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第11話 辿る

ギャラリー『無門館』は、相変わらず質のいい光と雰囲気を整えていた。

一歩その空間に足を踏み入れ、長谷川はほっと息をついた。

開店してすぐだったせいか、客は誰もいなかったが、二日酔いの朝にはそれが有難かった。

外の暑さを一瞬で忘れ、代わりに2年前、初めてミサキ・リクに会ったのもこの場所だったな、などと他愛もないことを思い出す。


いつ訪れても才能ある若いアーティストたちの作品が並んでいたが、さっと視線を走らせただけでリクの絵は見分けがついた。

ひねくれ者で嘘つきで、自分にも他人にも素直ではないあの青年の描く絵は、繊細さとダイナミックさを併せ持ち、見る者の呼吸を一瞬止めるのだ。


----- 緋色。


長谷川は、窓辺に飾られた一枚の絵を見て息を呑んだ。

だが、これは……?


「あれ、長谷川さん! 日本に帰られていたんですか?」

奥から歩み寄ってきたオーナーの佐伯は、久々の長谷川の帰国を心底喜ぶように、人のよい笑顔を見せた。

“英国貴族の屋敷の執事長”という、多恵の形容が、やはり一番ピンと来る。


「佐伯さん、リクの絵はあの一枚だけ?」

「ええそうなんです。その絵も非売品なので外さなきゃならないのですが、やっぱり無いと寂しくてね」

「へえ……」

長谷川はその少女の絵に再び視線を走らせた。なぜ非売にしたのだろう、と訝りながら。


「相変わらず気まぐれな人で、ちっとも描いてくれないんですよ。売るつもりのない絵を描いたかと思えば、今度はその非売品の絵を欲しがる客に、同じ物を描く約束をしてしまうし。この私を介さず、直で仕事を受けられたのは初めてのことですよ」


いつになく不機嫌そうな声を出す佐伯が可笑しくて、長谷川は笑った。

「あなたらしくもない。絵描きなんてみんな気まぐれなものだとおっしゃってたじゃないですか。誰に絵を描くか決めるのも絵描き本人だし」

「それはそうなんですが。でも妙なんですよ、今回のリクさん。客にもマスコミにも、自分のプロフィールや個人情報は極力明かしたくないと仰ってたあの人が、今回の女性客に限っては、メルアドやアトリエの場所まで教えてしまうんですから。今までのリクさんじゃ、ちょっと考えられない」


