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第12話 染み出す

長谷川が握りしめた携帯から聞こえてきたのは、やはり落ち着きのある深いバリトンだった。

この男は寝ぼけた声など出さないのだろうかと頭の隅で思いながら、長谷川は要件を伝えた。


『新田奈津美について教えて欲しいと? その名をどこで?』

電話越しの島津の声が、わずかに警戒心を含んだものに変る。

けれど長谷川は続けた。


「あなた、盗犯担当の刑事でしたよね」

『……長谷川さん、何を調べてるんですか』

「質問そのまんまです。新田奈津美という少々手癖の悪そうな女について教えて欲しい、それだけです。

彼女は危険人物なのかどうか。どんな余罪があるのか」

『なぜ僕に?』

「あなたは少々電話口の声がよく通り過ぎる。美声は刑事にとって美徳ではないようですね」


電話の向こうで可笑しそうにクスリと笑う気配があり、再び落ち着いた声がそれに続いた。

『あの8時間で、僕が口の軽い男だと思われたのなら残念です』

「ボンドガールが色仕掛けしたって機密は漏らさない方だと思っていますよ」

『光栄です。ただ僕も打算が無いわけじゃない。あなたにその女の情報を流すことで、こちらに何か実入りがあるのなら、考えないでもありません』

「残念ながらこちらにそんな情報はありません。今の所はね。けれど私の身内の周辺でうろちょろしているその女の挙動が、なにかそちらの役に立たないとも限らない。些細な事でも逐一あなたに報告しましょう。それでどうです?」

『その女、あなたを怒らせるようなことを?』

「本気で私を怒らせるような事をする前に手を打っておきたくて、こうして電話してるんです。ついでに言ってしまえば、あまり時間がない。電話でお聞きできないのならあなたのマンションに押しかけてもいいんですが、その時間も惜しい」

電話の向こうで島津は可笑しそうに笑った。

『あなたに押し掛けられるのも楽しそうだが、あいにく今ベッドの中なもので。わかりました。役に立つ情報かどうかはわかりませんがお教えしましょう。あなたならエビを鯛に変えてくれそうだ』



なんだ、確かにエビだな。

島津が提供してくれた新田奈津美の情報を聞きながら、長谷川は少しばかり鼻白んだ。


新田奈津美、29歳。都内の量販店の事務員。参考人としての事情聴取は数知れないが、前科なし。

3年前に獄中で死亡したハコ師の一番師弟として名が上がっており、幾度となくスリの捜査線上に浮上するも、決定的証拠がつかめず。

スリ、窃盗の現場に居合わせた事は数多く確認されているだけに、常に担当捜査員を苛つかせる。署員に『女狐』とあだ名で呼ばれる要注意人物。


『長谷川さんは人の口を割らせるのが上手い。奥さんにするのは怖すぎるが、うちの課には是非とも欲しい戦力ですね』

笑いながらそう言った島津に長谷川は礼を言い、「刑事を続けられるなら、そのよく通る声には気をつけた方がいい」と一言添えて、電話を切った。


島津の情報から推測すると、玉城の財布をスッたのは新田奈津美に違い無さそうだが、普通に会社勤めもしていて、心配したほど精神的に特別危険な要素は無さそうに思えた。

ただのこそ泥。

純粋に行方不明になった知人によく似た娘の絵の美しさに惚れて、ほしくなった。そんなところだろうと推測した。


……行方不明になった知人によく似た娘の絵。……否。

美しかったにしろ、気になったにしろ、そんなものを金を出してもう一度描いて貰おうと思うモノなのだろうか。

もしもリクに興味があるなら別な絵でもいいはず。行方不明……いや死んだかもしれない娘に似た絵に、なぜ固執する?

一度訪れた安堵が、再び薄れていく。

長谷川は足を速め、リクの家へ向かうべく駅の改札を抜けた。



            ◇


「あやのさんがいなくなった理由を知っているのは、あなただと思っていました。奈津美さん」

ミサキ・リクはキャンバスの横に佇み、柔らかな笑みを浮かべたまま奈津美に言った。


「は? 何で? 知るわけ無いじゃない。あやのが消えたのは引っ越して行った後なのに」

奈津美は抗議のつもりで青年の、男にしては華奢な手首をぎゅっと強く掴み直す。

自分を見つめてくる琥珀の、ガラスのような目に一瞬力がこもったように感じた。


「ミサキさんこそ何で16年前に消えたあやのを知ってるのよ。写真を持っていたの? それほど親しい知り合いだったの? 他人のそら似っていうのはナシよ。その浴衣も帯も、確かにあやのの物に違いないんだから。でもあやのがその浴衣を着て写真を撮ったことは無いはずなのよ。私が着せてあげた一度きりなんだもん。あやのの口からそのことを聞かない限り分かりっこ無いはずなのに。あの浴衣だって、結局は私があの冷蔵庫に閉じ込めて……。ありえない。浴衣の柄まで一緒なんて。いったいいつあやのに会ったの?」

掴んだ手首を更にぐっと握るが、その画家は嫌がりもせずじっと腕を奈津美に預けている。

けれど体温が低い人間なのだろうか。じわじわと奈津美の手の中で、その手首はひんやりと冷えて行く。

ゾクリと鳥肌が立ち、奈津美はその手首を放した。


「ええ、この絵の子はきっとあやのさんなんだと思います。僕はその子が生きている間に会ったことがありませんし、名前も知りませんでしたけど。きっと、あやのさんに違いない。

