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第16話 渾身と長谷川の無意識

落ち葉を踏みしだき、長谷川は山道を進んだ。

山道入口まで運んでくれたタクシーの運転手は「そんなスーツ姿で山登りですか?」と驚いたように言ったが、長谷川にしてみればそれほどの険しい山ではなかった。

パンプスで登るのは趣味ではないが、構ってる暇もない。そんなことよりも気になるのは、自分らしくない胸騒ぎと焦燥感だ。


先刻様子を見に行ったリクの家は鍵こそ開いていたが、いるはずの主も客も姿はなく、ただ描きかけのぞっとするほど艶めかしい少女が、キャンバスの中から長谷川を見ていた。

『ギャラリー無門館』にあった絵と同じ少女に違いないが、その美しさは禍々しいほどで、何かをおびき寄せようとする媚臭を放っているようにすら感じられた。


普段のリクの絵とはまるで違っている。

霊感など持ち合わせてないはずの長谷川にも、その薄ら寒さは伝わってくる。

この独特の感覚は、もうこの世に生を成していないモノから出てくる波動に他ならない気がした。


《鷹ノ巣山の渓谷》《その廃村に一緒に行ってくれませんか》

玉城が伝えてくれた新田奈津美の言葉が、長谷川の足を急がせた。


死んだと思われる少女の知り合いであるその女を、絵を使ってここまで誘い出したのはリク。

いや、リクに絵を描かせた某かに違いないと長谷川は思っていた。

一度推論を立てたら脇見はせずにその方向に一直線に進む。それが長谷川の性分だった。

そして今度ばかりはその推論に確信があった。


……あのバカは まだそんな厄介な彼岸のモノたちに良いように使われてるのか! 