「住所まで?……まさか。あんなに警戒心の強いあいつが。女性客だから気をゆるしたのかな。それとも好みのタイプだったとか」

「それは無いと思います」

きっぱりと言って佐伯は続けた。

「別にそういうことならそれでいいんです。リクさんだって男だし、そんな気になる事だってあるでしょう。でもあの女性はそういうんじゃない。何というか、こう……」

「佐伯さん的に、気に入らない?」

更にイライラを増していくように見える佐伯に、長谷川は肩をすくめた。

何にも動じない、うろたえない、穏やかなイメージを持つ佐伯が、今は誰かに愚痴を聞いて貰いたくて仕方の無い小娘のように口元を尖らせている。

少しばかり長谷川は気になった。

「その女性客って、どんな人だったの?」



          ◇


長谷川はギャラリーのドアを抜け、炎天下を歩きながら携帯を取り出した。

アドレスからリクの番号を探す。

佐伯の説明は、まるでその歯がゆさが感染してしまったかのように、長谷川を落ち着かない気分にさせた。

佐伯は、女がリクの家まで押しかけるのではないかと心配していたが、リクの事だしそれはきっぱり拒否するだろうと長谷川は楽観していた。


長谷川が気になったのは別のことだ。

佐伯が教えてくれた女性客の名を、どこかで聞いたような気がしたのだ。

それも、あまりよくないシチュエイションで。

そしてもう一つ。その女性客がリクの描いた少女を知っていると言ったことも引っかかった。


少女をモデルになどほとんどしないリクが、過去に一度だけ、少女の絵を描いたことがあった。

後に玉城が、あれはもうこの世にいない少女の霊体を描いたものだったという事を長谷川に語ってくれた。

リクに強い霊感があることも、合わせて。

その手の話は疑ってかかる長谷川ではあったが、ミサキ・リクという人間を知るにつけて、そのことは自然なこととして長谷川にも受け入れられるようになっていった。

そしてそのあとの、この世のものでない輩に苦しむリクを、玉城とともに見守り、時に全力で守ってきたのだ。リクの傍に居られた間は。


久しぶりに見たリクの絵には、またしても少女が描かれていた。

そして、『行方不明になった、昔の友人にそっくりだ』と言ってリクに近づき、プライベートに入り込もうとする女が現れた。

何がどこにつながっているのかは分からないが、妙に気持ちが落ち着かなかった。

帰りの便まで時間もないし、こうなったらリクに直接聞いてみるしかない。

意味も無く電話など掛けた日には『何か用?』などという不機嫌な声など返されかねないが、今回はれっきとした質問事項があるのだ。

ざまあみろ。

などと思いながら長谷川は、リクの番号にコールした。


--- 出ろ。出なかったら乗り込むぞ!


けれど思いがけずコールは速攻受け取られた。

意外な相手によって。

『あれ? 長谷川さん? まだ日本なんですね。やっとリクに電話してみる気になりましたか』

ゼーゼーと鼻に掛かった声でしゃべっているのが誰であるのかは、すぐに分かった。

「玉城。何であんたがこの電話に出るんだよ。リクと一緒にいるんならすぐに代わって」

『あー。残念ながらここにリクはいません。この携帯はきのうの晩、俺の部屋に来た時にあいつが忘れて帰ったんです』

「っとに! あの馬鹿たれが!」

『すみません…って、俺が謝るのも変なんですが……。で、何か急用ですか? 俺でよければ話聞きますよ』

「いいよ。これから直接リクの家に行って訊くから」

『おお、そうですか! そうしてやってください。きっとあいつ、喜びますから。ずっと長谷川さんからの電話待ってたんですよ』

「……」

長谷川は一度携帯を耳から離して、睨みつけた。


「あいつが私からの電話を待ったりとか、あり得ないね。あんた熱でもあるんじゃない?」

『ね……熱ならけっこうあります。今風邪で寝込んでるんで』

「ならお大事に。じゃあね」

『あーーーーーっ! 待ってください。あのね、あのですね。せっかくなんで伝言いいですか? リクの家に行くんなら、あんまりよく知らない客を家に入れるなって言っておいてください』

「……え?」

『いえ、それだけ言えば通じます。話すと長くなるんで』

「リクに絵を依頼した女の事か?」

『え、なんで知っ……。あ、佐伯さんに聞いたんですね』

「その女、玉城も会ったことあるのか? どんな女だった?」

『スリです』

「……は?」

あまりにも玉城がキッパリ言い切ったので、長谷川は逆に言葉に詰まった。


『スリなんですよ。俺にぶつかってきて罵声浴びせときながら、俺の財布スって行ったんです。金は入ってないけどそれなりに大事な奴で。たまたまリクが、それをあの女が捨てるところ見てて、拾ってくれたんだけど、スったって確証はないから疑うなって。絵の客だか何だか知らないけど、あいつ今までの警戒心とか全く無くなっちゃってノーガードで、住所とか教えちゃうしさ。とにかく俺、あの女だけはいけ好かないんです。何だってリクはあんな女を…』