僕はある森の中の廃村で、その浴衣に身を包んだ女の子に出会って、その姿を描いただけです。何だかとても、強烈に僕の中に投影されてしまったから」


「……は? なんて?」

「無口な子ですね、あやのさん。でもとても意思が強くて脳裏から抜けてくれない。だから描くしか無かったんです。時々僕の方が誘導されてしまう。描くまで解放してくれないんです」


「ちょっ。ちょっと待ってよ。それってまるで幽霊を描いたって言ってるみたいに聞こえるけど」

「幽霊。……どうなのかな。霊体って言う方が正しいのかもしれない」

「そんなのどっちでもいいわよ! ねえそれって、私をからかってるの? だったら本気で怒るけど」

「あやのさんがもう生きていないことは、奈津美さんも予感してらっしゃるでしょう? 失踪から16年経ってる。僕がこうやってあやのさんの絵を描いている理由が、それで一番スッキリ説明出来ると思うんですが」


穏やかな口調で語るリクを、しばらくポカンと口を開けて見つめた後、奈津美は溜息交じりに笑った。

「残念だけど、おもしろい冗談じゃ無かったわね。失踪した私の友人の話に絡めて作った速攻芝居なんだろうけど、ちっとも笑えない。あいにくね。あやのがもう生きていないことは予想できるけど、そんな冗談をかぶせて来るなんて人間として最低よね」

奈津美はドスンと派手に二人がけソファに腰を下ろし、腕組みしてから青年を見上げた。

「二度とそんなつまらない嘘、やめてちょうだい」


ぐいと下から睨み上げると、ミサキ・リクはほんの少し思案するように視線を逸らし、しばらく目を細めて窓の外を見つめていたが、やがて再びその静かな目をゆっくり奈津美と視線と重ねた。

不意打ちのようにその時、奈津美の心臓がドクンと反応した。

奈津美を見つめる青年の瞳が、褐色がかった琥珀から、燃えるような緋色に変わったように見えたのだ。

青年がゆっくり口を開く。


「あなたの事が 好きだったんだと思う」

吸い込まれるように澄んだ声だった。


「森の中の廃村。楽しい記憶。唯一の友達。嫌われたくないって、すごく焦ってしまった」

まるで脳に染み入ってくるような声だ。

ほんの一瞬体の緊張が緩んだ隙に奈津美は勢いよく立ち上がり、再び青年の腕を掴んでグイと引き寄せた。

「何? 何のつもり? 誰のことを言ってるのよ!」

「死んでから時間の経った人間の念は、筋道を立てて物事を伝えてくれないから、間違っていたらごめんなさい。でもあなたは本当のところ、あやのさんの最後を知ってるんじゃないですか?」

青年の目を見つめる奈津美の頭から、貧血時のように血が下に降りていく。


そんなはずない、と思った。

あやのが引っ越すと言った日、腹いせのようにあやのの記憶が染みついた赤い浴衣と赤い金魚を、あの廃村へ持って行き、一緒に隠れて遊んだ大型冷蔵庫の中に閉じ込めた。


一人で行って、一人で帰ってきた。たしかにそう記憶している。

閉じ込めたのは、赤い桔梗の柄の赤い浴衣。そして、まだ元気に泳いでいた尾ひれの長く美しい金魚一匹。

「可哀想だけど、お前はあやのの身代わりだからね」

私を裏切って私から離れていったあやのの身代わりだから。


―――本当ハ アヤノヲ 閉ジ込メタカッタ―――


小さなジャム瓶の中で泳ぐ金魚に笑いかけ、もう一度ギュッと蓋を閉め、先に丸くなって入っていた浴衣の横に置き、冷蔵庫のドアを閉めた。

内側からは決して開かない、冷蔵庫のドアを。


間違ってなんかいない。

あやのは 一緒じゃ なかった。 そのはずだ。

そう思った途端、16年の莫大な時間を巻き戻すような、ざらりとした不快感が胸を突き上げた。


本当にそうなのか? あの時の自分は正気だったか? そもそも、あの頃の自分は 正気だったか?


美しい金魚が闇に飲み込まれ、酸素と光を奪われ、そして誰にも看取られずに息絶えるのを思い、あの時の自分は体の芯を熱くしていた。

時折脳内で、その金魚の身悶える姿は、赤い衣をまとったあやのの幻影に変る。

水の中でゆらぐ白い肌。紅の唇。小さな赤い舌。

美しい物をこの手で保管したという充足感に満たされ、裏切られた憤りが薄れていくのを感じていた。

13歳の奈津美の人並み外れた欲求は、今の奈津美の中にもちゃんとある。

人よりも強い執着心、猟奇じみた独占欲。


あの日、あやのは いなくなった。


リビングの隅の棚に乗せてあったガラスのボウルの中で、再びキラキラした赤い物が揺れ、そしてピチャと跳ねる。

ミサキ・リクの冷ややかな視線に、あやのの面影が重なったように思え、奈津美は大きく身震いして屋外へと飛び出した。


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