第13話 厄介な体質
リクの家を飛び出した奈津美は、胸のざらつきが鎮まらぬまま、都内とはもはや思えない雑木林沿いの国道を歩いた。
あの絵があやのの霊を描いたものだなどという冗談を、当然笑い飛ばしてしまうつもりだった。
思い返すほどバカバカしく、到底あり得ない話だった。
けれどあの青年はあやのと奈津美しか知り得ない秘密をいくつも知っていたのだ。
桔梗柄の赤い浴衣も緋色の金魚も、朱の帯も。そして森の中の廃村も。
もしかしたらあやのは生きていて、あの男が匿っているのでは、という考えも浮かんだが、それこそ幽霊話よりもあり得なかった。絵などかいてアピールする馬鹿はいない。
元より奈津美は16年も前に行方不明になった少女が生きているなどとは思っていなかった。
そして霊という存在を、真っ向から否定するほど現実主義者でもない。
あの青年に、本当に霊感という感覚が備わっているとしたら、まだそちらの方が納得がいくのだ。
有り得ないと分かっているのに取捨選択すると、結論はどうしてもそこに落ち着く。
あの絵は、死んだあやのの幽霊なのだ、と。
だとしたら、どうなる?
あやのがあのシーンを画家に描かせた意味は?
「あやのさんの失踪の理由を知っているのは、あなただと思っていました」とあの青年に言わせた理由は?
こうなったら、もはや確かめなければ気持ちがどこへも進まない気がした。割り切った途端、新たな欲求が鎌首をもたげた。
自分の記憶の真偽を確認したい欲求。あやのの最後を知りたいという欲求。
そしてそこに、ますます不可思議なミサキ・リクという青年の探求と言う欲求が合わさった。
奈津美はJRの駅に向かう足を止め、来た道を引き返した。
不安が無いわけでは無かった。
もしも16年前の自分の行動の記憶が誤りで、あやのの失踪の原因が自分にあるのだとしたら、やはり気味のいいものでは無かった。
今まで犯してきた、遊び程度の窃盗やスリとは訳が違う。
金魚や小鳥をひねり潰すのとは訳が違う。
すべての罪を見つめていたあの森の、あの廃村に、自分一人で確かめに行くのは気味が悪かった。
あの廃屋の、あの旧式冷蔵庫の扉を開けるのは、自分には無理だ。
そこに目を覆いたくなるものが格納されているかもしれないと想像しただけで気が萎える。きっともう、美しくもない塊だ。
その扉を開けるのは自分じゃ無い。
そうだ、適任者がいるじゃないか。最高の道連れが。
奈津美は歩きながら携帯を取り出した。登録したばかりの番号を呼び出す。
彼なら不足は無かった。
“自分”という人間の正体を突き止める瞬間の、立会人として。
◇
ベッドの脇に転がっていた携帯が突然沈黙を破って鳴り始め、うつらうつらしていた玉城は夢世界から叩き出された。
リクが昨夜忘れていったものだ。
玉城はまだ微熱が残る腕を伸ばし、バクバク鳴る心臓をなだめながら手に取った。
ただ単純に、リクに電話を掛けるのは誰だろうと気になっただけなのだが、そこに表示された名を見てガバリと上半身を起こした。
掛けてきたのは新田奈津美だ。
通常なら他人の電話になど出ることはないのだが、相手があのスリ&暴言女であれば話しは別だ。
何か言ってやらねば気が収まらなくなり、玉城は通話ボタンを押した。
けれど玉城の第一声は風邪のためカスカスになり、乾いた枯れ葉のようなただの雑音になった。
そんなものを無視して電話の向こうから聞こえてきたのは、まだ記憶に新しい新田奈津美の甲高い声だ。
『さっきは飛び出して来ちゃってごめんなさいね。だってミサキさん、いきなりあんなこと言うからびっくりしちゃって』
かなりしおらしいが、間違いなく昨日のあの女の声だ。
玉城は前のめりになり、携帯をぐっと握った。
リクは一体この女に何を言ったのだろう。
『あやのが生きてるなんて私も思ってないけど、いきなりあれが幽霊の絵だなんていうから』
携帯を取り落としそうになって玉城は慌ててそれを掴み直す。
そんな話をこの女にしたのか! と喉元まで出かかった叫びを我慢した。
嫌な汗が全身に噴き出す。
『あなたが描いたあの絵が、16年前に行方不明になったあやのの幽霊だなんて、すんなり信じるのは無理があるけど。でも、そう考えればすべての辻褄が合うのは確かなのよね。
ミサキさんが、あの森であやのに出会ったって言うのも、納得がいく。もちろんすっかり信じるのは難しいけど。
でもね。今はあなたに霊感があるかどうかよりも、知りたいことがあるの。16年前、私はあの廃村に、本当に一人で行ったのか。そこにあやのは居なかったのか。
あなたがあやのの幽霊を見たのは、確かにあの鷹ノ巣山の渓谷のそばの廃村でしょ?
