海の道(ウィア・マリス)
第二回犯罪のでてこないミステリー参加作品
キネレテ湖の漁師アンデレが海の道の街道をゆく。
「今日はどこを学んだ」
夕食を囲む席で、いつものように兄のシモンが甥のテマイに訊いてきた。アンデレが隣の少年に目を向けると、その手が持つ椀のスープに微かなさざ波が立っている。
「ええと、ギ、ギデオンとミデヤン人の戦いのところ」
「士師記だな。相手のミデヤン人は何人だった」
叔父の地声の大きさに十歳の少年は未だ慣れないようで、肩をすぼめて上目遣いに答える。
「十三万……と五千人」
「イスラエルの数は」
「三百人」
「そうだ、たった三百で勝った。主の御助けがあったからだ」
周りの家族から神への感謝の声が上がる。自身も賛美の言葉を口にしながら、アンデレはテマイの笑顔が中途半端なのに気づいた。が、その微妙さは直ぐに消えて、祖母特製の頭が良くなるというスープを一息に飲み込んだ。自身も幼い頃無理矢理飲まされた苦い味がよみがえり、アンデレは少年の努力を健気に思う。
テマイはシモン、アンデレ兄弟にとって、一番上の姉の忘れ形見だ。姉は港町セルキヤの離散民の男と一緒になったが、テマイの幼児期に他界した。半年前、テマイの父親がレギオの街に移り商売を始めたところ、環境が悪いとアンデレ達の母が言い出して、孫である少年をこのカペナウムの実家に引き取ったのだ。
少年の父親は、同じ民とはいえ母国語はギリシャ語で、この辺りのアラム語もこなしはしたが、民族語であるヘブル語は全く話せなかった。ためにテマイは会堂の幼年クラスに編入し、必死にヘブル語による聖典授業にいそしんでいる。
「明日はアンデレがいないから、投網の練習は俺がみてやろう」
夕食の席を立つ際発したシモンの一言に、やもめの母が眉をしかめた。
「お前が教えるのかい。休みにしてはどうだい」
「家業を教えるのは、もともと家長の義務だぞ。俺にだってできる」
憮然として背を見せた息子へ、母が変わらず口の中で文句を言い、そんな二人をクスクス笑いながら兄嫁が食器を片づけ始める。それをテマイが手伝うのを見やって、アンデレも明日からの旅に備えるため席を立った。
倉庫にはレギオの義兄へ届ける塩漬け魚の詰まった瓶のほかに、近所からの言付かり物が入った籠も並ぶ。中でも特に重要なのが、先日シモンが手に入れた上等な蜂蜜。これが今回の旅の目的、彼らの師への贈り物だった。普段はエリコ近くを活動拠点にしていた師が、ヨルダン川を上ったと聞き、せっかくの機を逃してはならじと兄シモンと意見が一致。ただ繁漁期なので、アンデレ一人の旅立ちとなった。
倉庫の戸口の幕が揺れ、灯りを向けるとテマイが柱陰から顔を覗かせた。
「これ、お願い」
おずおずと差し出された陶器の破片には、消し炭でアンデレには読めない文字が書かれている。
「ギリシャ語で書いた父さんへの手紙。会堂で習っていることとか、舟に乗せてもらって楽しかったって」
「元気がないのは、父さんに会えないせいか」
先ほどの力ない笑みを思い出しながら、アンデレは陶片を荒布で丁寧に包み荷籠へ押し込んだ。
「こんど一緒に」
「ううん、そうじゃない。僕自信ないんだ」
突然切実な視線を向けられ、アンデレは目をしばたかせた。
「きっと僕、三百人の中に入れない!」
「三百って……ああ、ギデオンの話か」
ギデオンが多くのミデヤン人を倒した話は子供のみならず、大人にも人気が高い。三百対十三万五千の数は、イスラエルを守られる神の強さを具体的に示している。ただ――
「それでも最初イスラエルは三万、に、二千人いたんだよね」
「そう、でも主は多すぎると、恐れおののく者を帰らせたんだ」
「それで一万人が残ったんだけど」
