第三話 新人荷運びの正体
せっかく帰りかけた道を戻り、再び港湾課の事務所へと戻ってきた。
密航者を捕えたはいいが、厄介な情報付ということで、もうすぐ仕事上がりの時間だったアラム先輩が嫌な顔をした。
「ラーダ、俺を寝かせない気だな?」
「嫌ですねー、失点を取り返したと思って喜んでくださいよ」
「おまえが取り返したわけじゃないだろ?こっちの色男のおかげじゃないか。いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」
「残念ですけど、まだ名前も知りません」
私が言うと、アラム先輩は改めて協力者である男の方を見やった。
「えーっと、一応、調書として書かないといけないんで、名前が知りたいんだが」
先輩の言葉に、男は苦笑いを浮かべた。
「通りすがりではダメなのか?」
「さすがにさあ、怪しまれちゃうからね」
「……では、ファルでお願いしたい」
「了解。ファルねー」
どう考えても偽名だろうと思われる自己紹介に、先輩はあっさりと引き下がってメモをする。
実のところなんという名前でも良かったんだろう。
ファルが答えなかったら、適当な名前をでっち上げて書いた可能性さえある。というか、アラム先輩の報告書には以前からやたらとカシムという名前が出てくるんだが、きちんと事情聴取せずに適当に書いたわけじゃあるまいな?
「じゃあ、こいつは引き受けた。今度こそきっちり詰所に押し込んで、尋問してイロイロ聞き出すよう手配しとく。密航だけならなー、まだマシだったんだが……。盗みの罪状がつくと、下手をすりゃ腕を落とされるってこと、分かってないんだろうなあ」
エラン王国では、盗賊はかなりキツイ罰を受ける。砂漠は水の奪い合いの歴史でもある。そのため、お互いを信頼できるよう、不道徳な真似をした輩に対しては二度と同じことができないようにするという観点があるからだ。
もっとも、事情次第によっては情状酌量の余地もあるし、ペテルセア帝国の影響下に入ってからのエランなら、男女問わず裁判で本人の訴えを聞く体制も整ってきた。この男の場合、密航者の対応は強制送還か強制労働による船代返却だったので、逃げたりしなければ命に関わるような罰則を受けることはなかったはず。……あー、でも、労働だと治療が受けられなくなるかもと思ったのかもしれない。
「それにしても、ラーダ。向こうの狙いをずいぶん吐いてくれたらしいじゃないか。わざと逃がして泳がせたんじゃないだろな?」
「とんでもありません」
誰がそんな面倒なことをするものか。
「あのぅ、アラム先輩。わたしも、取り調べに同行させていただきたいのですが」
「え?」
ロクサーナの申し出に、先輩は驚いた顔をした。
「彼の病気が、わたしの診断通りでなかった場合、大変なことになります。診断通りであった場合も、まだ治療途中です。できれば最後までお世話をさせていただきたくて」
先輩は少し困った表情を浮かべた後、それ以上考えるのが面倒になったんだろう。
「こいつも果報者だよな、港湾課一番の人気者、ロクサーナにここまで言ってもらえるなんざ、男冥利に尽きるってもんだ」
それを了解だと理解したロクサーナはホッとしたように微笑んだ。
「面倒ついでに、ファル。ラーダを街まで送っていってくれないか?これでも女だからね、一人で歩かせるのは良くないんで」
「承知した」
「え。要らないですよ」
断る私をよそに、ファルは深々とうなずいた。
事務所を出て、数歩。
「見送りなんて面倒でしょう。必要ないですから、どうぞお帰りください」
キッパリと断ったってのに、ファルは黙って首を振った。
「あんたは、自分が女であるという自覚がないのか」
「港湾課の制服を着てる時点で、襲ってくるような連中はいません。だいたい、一日中荷運びしてたなら相当疲れてるんじゃありません?ランプの油だってタダじゃないし、余分に歩けばそれだけ稼ぎが減りますよ?」
ぶつぶつと私が言うのに、彼は黙々と歩みを進める。
なんだろな、この強情さは。どうも、女は守らないといけないものだと思っているらしい。エラン王国には多い考え方だけど、流行らないよ、イマドキ。
「街の、どのあたりに住んでるんだ?」
港から街へと差し掛かるところについた時、彼が口を開いた。
「バザールの近くです」
私の返答に、彼はますます眉根を寄せる。せっかく整った顔をしているのに、しわが寄っちゃうよ?
