第14話 断罪の森
日暮れまでに山を往復するならば、ゆっくりしてはいられない。
奈津美は来た道を足早に引き返した。
先ほど飛び出したログハウス調の一軒家まで戻ると、木製の玄関ドアに所在なくもたれるリクを認め、奈津美は心の中でニンマリした。
電話で返事は無かったが、了解して奈津美を外で待っていてくれたのだろう、と。
奈津美をすっかり受け入れてくれた青年に対する好感が、じんわりと増してくる。
砂利を踏んで音を立てた奈津美と、リクの視線が合う。
「待っててくれたのね。これからすぐに、一緒に行ってくれる?」
そう訊くと、青年はしばらく真っ直ぐ奈津美を見つめた後、少しばかり首を傾げた。
まるで聞きなれない人間の言葉を聞き取ろうとする、垂れ耳の犬のような仕草だ。
「鷹ノ巣山の廃村よ。あなたそこであやのを見たって言ったでしょ? 私が16年前の夏に行ったあの場所かどうか、確かめたいし。一人じゃあ山道は心細いのよ。一緒に行ってくれるわよね。電話でそう伝えたでしょ? だから待っててくれたのよね、家の前で」
少しイラッとしながら、もう一度念を押すように奈津美が言うと、リクはまるで今始めてそれを聞くような目の動きをしたが、やがて笑って頷いた。
ルックスは神がかり的に完璧なのに、どこか野山にいる草食動物を思わせる。変わった男だ。
奈津美は小さく息を吐いて、リクの腕を掴んだ。
山に入る道を歩く間、二人とも終始無言だった。
奈津美としては、16年前の自分の行動が記憶に合致しているのかを確かめたい気持ち半分、そしてこの画家と密やかな森の散策をしてみたいという気持ちが半分だった。
では、いったいこの青年は何を思い、今この山道を歩いているのだろう。
普段はあまり他人を気に掛けない奈津美だったが、感情の起伏を感じ取れないこの青年の横顔を、歩きながらそっと盗み見る。
道はなだらかだったが、少しずつ標高は上がり、どこからか沢の水音も聞こえる。
単なる山道では無く、渓谷沿いの道なのだと思い出す。
そういえば始めてあやのとあの廃村を見つけたとき、「こんな不便で危ない場所に家を建てるなんて信じられないよね」と笑いあったのを覚えている。
13歳の奈津美は心臓の弱いあやの手を引っ張るようにしてこの山に連れてきたのだった。
握った手指の細さ、柔らかさ、白い肌、すぐに弾んでしまう息づかいが艶めかしくて、半ばうっとりと楽しみながら奈津美はあやのを導いた。
なんでも言うことを聞く私だけのお人形。あやののことを、そんな目で見ていたことが思い出される。
そこまでは鮮明に思い出される。しかし。
二度目に来た時、そこにあやのは一緒にいたのだろうか。あり得ないはずなのに、否と言えない自分が恐ろしかった。
「ミサキさんは、幽霊とかお化けとか、信じるタイプの人なのね」
黙っていることが退屈になって、奈津美は口を開いた。話題は何でもよかった。
「私、そういう話をする人って胡散臭くって嫌いなんだけど、なんだろうな、ミサキさんの話は素直に聞けるのよね。本当にそうなのかもしれないって思えてくる。そう思ったほうが、すべてがしっくり来るっていうのもあるけど」
リクは足を止めず、表情も変えずに奈津美をちらりと見てきた。
「信じる信じないは奈津美さんの自由です。僕はただ、事実を話しているだけだから」
「そうね。信じてあげても良いわよ。あなたは16年前に行方不明になって死んだあやのの幽霊に出合って、その絵を描いた。うん、悪くないわ」
自分でも半信半疑な気持ちを弄びながら、奈津美は言った。
隣でリクが小さく笑ったのが少し気にくわなかった。
「でもね、あなたが幽霊に出会った場所が何であの廃村なのかが気になってる。だってそれってまるで、16年前にあの場所であやのが死んでしまったって言ってるように聞こえるから。16年前、あやのが居なくなった日、私は確かにここに来た。でも、一人だった」
