第15話 扉と境界
青葉の下で見るからだろうか。
目の前の青年の肌はまるで、思い出の中のあやのの肌のように白く透き通って見えた。
あやのの気配を感じるのは、この青年があやのと同じように現実離れした美貌と雰囲気を纏っているからに過ぎない。
奈津美はそう思い込むことにした。
すぐ後ろの崖下から、岩の間を流れ落ちる水音がする。
背水の陣。そんな滑稽なほど的外れの言葉が浮かんできて、頭の中がむず痒かった。
「私が開けるの? このドアを」
「嫌ですか?」
「嫌よ。16年も放置された死体があるもん。気持ち悪いじゃない」
奈津美は、半笑いで言ってみた。
ほんの一瞬、今まで悟ったような顔つきだった青年の表情が陰ったのが愉快だった。
「死体が入ってると思うんですね」
「そう。だって私が閉じ込めたんだもん。だから、あるんじゃないかしら。16年前の瓶詰めの金魚の死体が。想像するのも気持ち悪いじゃない」
「金魚……。閉じ込めたのは金魚なの?」
「そうよ。私の記憶に間違いがないならね。今となっては可哀想なことしたと思ってるけど、あやのの身代わりだったんだもん。忘れるための儀式だったの。中学生ってそんな馬鹿なことしちゃう時期なのよ。金魚と、赤い浴衣。あやのの思い出を閉じ込めて封印したの」
「本当は、あやのさん自身を閉じ込めたかったんですか?」
ミサキ・リクは、抑揚を付けずに静かに言った。
冗談なのかそうで無いのか、奈津美にははっきり分からず、少しばかり苛ついた。
「ええ、そうよ。本当はあやのを閉じ込めて封印してやりたかった。生きたまま閉じ込めて、誰にも触れさせないようにしたかった。だって、くやしかったんだもん。あんなに優しくしてやったのに、あっさり離れようとしたのよ。そんなの許せないじゃない。だからあやのを閉じ込めてしまいたかったの。瓶詰にして、この中に」
そこまで言って奈津美は一呼吸置いた。体の芯が熱く火照る。
「……って。そう言ったらミサキさんは満足なのかな。でも残念。私は16年前、ひとりでここに来て、あやのの赤い浴衣と、金魚を閉じ込めて帰ったのよ。ここに何が入っていても、私とは全然まったく関係ないの」
「金魚と浴衣を入れただけ……。でも今日、わざわざここに、それを確かめに来たんですか?」
「そうよ」
奈津美は半分挑むように、もう半分はこの奇妙な状況を楽しむように、リクをじっと見つめた。
例え記憶に混乱があり、この中に無残な骸があったとしても、奈津美がやったという証拠など何もない。捕まる可能性が無ければ、奈津美に不安は無かった。例え自分の犯罪であったとしても。
それよりもこの青年だ。
この内面の分からない青年の言動が怪しければ怪しいほど、その美しさが際立ってくるように思えてぞくりとする。
霊媒体質なのは信じてもいいが、この妙な落ち着きぶりが少しばかり癪でもあった。
一番恐れているモノがこの冷蔵庫から出てきたら、この青年は一体どんな表情をするのだろう。
どんな風にその顔を歪ませるのだろうか。
見てみたいと思った。
青年の凍り付く表情。
そしてこの小さな箱に眠る、16年前のあやのを。
けれど先に動いたのはリクの方だった。
「金魚の死体を見るのは辛いけれど、このままじゃ金魚も可哀想だから……。僕が開けます。いいですよね」
カサカサと乾いた枯れ葉を踏みしめ、青年は赤茶けた冷蔵庫に近づいていく。
本当は何も有りはしない。 そう思うのに、胸の中がざわざわと騒がしい。
あの中には溶けた金魚と丸めた赤い浴衣しか入っていない。きっとそんなオチだ。
奈津美の体から興奮と恐怖の混ざり合った汗が滲む。
リクの長く形の良い指が、鈍色のレバーを握って、ぐっと引く。
ギュイギュイと耳障りな音を響かせて、過去の空気と現在の空気が融合した。
鉄の箱の闇を夏の日差しが侵略する。
「……え」
けれどそこには、何もなかった。
気の抜けた奈津美の声が、背後の水音に溶けて消えた。
錆びた冷蔵庫の中には、本当に何もなかったのだ。
赤い浴衣も、赤い金魚の死骸の入った瓶も。
リクがゆっくり奈津美の方を振り向き、少しだけ肩をすくめた。
「ほ……ほらね。何もないじゃない。ミサキさんあなた、本当はちょっとだけビビってたでしょ。あやのの死体があるかもって」
思わず奈津美は早口で喋りだしていた。