主はまだ多いと、民を水辺へ下らせ水を飲ませた。テマイがゴクリと喉を鳴らす。
「戦士に選ばれたのは口に手を当てて水を飲んだ三百人」
アンデレは頷いた。
「シモンが言うには、臨戦態勢の時、両膝を突き顔を水に付けて飲む間抜けは、戦いには邪魔なんだそうだ」
「主の働きに、腰抜けや間抜けはいらないよね」
力なく落ちる少年の肩を見て、アンデレは片眉を上げた。
「お前は勇気はあるし間抜けでもないよ」
「……そうかな。そうだといいんだけど」
頼りなげな笑みを向けた少年が、優しく差し出された叔父の手に身を寄せる。家長はシモンだったが未だ子が無く大雑把な性格のため、母からテマイの面倒は気の回る弟息子のアンデレに任せられていた。初めは緊張で頑なだったテマイだが、最近ではすっかりなついている。
「勇気はね、頑張れば出るかなと思うんだ」
「それを言うなら、明日シモンの大声にべそをかくなよ」
叔父の笑みに、それは大丈夫と少年は胸を張った。
月が西へ沈みかける頃、暁がキネレテの湖面に輝きだした。幾艘もの帆舟がそちらこちらで丸い航跡を描き、刺し網に魚群を囲っている。経験豊かな兄の腕なら、今日も豊漁が期待できるだろう。腕にずっしりとかかる網の手応えが思い出され、街道にロバを引くアンデレの頬へ笑みが浮かぶ。自分の勘が的を得、大漁の実を結んだ喜びは漁師冥利につきる。
と、脳裏に昨夜の甥の言葉が行き過ぎた。
――主の働きに、腰抜けや間抜けはいらない。
主のため働きたいとの思いは、アンデレにも大いにある。だが漁しか能がない自分が、戦いや働きに加えられるのだろうか。同じ漁師でも兄シモンなら決断力、指導力に優れ、細かい気は回らないものの、どこか憎めない人間性も相まって、仕事仲間や町民の人望が厚い。彼が何か言えば耳を傾ける者も多く、師のように働き人として用いられよう。
比べて自分には何もない。それどころかいざという時、膝と顔を水に漬けるような思わぬ失敗をしでかしかねない。
実のところ、テマイの悩みはアンデレ自身の悩みでもあった。
日が昇るにつれ、キネレテの湖を取り巻く野原の草花が鮮やかに映えてきた。後の雨が過ぎ去って畑の麦は色づき始めており、世はまったくの平和に満ちている。しかしこの平和は見せかけに過ぎない。間もなく吹く熱い東風が、草花を萎れさせるだろう。なにより今この国は、真の平和が失われて久しい。天の御国は近づいたと師の言葉はあるが、それがどのような姿で実現するのか、アンデレには想像がつかなかった。
古い街道の急なつづら道を上りきって振り返ると、湖上の遙か彼方まで見渡せた。岸の北には出立地カペナウムと通り過ぎたゲネサレの集落が慎ましく、転じた南は石積みの強固な要塞の下に真新しい家々が軒を連ねている。テベリヤはヘロデ・アンテパスによって建設され、ローマ皇帝テベリオにちなんで命名されたベレヤ・ガリラヤ地方の首都だ。競技場や浴場もあるローマ風の街並みだが、噂によるとその下は古い墓だという。その真偽は定かでないものの、アンデレ達にとって呪われるべき土地であることに違いはない。侵略者ローマにおもねる街。
ただ、どこまでも道を整備する、その民族性には感謝するところがあった。彼らが海の道と呼ぶこの街道の歴史は古いが、ここまで歩き易くなったのはローマが来てからだと聞く。一日行程としてはレギオまでかなりの距離なため、ロバも臍を曲げず快調に歩が進むのはありがたい。やがて徐々に迫ってきたタボル山を仰ぐ樫の下で、アンデレはロバにくくってある皮袋の紐をほどいた。栓を抜き口を付けると、水で割った母調合の薬酒が喉を潤す。