あやのとの思い出を封印しに行ったのは覚えてるのに、記憶が曖昧なの。あそこに行けば、いろいろと思い出すと思うの。だけど……やっぱり一人では怖くて。
ねえ、ミサキさん。一緒に行ってくれるわよね。お願い、今ここで嫌だなんて言わないで。
私、今からそっちに戻ります。どうか、待っててね』
返事など聞く気も無い様子で、電話は速攻そこで切られた。
あんぐり開いたままだった口を閉じ、玉城は沈黙してしまったリクの携帯をじっと見た。
今聞いた内容を、回らない頭で何度も反芻してみる。
なにか、重要なワードがたくさんあったように思える。
危険なサインがたくさんハマっていたように思える。
16年前に消えた少女。生きている見込みの無い少女。リクはその少女の絵を描いた。
それは新田奈津美の知り合いで、その失踪に新田奈津美は関わっているかもしれない。
記憶が曖昧?
リクに、一緒に行けと言っている。
何をしに。
なぜリクに一緒に行こうと誘うのか。
玉城はもう一度あんぐりと口を開けた。
「リクが、新田奈津美が絵の少女を殺した事実を知ってしまったから……」
迂闊だと思った。新田奈津美を引き寄せた『絵』というのが、そういう種類の絵だったとは。
リクは数年前に、同じく死んだ少女の霊体を絵に描いた。
あの時はその少女の念がリクに訴えてきたのだと言っていた。
--- わたしの体を描いて 映し出して その体を探して ---
今回もそうだとしたら。
死者の念が、本人の気付かぬ間にリクを動かしているのだとしたら、新田奈津美が絵に誘われ、リクに近づいたのも必然なのかもしれない。
リクは未だに、霊の思念から自分の身を守る術を身につけていない。
「また良いように使われてんのか、おまえは!」
勢いよくベッドから立ち上がったが、病み上がりで萎えた足がふらつき転倒し、肩をしこたまローテーブルに打ち付け、一人悶絶する。
痛みが治まるのを待ってから自分の携帯電話を掴み、電話をかけた。
こう言う時あの人物を頼ってしまうのは、相変わらず成長が無いなと自嘲しながらコールを聞く。
そしていつもと同じように、相手の声は不機嫌だった。
『今電車の中なんだ。切るよ』
もっともな言い分だ。
「長谷川さん。喋らないで良いから聞いてください。新田奈津美がこれからリクの所に行くつもりらしいです。いや、一回行って、ちょっと揉めてリクの家を飛び出したみたいなんですが。いや、それはどうでもよくって…あのね。要は、彼女がリクにつきまとってるんじゃなくて、もしかしたらリクのほうがすべて仕組んで呼び寄せたかもしれないんです」
『……どういうこと?』
◇
玉城の電話を聞き終えた頃、電車は終着駅に着いた。
「また連絡する」そう言って電話を切り、改札を出た長谷川はすぐさまロータリーでタクシーを探した。
けれども規模の小さな片田舎のその駅に、あいにくタクシーは1台も停まっていなかった。
バスの時刻表で15分後発の便しか無いことを確認後、すぐさま駅舎の壁にあったタクシー会社の番号にコールする。
車を待つ数分間に、たった今玉城から聞いた内容を反芻し、長谷川は渋面を作った。
島津の言葉から、新田奈津美はセコい窃盗を繰り返す、手癖の悪い女くらいにしか思っていなかったのだが、そうでは無かったのだろうかと。
リクは16年前に行方不明になった少女に酷似した少女の絵を描き、結果的に奈津美を呼び寄せる形になった。
死んだ少女は奈津美の大事な友人であり、そしてリクは稀に死者の残像を描く。
別人だと思うのは不自然で、そしてこの出会いが偶然と思うには、出来すぎている。
死者の意思が、関わっている。
リクを知るものなら、容易く導き出せる答えだ。
タクシーがゆっくりロータリーに滑り込み、長谷川は素早く乗り込んだ。行き先と、急いでいることを告げる。
あの青年は霊媒体質だ。死者から何らかのメッセージを受け取っているのか、それとも知らず知らずのうちに操られているのか。
後者であれば一体危険なのはリクなのか、それとも新田奈津美なのか。
まったく何という面倒くさい体質なのだ。
長谷川はのんびり車を発進させた、やる気の無さそうな運転手に、掴み掛からんばかりの勢いで背後から怒鳴った。
「急いで!」