「玉城!」

『はっ…、はい!』

「その女、名前なんて言ったっけ」

『……新田。新田奈津美です。似た名前のアイドルが居たからよく覚えてるんです』

「新田奈津美。……スリ」

やはりあの時聞いた名だ。

長谷川は確信を持った。


「玉城、ありがとうね」

『え、あの……』

長谷川は電話を切ると、すぐに登録したばかりの別の番号を押した。

朝方まで一緒に飲んでいた島津の携帯だ。

確かにどこかで聞いた名だと思ったのだが、玉城の言葉でやっと繋がった。

島津が仕事がらみの電話の途中で口にした名だ。

記憶の端に引っかかった理由が、玉城と同じ、似た名前のアイドルが居たから、と言うのがどうにも癪ではあったが、とりあえずそのアイドルに感謝した。


前科者だろうか。

足はまっすぐリクの家へ向かうJRの駅に向けたまま、長谷川は島津へのコールを続けた。

非番で寝ているのならたたき起こしてやろうと。


              ◇



ミサキ・リクのアトリエは、意外にも可愛らしいログハウス調の建物だった。

彼なら都心の洒落たマンションの方が似合いそうなのに、と新田奈津美はチラリと思った。

約束の午後2時。

タクシーから降りて玄関の方へ向かった奈津美を、まるで察知していたかのようにミサキ・リクは出迎え、招き入れてくれた。

室内は吹き抜けのワンフロアで、男所帯とは思えないほど綺麗に片付いており、やさしい木の香りがした。


この画家のプライベート空間に、自分がすっぽり入り込めたことに奈津美は先ず満足した。

この男は容易い。半分は手中に収めたのかもしれないと気持ちが昂ぶる。

ゆっくりと何気ない話などして、しばらくはこの男を眺めていたいと思っていたのだが、リクはソファを進めるよりも先ず、部屋の隅のイーゼルに立て掛けてあったキャンバスの方へ、奈津美を促した。


それは画廊で見た物よりも色鮮やかで、絵の中の少女は記憶の中から抜け出てきたように、更に鮮明な、揺るぎのない“あやの”だった。

衝撃であり感動ではあったが、絵の中の潤んだ少女の瞳は、はっきりと意思を持って奈津美を見つめているように思え、わずかに身震いした。


「……きれい。やっぱり、どう見てもあやのよ」

「へえ。そうなんですか。まだ完成ではないので、ここから変わっていくかもしれませんが、……不思議ですね。僕が会ったこともない子にそっくりだなんて」

ミサキ・リクはサラリと言い、そのあと思い出したようにソファをすすめてくれたが、奈津美はしばらく惚けたようにその絵の中の鮮やかな色彩と少女を見つめた。

赤い浴衣と朱色の金魚と、そして白い肌、口元に黒子の幼顔の少女と。

どれが欠けてもこの絵は意味をなさないとでも言わんばかりに、同じ構成で描かれている。

一体これは、何の意味を含んでいるのか。

奈津美は穏やかに自分を見つめていたその青年を振り返り、琥珀の瞳を改めてじっと見つめ返した。


そうだ。 あまりにすんなり懐に飛び込めたので、忘れかけていた。


そもそもなぜこんなにあやのにそっくりな少女の絵を、この青年が描くことが出来たのか。

今は、この絵の中の少女に何ら欲情することも、死を哀れむ気持ちも無かったが、この青年が少女を描くに至った経緯は知りたいと思った。

それを知る時、この青年を本当の意味で手に入れた事になるような気がしていた。


16年前の少女の姿を、金魚や浴衣の事までこんなに克明に描ける人間は、身内以外には考えられない。

けれど身内が失踪、いや死んでしまったかもしれない少女の姿を描いて晒そうなど思うはずも無い。

だとしたら、少女の失踪に関わった、某なのか。

そこに何らかの犯罪のにおいが、かすかに漂えば漂うほど、奈津美の中の興奮はにわかに増していった。

弱みを握ればもう、逃れられなくなる。

奈津美はのどの奥で笑った。

子供の頃、標本箱に美しい蝶を貼り付けた時のような満足感が、胸の辺りに満ちてくる。

まだ空へ帰ろうとして動かす美しい羽根を眺めながら、ピンでその腹を板に留めるのだ。

そばに立つ青年がふと離れていくのを食い止めるように、奈津美はその手首を掴んだ。


「ねえ、内緒にしてあげるから本当のことを教えて。これはあやのよね。なぜあなたは16年前に行方不明になった少女の絵を描くの? こんなに鮮明に。あの子の事、一体どこまで知ってるの?」


ミサキ・リクは掴まれた手首をじっと見つめていたが、やがて視線を奈津美に戻し、柔らかくほほえむ。

男とは思えない、その艶めかしい笑みに奈津美の体がゾワリと反応した。


--- あやの?


どこかで金魚が、ピチャンと跳ねる音がした。


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