ひんぴんに人々が往来する街道。大概は徒歩の中、身分の高そうな人物が馬に乗り、幾つも荷を積んだロバと傭兵を引き連れて行く。ガリラヤを抜けた先のダマスコへ向かうのだろうか。聞くところによるとカペナウムからはエルサレムより近いらしいが、異教徒のあふれる土地は、アンデレにとってどこか恐ろしげだ。
皮袋をロバに戻しかけた時、規則正しい足音と金属の触れ合う音が背後から近づいてきた。数十本もの槍の先が陽の光に煌めく。そろいの盾と武具、見事に統率された行進はローマの一隊だ。五十人ばかりが脇目もふらず、速い足取りで目の前を通り過ぎる様から、彼らの舗装路に拘る理由が腑に落ちた。海の道は重要な通商路であるとともに、昔から大国の進軍路としても利用されてきた。もちろん二十年ほど前のローマ軍もここから押し寄せ、エルサレムには数千人の兵士が常駐しているらしい。
物騒な一群を見ながらの道中は落ち着かないが、急ぐ旅でもあるので、アンデレは仕方なくその後を進んだ。
タボルの山裾での昼食も離れる機会とならず、兵士達は同じく腰の包みを取り出して各々口に乾いた食料を運ぶ。そのうち見るとはなしのこちらに気づいてか、二三人が向ける兜越しの剣呑な眼差しに慌てて顔を伏せた。不審者と疑われ尋問されては面倒だし、第一、異邦人との会話は律法で禁止されている。
それでも彼らとの意にそまぬ同行は、間もなくアンデレがナインの街に入ったところで終わった。
「よく来た、ヨナの子アンデレ」
使用人に案内された中庭で、出迎えたシラスの豪快な抱擁を受ける。
「わざわざ届けてくれてすまなかったな。サロメの腰はどんな具合だ。せっかく孫が生まれたというのに、来れないとは残念だよ」
ここの息子に嫁いだ漁師仲間の妹が先日長男を出産し、その祝い品を彼女の実家から預かってきたのだ。アンデレが真新しい乳児用毛布とナルドの香油の入った小さな壷を手渡すと、シラスは歓声を上げた。
「まったくありがたい。帰りがけにでもまた寄って、いくつか壷を持って行ってくれまいか。もちろん、そちらも気に入った物があったら持って行くといい」
シラスは陶器師組合の親方だ。数人の職人を工房で雇っており、中庭には大小様々な壷や瓶が所狭しと並んでいる。礼を言ったアンデレは、それらを見回す内に、再び記憶を呼び覚まされた。
「確かギデオン達は、壷に松明を隠して勝利しましたね」
「おお、そうとも、このモレの山でな」
シラスは街のすぐ上にある高い頂を指さした。その正面に広がる平地が、その昔いなごのような数のミデヤン人が陣を敷いた場所だ。主から勝利の約束を受けたギデオンは、選ばれた三百人を三隊に分け、それぞれに松明をいれた壷と角笛を持たせると、夜陰に乗じて急襲。大混乱に陥ったミデヤン人はたちまち敗走した。
「主の剣、ギデオンの剣だ」
誰もが知る戦いの叫びを呟いて、シラスは勢いよく鼻を鳴らした。
「お前さんがくる前にローマ兵が通り過ぎたが、主がおられる限り我らが勝つ時が必ずくるってもんだ」
先を急ぐためそうそうに暇乞いをし、シラスの旅の祝福に送られながら、アンデレはナインの街を発った。しばらく行くと平原越しの山肌に、小さな丘が見えてきた。古い街が他民族に破壊されるごと、上へ上へと再建され続けた結果で、ここに限らず遺跡の埋まる丘は街道沿いのあちこちに点在する。アンデレの子供の頃は宝の山と呼んで、陶器や石器を掘り返して遊んだものだ。
地面の影が長くなるにつれ左右の谷が広がり、やがて西も東も遙か見渡せるほどになった。細長い平地の中心をキションの流れが走り、沼沢地を挟んで両岸にオリーブ畑、ブドウ畑、小麦畑が彼方に続いている。豊かな実りを結ぶこの地は、南北の勢力のぶつかる場所でもあって、ギデオンの戦いに限らず古来多くの戦いの戦場となった。
