第10話 気付く者、気付かざる者
「大丈夫?」
大げさにベッドに倒れ込んだ玉城を、リクが覗きこむ。
かなり親密な付き合いをしてきたつもりだったが、自分を今心配そうに見つめている友人の事が今更ながら分からなくなってきて、玉城は少しばかり不安になった。
「お前のせいで余計熱が上がった。いいか、あの女は俺を毛虫のように罵った上に、財布をスった女だぞ? それを部屋に呼んで、そいつの前でへらへらして絵を描くリクを想像したらなんかムカつく。めちゃくちゃムカつく。いや、もういいんだ。風邪で死んでいく男の戯れ言だと思って聞き流してくれ」
“馬鹿じゃない?”と言われるのを覚悟で思ったことを吐き出してみた。
けれどはリクはしばらく静かにじっと自分の手の中の携帯を見つめた後、ひとりごとのようにつぶやいた。
「そうかもしれない。僕もちょっとこの頃思ってたんだ」
「……なにを」
「なんか自分が変だって。今まではひとりが一番気楽でいいって思ってたんだけどさ。この頃は自分以外の誰かが家に来るのがちょっと楽しかったりする。なんかおかしいんだ」
「リク、……それ普通だから」
「そう」
「いやでも、……分かったんならもういいよ。まあ、リクがそんな気持ちになるのは悪い事じゃない。フラっとどこかに飛んで行く鳥じゃなくなっただけ、成長だよ。まあ俺が言いたいのはさ、誰にでも懐いていいわけじゃないってことで、特にあの奈津美って女だけは……」
少しだけほっとしながら玉城は喋りつづけたが、リクは聞いている風でもなく携帯で何かを打ち始めた。
「メール?」
「一応奈津美さんに返信しとかなきゃと思って」
「よし、びしっと言っとけよ!」
「うん」
「ああいう女は配慮とかゼロだからな。変に気を使った柔らかい言い方をすると……ゲホッ……ゴホッ……グホッッ」
叫びすぎたのか喉も限界で、しばらく咳き込んで玉城はベッドに突っ伏した。
「玉ちゃん……具合、かなり悪そうだね。医者に行かなくて大丈夫? 一緒に行ってやろうか?」
リクは少しばかり慌てた様子でペットボトルの水と風邪薬、そして頭痛薬を玉城の枕元にそっと並べると、心配そうに顔を近づけ、覗き込んできた。
ぶわっと一瞬発汗し、玉城は落ち着かない気分になる。
「お前にそんなこと言われたら、なんかもう本当に死ぬんじゃないかとか思うからやめてくれ。頼むから」
リクは2度瞬きをすると、ほんの少し笑って体を離した。
「それなら」と、テーブルに乗せてあったゼリーやジュースや果物を、すべてガサリと玉城の枕元に積み上げる。
「お供えかよ」
「じゃあ僕はもう帰るから。余計に具合悪くさせちゃうみたいだから」
「……あ、いや、そんなことは無いんだけど。でも、サンキューな。差し入れ有難かった。それから、しつこいようだけどくれぐれもあの女には気をつけろよ。絶対まともな奴じゃねーし」
「まあね。気を付けるよ。あ、……そういえばさ」
リクはそう言ってドアの手前で振り返り、瞳をくるりと動かした。
「ん?」
「長谷川さんって、玉ちゃんにはメール、たくさんくれるんだね」
「……は? 長谷川さん?」
「寝てる間に2回、そこに置いてある玉ちゃんの携帯に着信があったよ。長谷川さんからだった」
ハッとしてペットボトルや果物に埋もれた携帯を掘り起こし、確認する。確かに長谷川から2件のメールが入っていた。
「え! わ! おま…… 見た?」
「見るつもり無かったけど名前、勝手に画面に表示されるし。でも開いて読んだりしてないから安心して。それだけ。じゃあ、お大事に」
「あ!」
違う! これはただ見合いの経過を知らせて来ただけのメールで……などと言えるわけもない。
よけいに話がややこしくなる。
そのうちガシャン!と乾いた大きな音を立ててドアが閉まり、部屋には再び玉城一人が残された。
怒っている……。薄く笑っていたが、奴はきっと怒っているんだ、と玉城は確信した。
再び嫌な汗が出る。時刻を確認すると夜の10時。
無表情で転がっている携帯をむんずとつかみ、まだ見合い相手と飲んでいるに違いない長谷川からのメールを開いた。
きっとほろ酔い気分で気まぐれに送ってきたのだろう。
《いい店だよ。久しぶりに酒がうまい》
《今度また帰ったら、玉城を連れてきてやるよ。リクは私が呼んでも多分来ないな。玉城が誘ったら来るかな。任せるよ。じゃ、またね》
「じゃ、またね、じゃねえよ!」
呟いたが声がかすれた。
やはり長谷川はリクに直接メールや電話をしないでいるのだろうと悟った。
あの怖い物なしの長谷川が恐れているのは、もしかしたらリクなのかもしれない。何気ないリクの「素っ気ない態度」なのかもしれないと。