「……一人暮らしなのか?」
「なんでそんなことまで話さないといけないんです?」
根掘り葉掘りと続いた質問に気を悪くして私が眉根を寄せたのは伝わったらしい。
「それも、そうだな……すまない」
素直に謝り、首を振る。それからまた沈黙だ。
「ファルさんは、働く女性ってそばにいなかったんですか?」
私が聞くと、彼は少し驚いたように目を丸くした。
「いなかった、わけではない」
「召使いとかです?」
貴族のぼんぼんだと睨んでいたのでそう尋ねると、彼はまた沈黙に戻った。けど、これはたぶん、肯定だろう。
「どうしてまた荷運びなんかしてるのか知りませんけど、下町には働く女性は多いんです。そろそろ慣れたらいかがです?」
「……そうだな」
真面目な人なんだろう。港の男たちの荒い雰囲気には似合わない。
家が没落でもしたんだろうか。あるいは家出中なのか。どんな理由にせよ、ここで働いている以上は彼もまた海の男だというのに。
「あの、ですね」
沈黙に耐えかねて口を開いたのは私の方だ。作戦だったら大したものだけど、そういうわけじゃあるまい。
繁華街につき、踵を返そうとした彼に声をかけてしまった。
「送ってくれて、ありがとうございます。良ければ食事でもご馳走しますけど」
私の声掛けに、彼は驚いたように足を止めた。
女は守るもの、で生きてきた彼は、当然、女に誘われたことだってないだろうから。
「家には上げませんよ。そこらの食べもの屋で構いませんよね」
一方的に言って、私はズカズカと歩きはじめた。
バザールが賑やかなのはやはり昼間だ。商店がテントを張って、その下に多くの商品が並ぶ。食べものとか、着るものとかが多い。
港に運ばれてきたばかりのものや、農地で育てられているもの、ラクダで砂漠越えしてきたものなど様々である。
商人のほとんどは街中に住んではいない。日中だけ店を開いて、夜には街の外へと帰って行く。旅の商人たちが本当はどこに住んでいるのかは知らない。
別の街のバザールへ運ぶため、港から直接荷物を運んでいく商人もいる。エラン王国の中で大きい街というと、王宮と港のあるこの街だけど、次に大きいのはオアシス都市。それと、50年前以前に使用されていた古い王宮のある旧都だろう。大きくないけど栄えているらしいのは北の山岳地域にある村で、ここは塩湖で塩が採れるっていうんで、商人が多く行き来するらしい。
この街のバザールは実は夜でも明るい。
世界中の海の男たちが集まるこの街では食べもの屋だって年中無休だ。ただ、夜は酔っ払いが多いので、まともな女の子は近寄らない。また、こういう場所には付き物なのが、色っぽい服装で給仕をする女性たち。場所によってはダンスステージがあって、なかなか際どい踊りを見せてくれたりもする。
さすがに好んでは入らないけど、私も港湾課の付き合いでその手の店に入ることがある。
最初はなんでこんなところに女が、という目で見られたけど、今では「良く来たわね、サービスするわよ」とおねーさんに言われるまでになった。何をサービスしてくれるのかといえば、お酒である。女性向けの、ノンアルコールカクテルを作ってくれるのだ。これが実に甘くて美味しい。お酒だって呑めないわけじゃないんだけど、二日酔いするのも嫌だし、酒臭くなっちゃうし。あ、一応私、成人してますからねー、それにエラン王国じゃ飲酒は16歳からOKなので。
これはおそらく、長旅に出る船乗りたちは腐ってしまう水よりもお酒を船に乗せることが多く、そのせいでかなり幼いうちから飲酒慣れしているせいだろう。
エラン王国でお酒を飲む場合、果実酒か乳酒ということになる。禁酒を説く宗教を信仰している人のために、お水や豆水、果実水なんかもあるけれど、そういった人は巻きこまれるのを嫌がってこんな店にはやって来ない。
とはいえ、この真面目そうなファルを連れて入るのに、そんな店を選ぶわけにはいくまい。
酔っぱらって女にデレデレになる様子を見て笑ってやろうかというほど、意地悪な気持ちはしてこないし。
そう思い、私が彼を連れて入ったのは、馬鹿騒ぎは好まないが呑みたいし食べたいというタイプの人間が入る、静かな店だった。
石造りの四角い建物で、中央には同じく四角い形をした中庭がある。中庭の天井は空が見えるよう屋根が開いているのだ。
日中の日差しが避けられるよう、あるいは雨や砂を避けられるように、客は中庭を囲む屋根の下に座る。給仕の人が定期的に回ってくるので、彼に注文を伝えるのだ。
夜であれば、中庭の天井からは星が見える。
「ここはお酒もいいですけど、食事も美味しいですから」
