第四十一話 長い一日
ラーダが床に沈み、身動きしなくなった瞬間を、俺は見ていた。
ダーラー様を拘束したままずっと床に伏せていた俺は、彼女の身体をかき抱いた王子ファルザードが恐慌状態に陥る間もずっと、タイミングをうかがっていた。
度重なる魔力の暴走に当てられたのか、あるいは俺が力加減を間違えてしまったのか、ダーラー様はすでに気絶していて身動き一つしていない。せっかく苦労して拘束したのが無駄になる可能性を差し引いても静かで助かる。
【ラーダ!ラーダ!ラーダッッ!!】
意識を失ったラーダを起こそうとして、ファルが声を荒げる。だが、器に収まらない魔力に満たされている彼の声はラーダを貫く鏃にしかならない。赤い光が幾筋にもラーダに突き刺さっているのが分かる。
むしろ、壁も天井も破壊していった赤い光が、なぜラーダに穴を開けないのかが不思議なくらいだ。
ズタボロになっていてもおかしくないラーダの身体は、なぜか無事だ。だらんと垂れ下がった右腕だけは負傷の気配がするが、それはファルと対峙する前からだった。
「正気に戻れ、ファル!」
無駄だと分かっていながら、俺は声を上げた。
「ラーダはまだ死んでいない!それよりもおまえが魔力をコントロールする方が先だ!」
自分で言っていながら、ではどうするのかという答えは知らない。
そもそも人間は『魔力』なんてものを持ち合わせていないのだ。仮に持っているとしても、それを認識できる者はいないし、それができるのは魔性の存在であって人間ではないだろう。
魔神や魔神のしもべ、そういったものでなければ分かるはずがない。
「ラーダも言っていただろうがっ!」
俺の言葉に、ファルはハッと顔を上げた。
”魔力が暴走しているため。ならば、それを吐き出してしまった方がきっといい。抑えるのではなく、方向を変えて――”
”最初に抱いた願いを忘れないで――”
ラーダの言葉を思い出したファルは、もう一度彼女のことを抱きしめると、目を閉じた。
赤い光が彼らを包んでいるのが見える。
再び光が膨れ上がろうとするのを見て、俺は床スレスレまで身を伏せた。
【あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!】
今再びの絶叫が辺りに響き渡る。
赤い光が砂の大地を覆い尽くしていくのを、床に伏せたまま感じていた。
壁を、天井を、屋根を、黄金宮と呼ばれた場所をことごとく破壊していった赤い光が、今度は雨のように大地に降り注いでいく。
舞い降りてくる赤い光に反射的に身がすくんだ。
次の瞬間、起きたことは奇跡だった。
赤い光を浴びた大地が一斉に芽吹きはじめたのだ。
砂しかない不毛な土地が、瞬く間に緑色に染まっていく。雨上がりの港街のように、あるいは旧都のオアシスのように。いや、もっといきいきとした植物の空気が辺りを包んでいく。噂に聞く海の向こうにあるという緑の国ならば、こんな光景を見られるのかもしれない。
本宮殿の前庭であった場所に池ができ、噴水が生まれる。湧き上がってきた水が雨のように大地に降り注ぎ、小さな虹を作った。
池を囲む一帯は花畑となり、赤、黄色、白などの色とりどりの花が咲き乱れる。季節感などまるで無視した賑わいに、俺はうめき声を上げることしかできなかった。
にょきにょきと生えてきたオアシスの木々が木陰を作り、強い日差しから俺たちを守る。さわさわと風に揺られ、まるで午睡の時間であるかのような錯覚を覚える。
どこかで見たことのある光景と似ていた。そうだ、旧都だ。あそこも、砂漠の真ん中にありながらまったく衰えることのないオアシスだった。まさかはるか遠い昔、魔神によって作られた街だったんだろうか。
違いと言えば、黄金宮の玉座の間である。その床部分だけが残っていた。
「バカな……」
この目で見ていても信じられない。まさしく魔法としか言いようのない現象に、俺は呆然とした視線をファルに向けた。
ラーダを抱きしめたまま、ファルがふらりと床に座り込む。
その双眸から赤色が失われているのを見て、俺はようやく身を起こす気になった。
ダーラー様が気絶しているのを確認してから、俺はおそるおそるファルとラーダに近づいた。
俺の姿を確認したファルが、情けない顔で見返してくる。
「ラ、ラーダが。ラーダがっっ!オレが頼りないからっ……!」
「ガキみたいに喚くな。その顔ラーダに見られたら、幻滅されても知らんぞ」
混乱したままの彼の声に苦笑いを浮かべながら、俺はラーダを見下ろした。