アンデレの浅い知識からでもアッシリヤやエジプトの名が容易に浮かぶが、特に歴史書から印象深いのは、東に見えるギルボア山での戦いだろう。初代王サウルが戦没した場所。神への不従順を重ねたためその守りを失い、心を病んだ末の失意の死だった。どんなに優れた戦士や大軍でも、主が共にいなければ無惨な敗北を喫す。それこそギデオンの三百人の意味だ。
三百人に与えられた勝利の守り。自分はその中にいるのかと、アンデレの問いは変わらず終わらない。
今この時、戦いとなれば具体的な相手はローマとなるだろう。そこで道中の先を進んで行った輝く槍先が目に浮かぶ。堅牢な盾と鎧、鍛え上げられた腕と脚。汗の滲んだ掌を思わず握った。時折兄のシモンと棍棒片手に剣の練習をしているが、もっと回数を増やした方がいいのではと、にわかに不安が募ってくる。
そこへ早足にロバを駆る旅人に脇を追い抜かれた。支道の分岐点を過ぎ、見通し良く正面に見えるレギオの城壁も大分に近づいている。日が落ちる中、山肌の赤土がますます色を濃くし、川面の照り返しは連なる宝石のようだ。後もう少しと気は急くが、疲労に重くなった脚では思うように道がはかどらない。前後にもはや人影も見えず、自分の足音と荒い息が耳にこだました。
こうして――と、アンデレは思う。あの時三百人から漏れた人々は、泉から去っていったのだろうか。せっかくの意気を打ち砕かれ、重い脚を引きずりながら。
日没寸前、閉ざされる間際の城門を、ようやく這うようにしてくぐり抜けた。背後で閂の降りる重く鈍い音が響く。カペナウムからの強行軍は覚悟の上だったが、さすがに石壁にへたり込み、ぼんやりする目を薄闇の往来にさまよわせる。門近くの通りと城壁の物見櫓では順繰りに松明が灯されて、レギオの街並みと行き交う人影が浮かび上がった。
「アンデレ。アンデレか、よく着いたな」
影の一つが近づいて声をかけてくる。テマイの父親のルベンだ。かすれ声でやっとの挨拶交わすアンデレに、義兄が肩を貸した。
「疲れたろう、急かして悪かった。その代わり新鮮な分、きっと良い値で売れるよ」
最近この街市場の鑑札を手に入れたルベンが、先日、機会があったら塩漬け魚を送ってほしいと頼んできたのだ。カペナウムの周辺でもそれなりに売れるが、やはり海や湖から離れている分レギオでの需要は大きいらしい。
ルベンはロバと共に義弟を誘い、路地をいくつか入った家へ招き入れた。戸口で出迎えた外国人らしい若い女が、持ってきた盥でアンデレの汚れた足を洗う。食卓がすでに整っているのは、前もっての到着日を知り合いに言付けていたからだろう。
「船に乗っていた時の贔屓の客が、ここのお偉いさんでな。うまく口を利いてくれたので、鑑札が手に入ったんだ」
料理の盛られた丸皿を挟んで、ルベンが順調に進む商売の様子を上機嫌に語る。しかし疲れたアンデレの耳には、言葉のほとんどが右から左へ通り過ぎ、次第に食べながらも頭が落ちるようになった。その様子を愛想良い給仕の女が気づき、酔いで舌の止まらない義兄をたしなめる。寝所で早く休むようにと促され、立ち上がったアンデレはふと気づいて振り返った。
「そうだ。テマイからの手紙を預かってきたんだ」
ルベンの笑みが妙な具合に固まった。急に空気が冷え、義兄に向けられた女の表情が険しい。ああ、と、ルベンが気まずそうに唸る。
「それは――まあ、後でいいよ。アンデレ」
あてがわれた部屋では、明かり取りの弱々しい月の光が、高い闇に浮かんでいた。すぐ横の土間からロバの飼い葉をはむ音が聞こえる。体が眠りを欲する中、アンデレの頭の片隅にはテマイが張り付いて離れない。あの若い女は奴隷かと思ったが、どうやら違うようだ。
――環境が悪い。
母の言葉が思い出される。