50年ほど前に住民がすべて転出したという集落へ向かうべく、長谷川は更に足を速めた。

地理は等高線だらけの簡素な地図と、地元運転手の説明でおおよそを頭に入れていた。街でも森でも迷ったことは一度もない。

しかしこの山は渓谷だ。標高はさほどないが、山道に付かず離れず、ぱっくりと口を開けて断崖が並走している。

よくもこんなところに民家を作ろうと思ったもんだ。荒い水音を足下に聞きながら長谷川は思った。


さらに足を速めてブナの茂みを迂回すると急に視界が開け、初秋のまだ強い日差しが長谷川の目を刺した。

昔ここに人の暮らしがあったのだと物語る崩れた廃屋やコンクリートの基礎や雨ざらしの家電が、過去の亡霊のようにあちこちに点在し、雑草に埋もれている。


ふと風が変わった。リクが近くにいる。そう感じた途端、奇妙に胸が疼いた。

けれど疼きは次の瞬間、奇怪な罵声にかき消された。

女の喉から絞り出されたような不快な声が、周囲の空気を切り裂いた。

「消えろ! バケモノ!!」


体中の毛がザッと総毛立つ。

長谷川は飛ぶように声のした方向へ走った。


              ◇


意識が薄れていく中で、リクは確かに見た。

ゆらゆらと揺れる尾ひれは鮮やかな緋色。

巨大な岩と岩との間から触手のように伸ばされた鮮やかなひれが、水底に巻き込まれようとしているリクの頬を撫でた。

---さびしい 哀しい さびしい---


身動きもとれずにその緋色の金魚は嘆く。……いや、ちがう。金魚ではない。

赤い浴衣と帯を纏った少女だ。

つい先ほどまでリクの中に入り込んで強い思念を放っていた少女の、在りし日の体だ。

白く細い骨が激しい水の流れにも浚われず、岩の間に捕らわれ、16年もの間、眠っていたのだ。


------ さびしい 哀しい さびしい -----


声にならない声だ。

赤い触手が抱き寄せるようにリクの首に巻きつく。


……ごめんね あやの。君の友達は、連れて来れなかった。

ゴボリと水が喉に流れ込み、苦痛と共に少しもがいたが、冷たい闇はリクを絡めとって地上から遠ざけて行った。


                ◇


「させるか!」

地を蹴り白い水しぶきを上げ、崖下の滝壺に飛び込んだ長谷川は、すべての感覚を集中させ、目標を探した。


25秒前に落ちて行く人影を確認し、20秒前に逃げていく「女」とすれ違い、0.5秒で状況を把握し自ら滝壺まで滑り落ちた。

怒りはマックスだった。けれどそんな時の自分の体の使い方を長谷川は心得ていた。学生時代に鍛え上げた体は伊達ではない。

ザンと飛び込んだ水の中で全神経を集中し、捉えた目標をがっしりと捕獲。

意識が無いのは救助の上で幸いだった。

足場が確保できないため、その体をひとまず水中に残したまま自らが岩によじ登る。

男のくせにやけに細っこい手首を掴み、満身の力を込めて引き揚げ、動かない体を平らな岩盤の上に転がした。乱暴にするつもりなど無かったが、丁重に扱う余裕も無かった。


すぐさま気道を確保し、2、3発頬を引っ叩いて名を呼んだあと口元に耳を当てて確認したが、呼吸をしている気配は無かった。薄いシャツ一枚の胸も動きが無い。

鼻をつまみ顎をさらに反らせ、冷え切った口を自分の口で銜え込むようにして、息をゆっくり吹き込む。

『長谷川の肺活量は男顔負けだから、人工呼吸は手加減しろよ』と、高校のとき体育教師がからかって来たときは殴ってやろうかと思ったが、今は有難かった。

青年の肺を損傷させないようにゆっくり吹き込む。濡れた薄い胸が隆起してくるさまに神経を集中させる。

畏れや悲観は後回しだ。

一旦体を放し、そしてもう一度人工呼吸を繰り返したあと、指先で冷えた首筋の脈を探る。


触れた。呼吸は戻らないが脈が弱く触れた。

心臓マッサージは見送り、飛び込む前に自分が脱ぎ捨てたジャケットを手繰り寄せて青年の体に掛けた後、ゆっくりともう一度人工呼吸を繰り返す。

「リク! ほら起きろリク!」

触れた唇が更に体温を下げたような気がしたのに焦りを感じ、その頬をもう一度パンと叩いた時だった。

瞼が反応し、喉が動いた。

体を横に傾けてやると青年は呑み込んだ水を吐き出し、咳き込みながら呼吸を始めた。


うっすらと目を開けたリクをグイと仰向けに転がした後、長谷川はその顔を少々乱暴に両手でつかんだ。

安堵はすぐさま猛烈な怒りに変り、あっけなく臨界点を越していた。

「あんた、大概にしなよ!」


何でもない朝の目覚めのようにボンヤリした眼差しでリクが長谷川を見上げる。

木の葉の色を取り込んで緑がかった琥珀に輝く瞳を見下ろし、ようやく長谷川は自分にも正常な呼吸が戻ってきたのを感じることができた。


「あれ。……長谷川さん?」

リクが、目の前の不思議を小さく問う。

「長谷川さん? じゃないよ。久々の再会がこれじゃ笑えもしない。今でもまだあんたは霊だか物の怪に振り回されてんのか? いい加減に地に足を付けなよ!」

声を張り上げて叱り飛ばしながら長谷川は、リクの上半身を抱え込むようにしてグイと引き起こした。

拾った人形の傷み具合でも調べるように、頭や背中の外傷を確かめる。

左手の甲からの出血以外は幸い大きなダメージはなさそうだった。


「あの女をこんなところに誘って何しようとした? 幽霊の願い事を聞いてやるほどあんたはお人よしだったっけ? 彷徨ってる往生際のわるいやつらの声は、我が儘できりがないから聞いてられないって言ってたんじゃなかったのか?」

顔を掴まれたまま、子鹿のように邪気のない目で見つめてくる8歳年下の男に対する、訳の分からない感情の高ぶりはますます激しくなった。

じわじわとぶり返す安堵感と愛おしさに、その体を抱きしめてしまいそうになる衝動を抑えるのに必死だった。

「何とか言いなよ。口が聞けるようにもう一発殴ろうか?」


けれど目の前の死にぞこないの青年は、そんな長谷川の感情を知ってか知らずか、柔らかく笑った。

長谷川の体から一気に力が抜けていく。


「1年半ぶりだよね。長谷川さん」

「……」

「ちっとも変ってないね。ずぶ濡れだけど」

「あんたのせいだろ!」


いや違う。そんな事を言ってる場合ではないのに、と思いつつ、この青年の持つ独特の空気感に取り込まれて体が弛緩して行くのを止められない。

続いてやっと正常な聴力も戻り、すぐ横でせせらぐ水音が耳に届いた。

自分が落ちてきた崖を見上げ、少しだけ濁ってしまった水面に視線を戻し、ようやく状況を思い出したらしいリクが口を開いた。


「この水の中に、僕が絵を描いた女の子の体があった。16年前、仲の良かった新田奈津美って友達を追ってここに来て、誤って落ちたんだと思う。誰にも気づかれずにここで朽ちて行って。寂しくて仕方なかったんだろうね。少し前にこの場所に来た、僕の中に入ってきた。

ずっとずっと、水の底で奈津美さんに伝えたかったんだと思う。好きだったこと、忘れないでほしい事。

ただそれだけを、ずっと16年も……。でも、やっぱり最後は、ああなっちゃうんだ」


「ああなる?」

「奈津美さんは、この女の子にもう深い感情は失くしてて。だから大好きって気持ちは怒りになる。一緒に行こう…って、なる。止められなかった。ここまで僕の意識を持っていかれちゃうって思わなかったよ。人が人を求める感情って、あんなに強い物なんだって、改めて思い知った。ちょっと怖かった」


「ちょっとビビって、ついでに死んでたら世話ないよね。改めて言うけど、あんたは人間としての自覚が全然足りてない。その命、ひとつしかないって知ってるか?」

「説教?」

リクの目が、リクらしい表情を宿して細められた。


出会った頃の、人の気持に常に逆らう、扱いにくい野生児の目の色だ。

長谷川は懐かしいその色をしばらく見つめた後、自分でも正気の沙汰とは思えない言葉をつい口にした。

衝動というより、無意識だった。


「リク、シンガポールにおいで。もうあんた一人にして置けない」


ゆっくりと瞬きした後、緑を更に深く映し込んだリクの目が、長谷川を見つめた。

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