「だけど奈津美さん、それも半信半疑なんでしょ? だからそれを確かめたくて今、この道を歩いている」
「あなたが疑ってるように思えたから。あやのの幽霊に何を聞いたのかしらないけど」
リクは歩く速度を変えずに、静かに笑った。
「残念ながら、なにも。彼らはこちらが聞きたい情報を教えてくれるほど親切ではありません」
「不便ね。……ねえ、もしもあやのの遺体が廃屋のどこからか出てきたら、どうする?」
その質問はスルーされて、奈津美は少しばかり苛立った。
「私を警察に突き出す?」
「奈津美さんを?」
「16年前の私の罪として」
「罪を犯したんですか」
「そう思ってるんでしょ? こうやってついてきてくれるのも、それが知りたいからでしょ? あやのの幽霊がいるにしても、いないにしても」
「さあ。僕は過去の事は分からないから」
「そうよね。幽霊に聞いたとか言ったら、頭が可笑しいとか思われちゃうもんね。なんかちょっと安心した」
本当は安心などではない、半信半疑の靄に包まれたまま、結論の導き出せない言葉のやり取りを続けながら、奈津美はリクと共に森の奥深くへ分け入っていった。
「あやのの幽霊は、本当にあの浴衣を着ていたの?」
どこかで常に水音が響く。緑が濃くなっていく。
「鮮やかな色でした。誰かを待ってるように廃屋のそばに佇んでいました」
「でもそれって変よね。あの桔梗柄の赤い浴衣は、あやのに貰って、私がずっと持っていたのよ。あやのが袖を通したのは一回きりなのに。化けて出たあやのが浴衣に執着してたなんて思えない」
そうだ。あやのの部屋で、神聖な儀式のようにその白い裸体に羽織ってやった。
自分が何をされても頬を染め、恥ずかしさに耐えていた無垢なあやのが可愛くて抱きしめた。
か弱いこの個体は隅々まで自分の物になるのだという予感に満たされていた数ヶ月間が、じんわりと奈津美の脳裏に蘇り、懐かしい疼きに変った。
「あなたを待っていたんだと思う」
答えになっていない言葉を、ミサキ・リクはポツリとつぶやいた。
「え?」
「あなたをずっと。この森で。冷たく暗い場所で動けなくなっているイメージが、僕の中に飛び込んできて、僕自身が辛くなるほどだった。追い払っても戻ってくる。何度か経験があるんだけど、こう言うときは絵に描いてしまわないと、頭の中から出て行ってくれないんです。いったいこの少女は誰を求めてるんだろうと思っていたところに奈津美さんが現れた。絵を見て、知っている子だと言った。それでやっと分かったんです。あの女の子は奈津美さんを待っていたんだって」
完全に信じてはいないはずだったのに、寒気がした。
この男は嘘を言っていない。直感だがそう思い、それと同時に森中の木々の葉の裏全てから、あやのの視線を感じて脂汗が吹き出た。
いや、あやのがいるのは冷たく暗い場所なのか。
「ここでしょ? 奈津美さんが16年前、最後に来た場所って」
顔を上げるといつの間にか開けた空間が広がっており、壁の崩れたあばら屋が目の前にあった。
落ちて砕ける水の音が、記憶に重なる。確かにここだ。
あやのとかくれんぼをした大型冷蔵庫が、錆びた姿を晒し、柱と壁の一部だけになった廃屋の一角に佇んでいる。
あやのが失踪したのと同じ日、奈津美はここに来て、赤い浴衣と赤い金魚を閉じ込めた。
外からしか開かない、レバー式の冷蔵庫に。
「開けてみますか?」
抑揚のない声でミサキ・リクが問う。
冷蔵庫の事など一言も言っていないのに、ミサキ・リクが見つめているのは紛れもなくその大型冷蔵庫なのだった。
木々の緑を映したアンバーの瞳が、まるで断罪するように奈津美を見た。