第1話 寂しがり屋の金魚
ふと、異質な気配を感じ、リクは大樹の下で足を止めた。
絵の題材を探しに訪れた森の中で、方向感覚に優れたリクが今朝は見事に道に迷い、気がついたらこの廃村にたどり着いていたのだ。
すぐ背後に渓谷を抱く、四半世紀ほど前に幕を下ろした集落。
朽ちて崩れ落ちた屋根、壁、柱。基礎と家具だけが残った家々の骸。異様な空気。
まだ9月上旬だというのに、立ち込める霧と冷気は境界を越えてしまったことを意味する。
霊感を持つ者だけに与えられた感覚だ。
けれどいつもの様な嫌悪感は湧いて来なかった。
だからリクは体の力を抜き、自ら同調を許してみた。
淡いミルク色の靄の中に揺れる赤い帯。
わずか5メートルほど先で、鮮やかな真紅の浴衣を着た少女が黒目がちの目でリクを見ていた。
悲しいのだろうか。
そう思った刹那、少女の幻影はふわりと透けるように溶け、キラキラと光を乱反射する鱗を纏った金魚に変わった。
不思議だとも怖いとも思わずただ、自分の感覚器に反映される在りし日の少女の想いに同調してみる。
「寂しかったの?」
そう訊くと、少女の化身は翻ってリクに近寄り、その形の良い唇からするりと体内に入り込んだ。
少しばかり驚きはしたが、それがただの少女の念が見せた幻惑なのだと解釈し、リクは心を落ち着かせた。
大丈夫、自分はまだ自分をちゃんと保てている、と。
どちらにしても、自分に同調しようとする思念たちを排除する術をリクは知らなかった。
臆病で、彼岸の者たちに支配されるのを嫌う癖に、常に受容体であり続けた。
その代り悲しい念を浄化させてやろうとか、救ってやろうとも思わない。
自分が死者に冷たい人間であることは、以前友人の玉城に指摘されて理解していたが、それでも尚リクは彼岸の者たちに積極的に働きかけることをしなかった。
ただ、されるに任せた。
森の木々が雨風を体で受け止めるのと、同じように。
すぐ脇で涼やかな水音を響かせる小さな滝壺を覗き見ながらその廃村を抜けると、肌を包む冷気は消え去り、当たり前の体温がリクの肌に戻ってきた。
ひとつ大きく呼吸し、いつものように通り雨にでもあったのだと心に言い聞かせながら帰途に就いたリクだったが、目の前でキラリと翻った生き物の残像は、リクの記憶の中に艶めかしい色を刻み付けてしまっていた。
◇
ピチョン。
目の端で、赤い何かが跳ねた気がして、長谷川は校正刷りの季刊誌から目を上げた。
リク?
不意によぎったのは日本にいるはずの青年の面影だった。
けれどここはシンガポール。本格的に始動を始めた大東和出版の支社は今日もスタッフたちの打ち合わせや電話対応の声で雑然としており、あの若き画家を思い起こさせる要素など何もなかった。
疲れているのだろうかと、長谷川は目頭を押さえる。
「長谷川さん、次号の『TOPIKa』のファンタジア特集は、玉城先輩が取材記事書くって言ってましたよ。もうフリーやめてうちの専属ライターになっちゃえばいいのにね、玉城先輩』
いつまでも女子大生の様な口調が抜けない部下の多恵が、先週発売された大東和出版の情報誌の予告ページをぴらぴらさせて、長谷川に見せてきた。
東京本社から送られて来る雑誌類を見るのは多恵の楽しみの一つのようだ。
予告ページの紙面には、今日の多恵のシフォンチュニックのような、ヒラヒラ尾ひれの金魚たちが泳いでいる。
「ああ、なんだ。これが目の端に入ったからか」
日本各所を回るアクアリウム展。
さまざまな金魚たちを、幻想空間に泳がせて演出する展示会らしい。
玉城は単純馬鹿だが、美しいものを素直に美しいと相手に伝えるための文章選びは上手いと、長谷川は認めていた。
だから美術誌『グリッド』の特集記事を彼に最後まで任せた。
いや、玉城でなければミサキ・リクは警戒心を解かず、取材は失敗に終わっただろう。
