第17話 発奮とまさかの小赤
リクの名を呼ぶ長谷川の声を聞いた気がした。
玉城はヨレヨレの足取りでやっと登りつめた山道を、残っていた力を振り絞って走った。
昔の崖崩れのせいで、途中までしか車で入り込めなくなったこの廃村に、超方向音痴の玉城が迷わずにたどり着けたのは奇跡に近かったが、それを喜んでいる間もない。
リクがどうしたって!? 全身から冷たい汗が噴き出す。
年月を経て道まで伸びてきた巨木の根に転びそうになりながら、集落の入り口に飛び込もうとしたその時だ。
低木の茂みからイノシシの様な勢いで飛び出して来た人影にぶつかりそうになった玉城は、声なき声を上げて体を硬直させた。
代わりに叫んだのはそのイノシシだ。
「じゃま! どけよ、クソが!」
バンと病み上がりの肩にぶつかられ見事に転倒した玉城は、けれども倒れる直前、はっきりとその「女」を確認した。
新田奈津美だ!
あ…あの女! クソ……。今度はクソって言いやがった! ボケからクソに降格か!
爆発寸前まで怒りが突き上げたが、すんでのところで我に返る。今はそれどころではない。長谷川とリクの所に行かなければ。
玉城は走り去る女への怒りを振り切り、転びそうになりながら走り出した。
◇
髪からも体からも水を滴らせ、しばし二人はお互いの顔を見つめ合う形になった。
長谷川の腕はまだ、リクの両肩をがっしりと掴んでいる。
相手を身動きできぬ状態にして長谷川が言ったセリフは、ともすれば強制に聞こえなくもなかったが、今回ばかりはそれでいいと思った。
そうだ、きっと自分はこの危なっかしい生き物を監視下に置けなくてイライラしていたのだ。ここ1年半ほどの説明のつかない苛立ちは、きっとそのせいなのだ。
そう納得し確信した長谷川にもう迷いは無かった。
自分が口にしたセリフが世間一般に言うプロポーズに酷似していることなど、長谷川には関係のない事だった。これは解決につながる唯一の言の葉なのだ。
訳の分からぬ焦りを抱えシンガポールに渡り、訳の分からぬ苛立ちを抱えたまま東京に一時帰国した。そして自分は何を得るわけでもなく、またシンガポールに帰るのに違いない。そう推測する事がまた更なる苛立ちを産むのだった。このループとだけは決別したい。
「答えは?」
結局いつまでもその大粒トパーズのような瞳で自分を見ている青年に焦れて、長谷川は聞き返した。
リクはようやく起動ボタンを押された人形のように、ひとつ瞬きをしたあと、口を開いた。
「意味がわからない」
想定内の返事だった。
「日本語、学び直すか?」
「長谷川さんは僕の保護者?」
「あんたが保護しなきゃならないほど危なっかしいからだろ。すぐ彷徨ってる奴らに利用される、持っていかれる。前も言ったけど、いっぺんあんたに関わっちまったからこっちは気になって海の向こうでもなんか落ち着かないんだ。いろいろ差し支える」
「それはお気の毒様だけど、言いがかりだよ。僕のせいじゃない」
「誰のせいとか関係ないんだよ。あんたが危ないって言ってんだ、黙って聞きな。現にこんなことになってるだろうが! 玉城に注意してやるように言ったけどあいつはあの通り役に立たないし。だから私が見といてやる。絵ならどこに居たって描けるだろ?」
「それって強制?」
「強制じゃない。提案だ」
ほんの少しだけ間があった。リクの目がじっと長谷川の目を覗きこむ。
「じゃあ、断る。シンガポールにはいかない」
「なんで」
「金魚を飼ってる」
「……は?」
思わず声が漏れた。けれどリクの表情はしごく真面目に見えた。
冗談や、怒っている風でもない。
「小赤が5匹。僕が保護してる」
まっすぐこちらを見てくる二つの琥珀は凛としていた。
「……金魚か」
「そう」
「そんな趣味あったんだ」
「趣味で飼ってる訳じゃない。保護してるって言ったでしょ? 僕が手放せば死ぬ。でも僕は保護なんかされなくたって生きていける」
手負いのくせに、捕まえようとすると何でもないように力強く羽ばたいて飛び去ってしまう野生の鳥を思わせる。
束縛は「死」だとでも思っているような、強情な目だ。
---鳥。そうだ失念していた。どうにもなりはしない。こいつは野生の鳥だった。
長谷川が掴んでいる肩は男にしては細身で頼りなかったが、生きるも死ぬも自分の自由だと言わんばかりの強情なしなやかさがあった。
「そうか。……悪かった」
青年の目を今度はじっと見つめ返して長谷川は言った。
「もう言わない」
相変わらず感情の読めない目をし、わずかに沈黙を保ったあと、リクは小さく頷いた。
全ての交渉が終わったのだ。
長谷川の耳に、柔らかな水音と、名残蝉の声がゆっくり戻りつつあった。
知らず知らずに他の感覚をすべて遮断して集中していたのだと長谷川はボンヤリ思い、心の中で少しだけ笑った。
「リク! 長谷川さん!」
ガラガラのしわがれ声が、頭上から響いた。
崖の上を仰ぐと、身を乗り出してこちらを覗いている、蒼白い顔があった。
「玉城。いいところに来たね」
長谷川はようやく掴んでいたリクの肩から手を離し、できる限りの陽気な声を張り上げた。