テマイは知っているのだろうか。だから、三百人に入れないと不安になったのか。神に選ばれなかった者。父に、選ばれなかった、子供。
うとうとと間延びする思考。
いつ、言われる、か――お前は、いらない。
遠くで物音がする。眠りの深みに入りかけ、うるさいと不快に思った途端。
「起きろ」
いきなり腰に衝撃が走った。首筋に押しつけられる冷たい感触。ルベンの叫びが響く。
「やめてくれ。彼は私の義弟だ」
松明の中で動く不吉な人影は、武装したローマ兵だ。突きつけられた白刃の光が、禍々しく目を貫いた。
白み始めた空を石壁の影が黒く分かつ。城門の閂が上げられると、開門を待っていた旅人が次々と城外へ出て行った。アンデレも見送りのルベンと共に、上から見下ろすローマ兵の監視を受けながら門を通りすぎた。外から降り仰げば、前日は夕闇で気づかなかった兵舎が城壁に隣り合わせて建っている。北からの海の道は、ここからアルーナの谷を通って海へと向かう。隘路の入り口にあるレギオは戦略的に古来重要な位置を占め、今はその名が示す通り、ガリラヤでも有数のローマ軍駐屯地だ。
「昨夜は驚かせてすまなかったな。近所で熱心党員の取り締まりがあったらしい。ついでに見知らぬ顔がうちにいるとの密告があって、兵がやってきたんだ」
熱心党は、異教を排斥して神による政治的独立を目指し、過去にいくつか反乱を起こしている過激な集団である。その一味との濡れ衣だが、ルベンが例の懇意の客の名を出したので、アンデレの弁明が一言もないうちに事なきを得た。しかし洩れ聞こえた名がローマのものでは、礼を言う気にもなれない。そんなアンデレの気持ちを察してか、ルベンは取り繕う言葉を重ねながら、だらだらと後をついてくる。それが親戚の手前か商売のためかわからず、アンデレはしばらく逡巡していたが、意を決してロバの籠に手を突っ込んだ。
「テマイの手紙だ」
薄い笑みを浮かべながらルベンは陶片を受け取り、書かれた文字に落ちる視線が和らいだ。
「ギリシヤ語を忘れてないのか」
「会堂の先生が外の世界では必要な言葉だからと、毎日忘れないよう練習しているよ」
読み終えた陶片をルベンが大事そうに上着の内へしまい、アンデレの心が僅かながら軽くなる。
「返事を書いたらどうだい。ギリシヤ語で」
「漁師になるのなら忘れた方がいい」
思いがけない答えが返り、それは商売人の跡取りになれないからかと言いかけて、アンデレは口をつぐんだ。無言のまま首を振りながら、義兄に背を向ける。
レギオは古い歴史を覆う巨大な丘の脇に建てられていた。その裾の長い斜面を横切る途中、足下でパキリと何かが割れた。壷の大きな破片を踏み抜いたようだが、そこに描かれている模様が見慣れず、アンデレは思わず手に取った。このような大きな丘には王国以前の遺物もあると、陶器に詳しいシラスから聞いたことがある。もしギデオンの時代のものなら、テマイへのいい土産になると籠へ入れかけ、手が止まった。
しばらく陶片を見つめて深い息をつく。それを放り投げようとして大きく腕を引くが、それも振り返った途中で止まる。
標的は高くそびえる城壁。その巨大なメギドの丘の前には、未だに立つルベンの小さな姿があった。
海の道は南への本道とは別に、平原を少し戻った分岐点から東へ延びる支道がヨルダン川を越えて、これも幹線路である王の道へと繋がっている。沼地を迂回する旧い路はまどろっこしいと、ローマが作ったまっすぐな真新しい舗装路だ。急ぎ旅と濡れ衣の騒ぎで疲れが残るアンデレは、重い荷が無くなったのを幸いにロバに跨がった。今日の行程も楽ではないが、昨日より距離が短い分、日暮れとの競争はない。
否応でも目に入る正面のモレ山が左手にくる頃になれば、ギデオン達が水を飲んだハロデの泉がある。