低迷していた『グリッド』があそこまで売り上げを伸ばしたのは、リクのみならず、玉城の功績も大きかったのだと長谷川は思っていた。
その美術誌『グリッド』の編集を離れ、そしてリクのいる日本を離れ、自分はまだこのシンガポールにいる。
これまでのように、日本の出版物を英訳するライセンス事業ではなく、直接アジアに出版を手がける事業を確立するためのフロンティアとして、長谷川は抜擢された。
この春ようやく『大東和出版・亜細亜』が始動したところだ。
やりがいのある仕事ではあるが、日本との距離が遠すぎて息苦しさを感じずにはいられない。
いや、リクとの距離だろうか。
酸素不足の金魚のように、時々水面に向かい、喘いでみたくなる。
若手画家としての知名度はそこそこ安定してきているが、人間力のまるで無い半人前の青年、ミサキ・リク。
あいつは今日、ちゃんと飯を食っているのだろうかとか、病気になっても医者にも行ってないんじゃないかとか、また変な化け物に脅かされてるんじゃないかとか、そんなことばかりが頭をよぎる。
年端もいかぬ子供を故郷に残して出稼ぎにきた母親とは、こういう気分なのだろうか、などと不毛な分析をしてみる。
メールを送っても返しても来ない。
あの青年はきっと自分のことなど、過去にちょっと絡んだ知り合いぐらいにしか思っていないのだろう。
そういえばもうずいぶんとリク本人には会っていない。忘れられてもしかたないかもしれないな、と長谷川は息を吐いた。
何気なく目を泳がせて、多恵の机の端に置いてある美術史『グリッド』の先月のバックナンバーの背表紙を捉える。
それを見た時は結構な衝撃だった。
たった1ページだったがリクの記事が掲載されていたのだ。
あれほど取材を拒み、喧嘩腰て取材に応じさせた2年前のリク。
人と交わることが出来ない野生の鳥だったリクが、自分のいなくなった今、ちゃんと平然と取材を受け、人として当たり前に生きている姿を確認したのだ。
喜ばしい事のはずなのに、ほんの少しだけ、妙な寂しさがあった。
その時、机の上に置いてあった携帯端末がメールを着信した。
福岡の実家の父親からだ。
以前久々に帰国した際に、あまりしつこく「結婚を考えろ」というものだから、わずか半日で東京へ逃げ帰った長谷川を未だに怒っているはずの、父からだ。
嫌な予感しかしなかったが、開いてみた。
《お父さんだ。医者に、もう長くないと言われた。親孝行だと思って、見合いをしてくれないか。相手は東京の人だ。お前にも都合がいいだろう》
ツッコミ処の宝庫だ。長谷川は、かろうじて携帯を投げ落とすのを堪えた。
もう74歳だ。そりゃ長くはないだろう。この手は3回目だという事を忘れたのだろうか。
そう思うと少しばかりこのうるさい父親が気の毒にも思えた。
この父親に限って同情は禁物だが、まあいい。一度くらいは言う事を聞いてやろうか。一度やってやれば、気が済むだろう。
長谷川はそんなことを思い、ひとつ伸びをした。
ほんの一瞬、あのリクの事が頭をよぎったが、きっと日帰りになるだろうし知らせるのもやめようと思った。
なにより、見合いのついでなどという中途半端なタイミングであの青年に会うつもりはなかった。
《わかりました。近いうちに日帰りで帰国します。詳細は後ほど》
それだけ打って父親に送信した。
「わお! 長谷川さん、帰るんだったらリクさんによろしくね」
語尾にハートマークを付けて、多恵が後ろから声を掛けてきた。
自慢の2.0の視力で画面を覗いていたのだろう。相変わらずプライバシーを踏み倒す部下だった。
「リクには会わないよ」
「あれ? どうして?」
「見合いだから」
「長谷川さん、冗談がうまい」
「うるさいよ、さっさと仕事しな」
「じゃあリクさんの近影、お土産に持って帰ってくださいね。笑顔のアップ♪」
「東京バナナ1年分送ってやるから口を閉じろ!」
行く前に熱が出そうだった。