右腕の怪我はどうやら火傷のようだ。黒く焦げた箇所がいくつもある。魔神の傷をふさごうと服の袖を破いたせいで、傷口は凄惨なまでにはっきりと分かった。
斬られたわけじゃなさそうだ、と俺は内心でホッとした。
その寸前まで殺されようとしていた相手を助けようとするあたり、ラーダも見かけによらずお人よしだと呆れてしまう。
その胸元にチラリと見えるペンダントを見て、ようやく事態に合点がいった。
「……チャージだ」
ポツリとオレが呟いたのを聞いて、ファルは呆けたような顔をした。
「ラーダのペンダントは、王宮からの支給品だ。一回ごとの使用魔力がどのくらいのものかは知らないが、ラーダは毎回毎回毒チェックしてたからな、相当魔力を消費してたんだろう。ラーダの前の調査官だって使ってたし。
おまえが放った赤い光――あれは魔力そのものだったから、ラーダを貫く前にこっちに吸収されてたんだ」
俺の推測に、ファルは驚いたように目を見開いた。
「じゃあ、ラーダは……?」
「右腕の火傷がよほど酷かったんだろ。痛みで気絶したんだ。……とはいえ、命に別状はないだろうし。帰ってロクサーナに診せるこったな」
俺の説明に、ファルの目に希望が浮かんだ。
「助かったな」
ニヤッと笑ってみせると、気が抜けた様子でファルはへなへなと床に手をついた。
ラーダよりも年上のはずなのに、いいところ同い年か、下手をすると年下にさえ感じられる。この顔をラーダが見たら、ますます恋愛成就が難しいのではないかと余計な危惧をするところだった。
魔力のチャージ。
そんなものができると知ったのは最近である。回数切れだった『魔法の絨毯』が黄金宮まで飛んでこられたのも同じ理由だ。
俺のところに顔をだしたヒナが、魔力を分けてくれていたため、かろうじて往復分のチャージができたのだ。
実のところ、絨毯に魔力を分けてしまったために、魔神に呼ばれたヒナは残り少ない魔力を奪われて完全に身動きができなくなってしまった。ヒナの親切心がアダになったのだ。その逆恨みを魔神にぶつけるのは何か違うのではないかとファルに批判されたが、俺としてはどこから考えても魔神が悪い。
その上、絨毯が裂けてしまった以上、せっかくチャージした復路分の魔力は無駄になってしまった。ほら、どこから見ても魔神のせいだ。
「そうだ、ヒナは……」
玉座の足元に転がった4人。魔神のしもべだという面々の様子を見に向かった俺は驚いた。
名は知らないが色っぽい女性、シンドバッド、ヒナ、そしてキルス。それぞれがぼんやりとした様子で目を開き、身を起こそうとしているのだ。さっきまで全然だったのに何故――と思ったところで、理由に思い至った。
魔力のチャージ。赤い光の雨。
同じことがこの4人にも起きたんだろう。魔神に魔力を奪われていたのを、赤い光を吸収することで意識を取り戻したのだ。
完全回復はしていないだろうが、そこは問題視するところではない。重要なのはヒナが元気な顔をしているということだった。
『アラム!』
ヒナが喜びにあふれた顔で俺を見やる。幼子に懐かれているようで、少々くすぐったい気分になるが、自然と笑顔が浮かんでくるのはやはり、ヒナが向けてくる感情が好意的なものだからだろう。
「良かった。無事だな?怪我はないか?」
俺が尋ねると、ヒナは困ったような顔をした。
「ど、どうした。もしかしてどこか怪我……」
ヒナはふるふると首を横に振り、ファルに抱きかかえられているラーダへとチラリと視線を向けた。
『ラーダ、ていこうしなかったから』
「そうか」
ラーダの右腕の火傷はヒナによるものだったのだろう。
ラーダが抵抗しなかったのは無理もない。ヒナ相手に攻撃できなかったのもあるだろうし、そもそも攻撃手段がなかったというのが本音だろうから。
「まあ、こいつはタフだから心配ない。それよりも……」
俺はそう言ってラーダから視線を外し、もう一人のラーダ、否、魔神へと視線を向けた。
魔力を吸収して目覚めるという点では、魔神のしもべである4人よりも魔神の方が理解しやすい。もともと赤い光は魔神のものだったのだから、先にこちらが目覚めてもおかしくなかったのだ。
俺の想像通り、魔神はとっくに目を覚ましていた。
ラーダと同じ顔をして、身を起こし、気絶しているラーダを見つめていた。
その双眸は、――やはり、赤い。
「な、なんだ?」
ファルが警戒してラーダを背に隠そうとする。その様子に、魔神は赤い双眸をしたまま口を開いた。
『主人、願い事を使いますか?』
「なに?」