残った三百人。戦士として勇気と資質のある選ばれた者。
白刃の前でも怖じ気付かない勇気。
突然昨夜の白光と冷たさが喉元によみがえり、アンデレは背筋を震わせた。あると思っていた勇気が、あの瞬間跡形も消え失せ、全身を恐怖が走って一言も言い返すことができなかった。目の前に突きつけられた死。
三百人だって。とんでもない――アンデレは自嘲した。
「一万人にだって入れない」
失意の呟きを、ロバだけが聞いていた。
昼にエスドラエロンに着いて、水辺の柳の下で昼食を取った。ヘブル名でイズレエルと呼ばれるこの街も古く、北王国の悪王アハブが宮殿を建て、また最上のぶどう畑ほしさに持ち主のナボテを殺した土地でもある。
豊かな街は喧噪に満ちていて、一人のアンデレは尻が落ち着かず、再びロバに跨がって街道を急いだ。普通の旅は安全のために道連れを伴うが、最近の陽のある幹線道路なら、一人でもとりあえずは安心である。この治安の良さが、ローマ軍の恩恵というのはなんとも皮肉だった。
間もなく道の向こうに、ひときわ茂る灌木と集落が現れた。ハロデの泉だ。集落はずれの岩の高台が打ち場になっていて、選り分けの穀粒が調子よく空中に舞っている。今の時期だと自家用の大麦だろうか。この辺りの小麦は質が良いため、大部分はローマや貴族への税になると聞いたことがあった。
ロバを降りたアンデレは手綱を取り、茂みの間に水を湛える泉へ降りていった。歩み寄った水辺で片膝をつき、水を掬って手から飲んだ戦士に倣ってみる。ちょうど喉が乾いていたせいもあって、舌にさわる冷たさが余計に美味しい。が、少しずつでは物足りない。片手を両手にして更に飲み干せば、顔を仰いだ分、口から漏れた水が顎から滴った。
そこで、三百人から洩れた者らの心に思い至る。ギデオンの元へ懸命に馳せ参じ、これから戦いという緊張もあって、彼らは喉が乾ききっていたのだ。そこへ甘露の誘惑が心を緩ませた。ほんの一瞬危険への備えを失ない、神の選びから洩れてしまった。
アンデレは被り物をとると、両手をついて水の上に身を乗り出した。波紋で歪む己の顔めがけて勢いよく頭を突っ込む。たちまち大気と遮断され、できる限り息を止めるも口から鼻から空気が漏れ出して、ついには苦しさに堪えきれなくなった。体を起こし、今度は大気を貪るように吸いながら、仰向けに四肢を伸ばした。
緑の枝越しに広がる蒼天。穏やかな空を見上げながら、持っていたものを一瞬に失う恐ろしさが身に染みた。水辺の備え、昨夜の勇気。あの兄に助けられたのが癪だった。
――けれどテマイの父親だ。
小さな甥の幸せを神に祈らずにはいられない。そして重圧の中でも道の安全が保たれている世界で、自分達はどのような平和へ、国へ向かおうとしているのか。
枝を揺らして風がそよぐ。
と、打ち場からの声がそれに乗ってきた。
「壷はどこだ、壷を持ってこい」
ふるい分けた大麦を入れるのだろうか――松明を入れて戦いに用いられた壷が。
――壷。
いきなり体を起こしたアンデレは、草の生い茂る周囲を見回した。
「壷だ……壷はどこだ」
あちこち走らせた視線がロバを捉え、荷籠に入れてあった陶片を取り出す。メギドの丘で拾った太古の陶片。
もしそうならとの一つの考えがアンデレの頭を占め、興奮と共にロバを街道に引き上げた。急ぐ必要のない旅の速さが増した。
もしそうなら、三百人から洩れた者も失意に沈むことがないかもしれない。ロバの背の上で、アンデレの独り言はいつまでも続いた。
「壷はどこにあった」
気持ちは逸ったが、その日のスキトポリス泊りには変わりはない。第一ここで師の居場所についての情報を集めなければ、明日からの行き先も定まらない。一口にヨルダン川上流と言っても広いのだ。この街在住の弟子仲間を訪ねたが、師のもとに出かけて留守だという。