「中学生かよ、あんたら」
また声がかすれた。
自分の事ではないのに、じれったくて身もだえする。
玉城は更に熱が上がったのを感じ、ベッドの上で丸くなった。
◇
時計に目をやると22時。
滅多に酔うことのない長谷川だったが、今夜は程よくアルコールが回り、気分が良かった。
雰囲気のいいこのバーに、玉城やリクを連れてきてやりたいとボンヤリ思い、何とはなしに玉城にメールを送った。
返信がないところを見ると玉城はやはり体調を崩して寝てしまって居るのだろうとは思ったが、まあ風邪ぐらいで死にはしないだろうと、さほど心配心は沸いてこなかった。
ふと、もしこれがリクだったら自分はどうするだろう、などとボンヤリ考え、そしてそんな自分が可笑しくて少しだけ笑った。
見合い相手の島津は、あれから2回ほど仕事関係の電話を受け、そのたびに「失礼」と行って席を外した。
雑談で島津が、このところは何かと時間外に駆り出される事が多いのだとぼやいた途端、署からの電話だ。
あれでは結婚も難しいのかもしれないと、長谷川は少しばかり気の毒にも思った。
いい男なのに、とも。
少し前にトイレに立った際に、暗い通路の隅で電話をしている島津の声が聞こえてきた。
数人の男女の名を復唱してメモを取っていた、
島津の声は、なかなか男前で耳によく染み入る。ひそひそ話もなるべく注意するようにと、あとで忠告しておいてやろうと思いながら、再び席に戻った。
閉店まで島津と飲む事にした時点で、シンガポールへの帰国は翌日の正午の便に変更を決めていた。
島津と別れたあとホテルで少し眠ろうかと考えていたのだが、ふと、リクの絵を扱っている佐伯のギャラリー「無門館」に寄るのもいいな、と考えた途端、更に気分が高揚した。
リク本人に会えば何かと口げんかになるが、絵ならば穏やかなものだ。
あの青年の絵は、作者に似ず見る者を包み込み、優しいエネルギーをくれる。
本当にいい絵を描くのだ。
そんなことを思いながら、リクの瞳によく似た琥珀色の液体を、手の中で揺らしてみる。
「あれ? なにか楽しいことがありました? 長谷川さん」
電話を終えたらしい島津が、笑いながら向かいの席に座った。
「いえ、なにも。なぜ?」
「笑っていらしたから」
「まさか。気のせいです」
長谷川はそう答えると、グラスの琥珀を一気に飲み干した。
◇
最終のバスで家に帰り、ガラスボウルの中でくるくると泳ぐ5匹の和金に餌を数粒与えながら、リクはふと気がついた。
携帯電話を玉城の部屋に忘れてきてしまったのだ。
とはいえ、そんなものなくても、特に困るわけではなかった。
メールアドレスを教えている人間などほんの一握りだし、玉城が再び具合が悪くなって「死んじゃうメール」を送る相手は、リクの他にもいくらでも居るだろうと思った。
シンガポールの長谷川からリクの携帯にメールや電話が来ることは、あり得ないし。
玉城の部屋で受け取った、《明日あなたのアトリエに行ってもいいですか?》という、新田奈津美からのメールには、《大丈夫です》と返信済みだ。
玉城にバレルだろうかと少しだけヒヤヒヤしながら、あの場で送信した。
だからもう携帯電話は必要ない。
ただ、リクに不可解だったのは、《大丈夫です》と返信した自分自身だ。
新田奈津美というかなり傍若無人な女は、リク自身が一番苦手とするタイプの女だったはずなのだ。
メールアドレスまでならともかく、なぜこの家の所在地を教えるようなことをしたのか。
そこまでして絵を買って貰わねばならない理由など、少しもなかった。
根底には「断ってしまいたい」という気持ちが確かにあるのに、別の意思がそれを押さえ込んでいるような、そんな妙な感覚だけが常につきまとう。
あまり心地よくない感覚だ。
リクは部屋の中央に置いたイーゼルの前に立ち、まだ下絵の段階の“その絵”をじっと見つめた。
奈津美の依頼で描き始めた、二枚目の浴衣少女の絵だ。
ここ数日、少女の霊体は目の前に姿を現さなくなった。
リクが絵を描きあげたことで満足し、昇華したのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
玉城の部屋で新田奈津美のメールを見た時、明らかに自分とは別の何者かの感情が、自分の中に存在して居るのを感じた。
寂しい 恋しい 苦しい。それにかなり近いが適確に表現できない、ほの暗い感情の波。自分とは異なる、誰かの「心」。
認めざるを得ないのだろうか。
「まいったな。……やっぱり君、入ってきちゃったのか」
リクは自分の胸を押さえ、ため息まじりに呟いた。