私がそう言って、案内するのに、彼は驚いた顔をした。
「こんな店もあるのか。賑やかな場所ばかりなのかと思っていた」
「適当に注文しますけど、いいですか?お酒の好みがあればそれも……」
「あ、いや」
彼は言いづらそうに首を振る。
「できれば、酒は呑みたくないんだ」
「あれ、苦手でした?」
「そういうわけじゃないが、情けないことに記憶が飛ぶ可能性があるんだ」
どんな酔っぱらい方をするってんだ、この男。
「それは残念ですね。なら、私のオススメにしときます?これはお酒じゃありませんし」
そう言うと、とろとろのフルーツジュースを二つ頼んだ。
ファルは、成人男性に相応しく大喰らいであるらしかった。
最初こそ遠慮してちまちま食べていたようだったけど、食事が口に合ったのか、途中からはまったく遠慮なくバクバク食べている。そこらの海の男並だ。もっと安い店にしとけばよかった。羊だの、鳥だの、魚だの。夕飯とは思えない量である。
私は豆を煮たのと鳥肉のシチューにした。
私としては、実のところこれはロクサーナを助けてもらったお礼なので、一食分くらいはいいだろうと思ってるんだけど、ゆうに三食分は食べられている気がする。おのれ。
「いや、助かった。ここ数日これほど満足に食べたことはなかったんだ」
食事のおかげか、ファルはずいぶんと打ち解けてくれたらしい。
穏やかな笑みを見せてそう言った。
「それって、荷運びとしてってこと?」
「ああ、まあ……。気づかれてるみたいだから言うが。荷運びをしているのは、ちょっと目的があって」
「目的って?」
まあ、荷運びバイトはほとんど面接なしの日雇い労働なので、素性の怪しい人間でもわりと簡単になれるのだ。親方が見張っているので、不道徳な真似はできないし。
荷運びバイトが悪さをすると船主に多大な迷惑がかかるので、親方の存在はわりと重要である。
「ちょっと……。その、探し物をしている」
ファルは少しばかり恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「君は、『魔神のランプ』というものを聞いたことがあるか?」
私は目を丸くした。
私の反応を、彼は誤解したらしい。
「あ、いや、その……。おとぎ話に、そういうのがあるんだ」
誤魔化そうとしたところを見ると、私が呆れているとでも思ったのだろう。いや、まあ、実際そういう側面もあるんだけど。
「いえ、聞いたことありますよ。帝国のおとぎ話にそういうのがあるって。エラン王国の昔話にも、ランプは出てきませんけど魔神はけっこう出てきますしね」
「うん」
彼はうなずいた。
「一か月ほど前に、帝国で悪事を働いたとして捕まった男がいて。その男が『魔神のランプ』を所有していたんだ。もちろん、誰もその存在を信じたわけじゃない。だが、男の成功が『魔神のランプ』によるものだと考えた連中のために、男の家屋敷や捕まっていた留置所などが襲われて……、結果、男も逃げ出してしまった」
「うええ……。大事件じゃないですか」
私が顔を引きつらせるのと同時に、ファルもまた真剣な眼差しで続きを口にした。
「男の『魔神のランプ』は行方不明になったが、唯一の手がかりとして、男の荷物の一部が、ある人物に売り払われてエラン王国行きの船に載せられたという。それで……」
「荷運びをしながら探してたと?見つかるわけないじゃないですか」
私があっさりと言うと、男は黙りこんだ。
「そもそもです。犯罪者の荷物だったら、帝国からエラン王国に差し止め命令が来るでしょう。押収して調べないといけないでしょうし。次に、荷運びバイトが簡単に荷物の中を見られるような仕組みになってたら、エラン王国の品位が問われます。いくら荷運びバイトになるのが簡単とはいっても、それくらいの従業員教育はしてるはずです。最後に、その『魔神のランプ』があったとして……」
私は彼をジロリと睨んだ。
「他人のものだと分かっているものを、盗む気だったんですか?」
「……」
彼は黙ったまま、苦笑いを浮かべた。
「買い取る気だった。……と言っても信じないか?」
「信じる信じないじゃなくて。本物なら売ってくれないと思いますけどね」
はー、やれやれとばかりに私は天井を仰いだ。
「何か途方もない願い事でも?」
「オレの願い事じゃない。ただ、悪用されたくないんだ。『魔神のランプ』は、西の大帝国跡の歴史的遺物だから」
そう言い終えると、ファルは喉が渇いたとばかりにグラスを飲み干した。
すかさず給仕がおかわりはどうかと口を挟む。言われるがままに注文する様子を見ながら、私はふと唇を噛んだ。