『その娘の傷は、おそらく残ります。この国の女性は夫以外には肌を見せないもの――とはいえ、醜い傷を負った女は結婚などできません。
ましてやあなたが王宮に彼女を迎えたいと思うのであれば、傷のある女など周囲が反対するでしょう。
その娘のことが大切であればなおのこと、生涯残る傷など残して心に傷を作らない方が良いと思いますが』
「……」
『わたしなら、治せますよ』
魔神の甘美な誘いに、ファルは迷いを表情に浮かべ――……だが首を振った。
「君は忘れたか?オレの願い事は、君が二度と魔法を使わないことだ」
きっぱりと告げたファルの言葉に、魔神は怯んだようだった。
『……っっ!』
それきり声もなく、魔神は唇を震わせた。
□ ◆ □
俺たちが港街へと戻って来たのは、それから数時間経ってからだった。
手段は、なんと『魔法の絨毯』だ。
辺り一面に広がった赤い光は、切り裂かれた『魔法の絨毯』にも魔力を与えていたらしい。てっきり破れたことで使えなくなったとばかり考えていたので、これはありがたい誤算だった。修復機能がついていたようで、美しく直った『魔法の絨毯』は、まるで自分を使えとばかりに玉座の間跡に舞い降りてきた。この修復機能、もともとは洗わずにおくための浄化機能らしい。確かに事務所の敷物の下に隠したまま、洗ったことなど一度もない。
4人の魔神のしもべたちは、それぞれの能力が使えるほどは回復していなかったので、他に方法はなかった。
帰宅手段が手に入ったと分かったころ、糸が切れたようにファルが倒れた。
魔神やヒナに言わせると『人間の身で魔力を使ったことで反動が出た』ということらしい。
一日か二日、目を覚まさないだろうが、命に別状はないとのこと。かつて西の大帝国時代にも似たような症状を見せた者がいた、ということである。参考例が古すぎて、正直言って頭から信用していいものかどうか悩ましい。魔神だけじゃなくヒナも同じことを言っていたので信用しようとは思うが。
ラーダが目覚めたのは『魔法の絨毯』を広げた後だった。
周囲はすでにとっぷり日が暮れ、空には星が瞬いている。本格的に冷え込んできた中、薄手の服しか身に着けていなかった我々は「このまま夜明けまで過ごせば凍え死ぬ」という、大変不名誉な未来予想図が見えていた。
袖を一本ダメにしているラーダも同様だ。
くしゅん、と小さなくしゃみをしながら目を開き、周囲を見回して困惑した表情を浮かべた。
お互いにそっぽを向いている魔神のしもべ、拗ねたような顔でうつむく魔神、ぶっ倒れているファル、気絶したまま縄で拘束されているダーラー様という面々である。彼女が話しかける先に俺を選んだのは当然であろう。
「何が……どうなりました?」
そうやって聞いてきたので、端的に答える。
「ファルは元通りに戻った」
「そうですか」
ホッとしたように息を吐いたラーダは、続いてダーラー様へと視線を移した。
「なら、このクーデターも終わりですね。国王陛下は、正気に戻っているんですよね?
確か黄金宮に現れた時に、港の王宮はすでに奪還している、国王陛下にかかった暗示もすでに解き放った後だ、って」
「ああ、それか」
そのようなことを言った覚えは、確かにある。俺じゃなくてファルがだが。
この内容は半分は正しくて残り半分はダーラー様を動揺させるための嘘だ。
港の王宮はすでに奪還しているが、これはそもそもダーラー様が軍を引き連れたりしていなかったことが原因だ。ダーラー様と魔神がいなくなれば、そもそも敵がいなかった。そのため、サンジャル様配下軍によってあっという間に掌握し返している。
一方の国王陛下にかかった暗示、というものだが、これは解けなかった。
魔神の魔力によってダーラー様の王位を認めさせた、というだけあって、国王陛下はあくまでも禅譲したと言い張り、再び王位に舞い戻ろうという意志がまったくないのだ。ただし、ダーラー様が他の者に禅譲することを反対もしないという。これにはサンジャル様配下軍としても困ってしまい、サンジャル様の帰国を待つしかない状況にある。国王陛下は現在後宮で妃の皆さま方と穏やかな引退生活をはじめていて、港街から都が遷るのであればこのまま、そうでなければ別の場所に離宮を作ろうと思っているらしい。
ラーダは絨毯の上に横になるファルを見下ろすと、そのそばに座ってそっと髪を撫でた。
そのしぐさはどこか自然で、愛情を感じなくもなかった。
思えばファルが魔力を暴走させ恐慌状態にあった時点で、ラーダは迷わず彼に近づき、抱きしめたのだ。