「考えてみたら当たり前の事よね。本当に死体なんてあったら、ここを通った人が絶対に見つけてニュースになってるもん。この山ってけっこう登山客多いみたいだし。ね、言った通りでしょ。私は16年前の夏、一人でここに来たのよ。行方不明になった日は偶然にも一緒だけど、あやのはその日、私の知らないところで勝手に行方不明になって、勝手に死んじゃったのよ」
緊張が解けた勢いからか、甲高い笑いが奈津美の喉から溢れだした。
死んでしまったかもしれない少女への憐憫など、その笑いの中には微塵もなかった。
衝撃のご対面は無かったが、自分が狂ってなどいないことに奈津美には本当のところホッとしていた。
刺激と安心は同時に手に入りにくいのだ、と心の中で笑ってみる。
けれど、背後から聞こえてくる水音が突然ふっと消え去り、その奇妙な感覚に奈津美が視線を彷徨わせた時だった。
〈金魚を にがしたの〉
鈴を転がすような優しい囁きが、風のように奈津美の鼓膜を震わせた。
「え?」
どこから聞こえて来たのか探る様に奈津美はぐるりと首を巡らせた。
ほんの一瞬、奈津美の目を静かに見つめる青年の琥珀の瞳と、視線がぶつかる。
「今の声…、聞こえた?」
けれどその琥珀の瞳はほんの少し潤んだ後、奈津美を交わし、再び水音を響かせ始めた崖の方へ流れた。
同時に奈津美の背中がぞくりと泡立った。また声がしたのだ。
〈あやのの身代わりの かわいそうな金魚を 逃がしてあげたんだよ。
でも 自分まで落ちてしまった。 暗くて冷たくて身動きができない水の中に。
寂しかった。 ずっと ずっと〉
「な……なに? 今の声、なに? ふざけるのはやめてよ、ミサキさん」
半笑いでそう言ってみたが、なぜか声が震えた。答えを求めるように、視線を逸らせたままのミサキ・リクをじっと睨む。
奈津美の方にゆっくりと視線を戻した青年の瞳から涙がこぼれ落ちた。
〈あやのが死んだこと 悲しんでくれたんなら それでよかった。でも そうじゃなかったね〉
こんどは青年の唇が微かに動いたが、その声はどこか中性的な声であり、そしてなによりその喋り方、イントネーションは間違いなくあやののものだった。
頭からすっと血の気が引く思いがして、奈津美は後ずさる。けれどその腕を青年の手が捉えた。
〈行こうよ 奈津美。 ひとりは寂しいよ〉
掴まれた腕をぐいと強く引かれた。
ニヤリと笑ったその青年の中にいるのが誰なのか、もう疑いようもなかった。
青年がふざけているなどという範疇を超え、その話し方も笑い方も、すべてが「あやの」なのだった。
ここにいるのは、紛れもなくあやのの魂なのだ。
「ちがう。あやの、違う、私は……」
けれど実体は青年のものだ。細身だが力強い。
ぐいと引かれた体は抵抗も空しく、あっけないほど軽々と崖の方に引っ張られていく。
木製の柵も杭もすっかり朽ち果て、体を落下から食い止めるものは何もなく、目の前には奈落が口を開けて待ち受けていた。
こんなところで幽霊と心中なんて馬鹿げている。冗談じゃない!
奈津美は崖っぷちの枯れた枝を引きちぎると、自分の手首をつかんでいる青年の左手に思いっき突き立て、喉が裂けるほど大声を張り上げた。
「消えろバケモノ!」
◇
脳天を突き抜けるような痛みと、鼓膜を割くような甲高い声で、リクは我に返った。
飛ばされていた意識を慌てて取り込んだが、状況は把握する限り最悪だった。
半歩うしろに地面は無く、鬼のような形相の新田奈津美の手首を掴んでいる自分の手は真っ赤に染まっていた。
もう落ちていく力を止めることは出来ない。
自分の動きを支配していた念の力を振り切り、掴んでいた奈津美の手を離すのが精いっぱいだった。
「消えろバケモノ!」
周囲の緑がぐるんと反転する中で聞いた奈津美の怒声が、リクの中に入り込んでいた少女の最後の心の名残を、打ち砕いて霧散させた。
自分の感情とは関係なく噴き出した涙は、悲しい少女の最後の言葉だったのかもしれない。
落ちていく一瞬にいろいろ考えられるほど器用でもなく、ただほんの刹那よぎったのは、「あ、またやっちゃったな」という自嘲だけだった。
重力を全身に感じ落下する。
何かにぶつかる感覚は無く、ザン と、冷たい闇が全身を包み込んで呼吸が出来なくなった。
痛みも恐怖も感じない。
光の領域から切り離され、死者の住まう闇に落ちていく。
どこまでも深く冷たく静謐な闇に抱かれ、思いがけず安堵してリクは、瞼を閉じた。