見あげた。
あのカメラはしっかりと昨日、金魚をロッカーに一時保管しに来た奈津美を捉えていることだろう。
更にきれいな獲物を見つけ、本人はすっかり忘れているだろうが、希少価値の金魚だけにマスコミにも取り上げられた窃盗事件だ。
これで少しはあの女に罪を償わせることが出来るかもしれない。
玉城はまずは何処に通報しようと携帯を取り出した。
ロッカーの管理会社か、駅員か、警察の盗犯課か。
手に持った携帯は、さっきまでまるで気が付かなかったのだが、長谷川からのメールを着信していた。
時間的に、きっと空港あたりから送ってきたものなのだろう。
開いて飛び込んできた文字は、玉城を更に穏やかな気分にさせた。
《リクを 頼むね。玉城》
リクが絡むとどうしてあそこまで不器用で可愛らしい人になってしまうのか。玉城は苦笑する。
〈ええ、分かってますよ。あなたが帰ってくるまで、僕が付いていますから〉
送信したあと、ほんの少し視線を感じて顔を上げる。
ガラス瓶の中の緋色のラメが、鮮やかに光を乱反射しながら、ひらりと舞った。
〈END〉