ファルの片思いとばかり思っていたのだが、これは案外と――……。
「惚れてんのか?」
ストレートに尋ねた俺に、ラーダは目をパチクリさせた。
髪を撫でる手を止めて、少し迷ったように見下ろしている。
「……いいえ」
戻って来た返答は、やはりNOだった。ファル、哀れな……。
ラーダは口元に笑みを浮かべて、また髪を撫でた。砂漠の国であるエランは、空気の中を砂が舞う。そのため、頭布もなしにうろついていれば髪の毛はジャリジャリと砂を含んでしまうのだ。その昔は衛生を考え、髪の毛はすべて剃りあげてカツラをかぶるのが正しいマナーとされた時期だってある。
「でも、好ましいと思います」
ラーダはそう言って微笑んだ。
「別に恋とか愛とかではなく、こう……人間として」
少しばかり言い訳するようにラーダは口早に言い添える。今後恋愛に発展するかどうかは要努力というところらしい。だが、自覚はないようだが脈なしというわけではなさそうだ。
俺は港街に戻った後のことを考えて、ファルに少しばかり同情した。
サンジャル様が戻れば、ファルはこれまで通り自由な王子の立場ではいられなくなるだろう。気長にラーダを口説くなんていう余裕はなくなってしまう。それこそナスタラーン姫あたりとの婚姻を急がれる立場にあって、この小さな火種が維持できるのかどうかは、俺には分からなかった。
「右腕は、どうだ。火傷については港街についたらロクサーナに診てもらえ」
俺が言うと、ラーダは自由に動かない右腕に視線を落とし、小さな声で答えた。
「とりあえず、痛みはだいぶ和らぎました」
「単に感覚がマヒしてるだけだろ。……動くか?」
「いいえ」
これには正直に首を横に振る。
「もし、回復しないようだったら……港湾課に復職って、絶望的でしょうか」
不安げな彼女の質問に、俺はあっさりと答えた。
「元の部署じゃなくたって、仕事は山ほどあるんだ。そんな心配は不要だな」
だいたい、と俺は続ける。
「おまえは港湾課が全員五体満足なやつばかりだと思ってるのか?」
暢気そうに見えて、身体のあちこちにガタが来てるやつも多いのである。
港街にたどり着いた後、魔神も、魔神のしもべたちも皆、王宮への出頭を拒否した。
街の出入り口のところで我々と別れるといって『魔法の絨毯』を降りたのだ。
『……魔法を使わないで欲しいという、主人の願い。それを実行する前に少し時間をください』
魔神はそう言って、ファルから逃げるように目をそらした。
肝心のファルは一日か二日は目覚めないだろうという夢の中だ。止めようにも止められないし、返答しようにもできない。
『主人の目が覚めたころ、報告にきます。
魔神は、魔法を使うことのできる神。人々の願い事を叶える存在。……そのはずでしたから』
魔神は天界には帰れないのだろう。
それは、課題の規定数をクリアしていないからかもしれないし、人々に害を及ぼそうとする存在に成り果てたからかもしれない。
今のところ魔神の反旗について被害を受けたのは数名に限られるので、ペナルティなしで終わってしまう可能性もあるが。
天界とやらがどういう仕組みになっているのか、俺には分からないので、うかつなことは言えない。
魔神の4人のしもべたちも、魔神に付き従って今後のことを決めるらしい。二度と会わないかもしれないし、案外すぐに再会するのかもしれないが、しもべである以上、魔神の動向が問題になってくるのは当然のことだった。
『アラム』
むくれたように頬を膨らませたヒナが、魔神の横に付き添いながら声をかけてくる。
『おなかだしてねたらかぜひくからね』
きょとんと思わず目を丸くしてしまった俺を、誰が責められよう。
思わず笑い出した俺は、憮然とするヒナの髪をぐしゃぐしゃと撫でた後、こう告げた。
「身体に気をつけろってことだな?了解した。
ヒナこそ、まだ小さいんだからな、あまり無理はするな。水分と栄養をきちんととって、よく眠って。魔神が無茶なこと言ってきたらちゃんと拒絶しろ。子供には子供の権利ってものがあって、大人には子供を守る義務があるんだからな」
『こどもじゃないもんっ!』
込み上げてくる笑みをそのままに俺は言う。
「魔神がファルに挨拶に来るときは、俺にも声をかけてくれよ」
『ん。いいよ』
そのまま、5人は街中に消えていった。王宮に向かう俺たちとは違う方向へ。
『魔法の絨毯』はそのまま王宮へと向かった。
ダーラー様の新王宣言からはじまる、長い一日がようやく終わったのだ。
次回最終話です。