ようやく翌日の昼過ぎに下流のサリムと分かり、日暮れに間に合わせるべく川沿いの道を急いでロバを駆った。午後も遅くなる頃、すれ違う人々の数が増してきて、訊けば師の説教を聞いた帰りだそうだ。
夕焼けが川面を照らす彼方に懐かしい人影。次第に高ぶる心に頬を紅潮させ、アンデレは思わず手を振って叫んだ。
「先生!」
師が寝起きしている洞窟の中で、焚き火にくべた小枝がはぜる。聖別のしるしである長い髪と髭の奥で、師の瞳が炎を優しく返していた。その静かな眼差しに勇気を得て、アンデレはギデオンについての数々を熱を込めて語った。三百人から洩れたのは、主の働きに必要ない腰抜けと間抜けだとのシモンの説。その三百人に入れる自信のない、自分とテマイの不安。漏れてしまった者は、もう必要ない人間なのか。役に立つことは叶わないのか。
「でも、でも先生。私は、ふと疑問に思ったんです。ギデオンが戦いに使った壷はどこから来たんだろうかと」
戦いに来た人々の手に武器はあったろう。角笛は戦いの連絡用に必要だし、松明はハロデの泉近くに灌木がたくさん生えている。しかし壷はどこにあったのか。ギデオンの作戦を前もって知らなければ、とても用意できるものではない。
師が面白そうに眉を上げて微笑む。
「ほう、壷はどこにあったのかね」
「それはギデオンの話を聞いて、誰かが持ってきたからです」
身を乗り出したアンデレは、嬉しい秘密を明かすように、うわずる声を懸命に抑えた。
「三百人から漏れた人々は、すぐさま近くの村々に走ったに違いありません。そしてなんとかその夜のうちに、三百の壷を集めたんです」
自分らは戦いに直接参加することはできない。しかし戦士の背後を支えることはできるのではないか、陰ながら戦いに参加できるのではないか。主は失敗した者でも用いてくださる。必要としてくださるのだ。
アンデレの耳には、星夜の元、壷を抱えて走る人々の息吹と足音が響いている。
洞窟の入り口からゆるやかに風が吹き込み、壁の影を幾度も揺らした。
「アンデレ」
師が静かに語りかける。
「士師記には、去った者の糧食と角笛を三百人が取ったと書いてある」
弟子は小さく頷いた。遠方より集まった人々は、各々食料持参であったろう。戦わないのなら、多少帰路がひもじくても戦士達に与える道理は分かる。
「糧食は何に入っているかな」
突然ハロデの泉での打ち場の声が頭によみがえる。
――壷を持ってこい。
アンデレは、あっと声を上げた。
壷に入れた大麦――糧食。すでに壷も手元にあったのだ。
次の朝、この日も師の説教を聴こうと大勢の民衆が詰めかけた。近づく天の国への道備えのために悔い改めを説く語りは、いつもように力強い。
アンデレは今回の一件で、歴史書を自分の思うように解釈した自分が恥ずかしかった。あの後師は言ったものだ。
「間抜けも腰抜けも人間の解釈にすぎない。神の選びの根拠は人間には計り知れない」
それと同じように主の戦いの形も、主が決めること。神の言葉が聞こえないまま、いくら聖戦を叫んだところで、単なる犯罪に貶められるだけだ。現に士師記の人々も神の戦いを叫びながら堕落していった。剣を振るうだけが主の戦いではないと、師が諭す。
ならば心備えをした道は、どんな戦いへ続いているのだろうか。
師の説教が終わり、立ち上がった人々がバプテスマをうけようと、川辺に降りてきた。流れに脚を入れかけた師が、ふと顔を上げてアンデレに呟く。
「見なさい」
視線の先には、人々の群から外れる一人の男の姿があった。
「神の子羊だ」
弟子に向けられた師の眼差しが行けと促す。
アンデレは一歩を踏み出した。
(了)
お読みいただきまして、ありがとうございます、