「……あーっと、ですね」
……『魔神のランプ』は、もう倉庫群にはないと思いますよ。そんな怪しげなもの、港湾課が見逃すはずはないですし」
ファルに『魔神のランプ』の場所を教えることはできない。
彼が悪人ではないとしても、私にも港湾課としての限界がある。
ランプは船倉で発見されて、そのまま証拠品として押収してある。誰も本物の『魔神のランプ』だなんて思ってないから、麦袋の中に隠すなんておかしなやつ、と思っている程度だろう。船主を通じて、荷物の持ち主について調べるようにと指示が出ているから、いずれ帝国で捕まった男とやらにたどり着くかもしれないけど、本人が逃亡中で見つからないんじゃ、事情確認もできないし、下手をすれば捜査途中でお蔵入りってことになるかもしれない。
ファルが私の意図したいところを理解するかどうかも分からない。
「そうか。……ありがとう」
ファルは笑った。はにかんだような笑みは、なまじ整っているだけに破壊力があった。正面から見つめられると思わず照れてしまいそうになる。
思わず顔を赤らめた私は、誤魔化すように追加を注文しようとして……、そこに立つ人物に顔を上げた。
いつの間にか知らない人がそばに寄ってきていたのだ。
「ええと?」
相席を了解した覚えはない。にも関わらず、堂々と私たちの席隣までやってきた人物が二人いた。
一人は長身で黒髪の、少しファルに似た顔立ちをした男だった。年齢は30歳前後か。身に着けている衣装は、私の目にも尋常ではないレベルの高級品だと分かる。あちこちに金糸の刺繍が入った上着を見て、それが分からなかったらおかしい。
もう一人も高級品を身に着けた男だったが、こちらの方が装飾が控えめでかえって上品に見える。中肉中背で長い髪を束ねていて、年齢はやはり30歳前後だろう。
「サンジャル」
ファルが驚いたように手を止めた。
サンジャルと呼ばれたのは最初の男の方だった。男はやれやれとばかりに首を振ると、私を一瞬睨んでからファルを見やった。
「こんなところで油を売っていたとは驚きましたよ。いつの間に趣旨替えしたのです?」
「は?」
どういう意味だと首をかしげる私の前で、ファルが眉根を寄せる。
「失礼だぞ」
「このような身分の者に失礼も何もありません。見たところ治安維持部隊ですね。護衛なしでウロウロしているよりは良いですが、少しはご自覚を持っていただきたい」
困ったものだとばかりにサンジャルは目を細めた。
もう一人の男がフォローのように口を開いた。
「そうおっしゃいますな。殿下もお考えがあってのことと、サンジャル様も黙認されていたではありませんか」
穏やかに微笑んでそう口にした言葉に、サンジャルは苦い表情を浮かべた。
もう一人の男の視線が私を見やる。穏やかそうな微笑みを浮かべているが、ほんの一瞬、違う色が混じった。背筋がぞくりとするような視線。
サンジャルの視線が邪魔者を見る目だとすれば、彼の目は調べる目である。港湾課では見慣れた視線だが、いずれにせよ好意的なものじゃなかった。
「一週間後、帝国の王女殿下がお忍びでいらっしゃることになりました。つきましてはいち早く王宮にお戻りください」
「……なんだと?」
「大帝国跡地の調査団に加わって来られるそうです。王子の遺跡趣味に合わせてくださったのでしょう、感謝してください」
「頼んでいない!だいたい、王女が遺跡に興味があるなど聞いたことないぞ。新しもの好きで、古いものになど興味がないと……」
「最近興味を持つようになられたそうですよ。面白い品を手に入れた、とかで」
「……まさか」
ファルの表情が青ざめる。それを、サンジャルはどこか気の毒そうに見下ろした。
「王女は昔から不思議なものに興味があるそうですから。例えば『魔神のランプ』なんていうものには目がないでしょう。ぜひとも王子とその話がしたいともおっしゃっておいでだそうです。いずれにせよ、港で染みついた庶民の香りは、早々と落としていただかないといけません。さあ、お早く」
しぶしぶとファルは席を立ちあがった。
一瞬だけ、視線が私を向く。
「……先に失礼する。すまない、食事中だったのに。できればお詫びに食事代だけでも払わせてくれないか」
「いえいえ。そもそもご馳走するってことで誘ったのはこっちです」
ひらひらと手を振りながら、私は困った顔を上げた。
「……王子様だったんですか」
「まさか気づいていなかったとでも?港湾課の教育はどうなっているんですかね」
サンジャルは呆れた風だったが、やがて理由に気づいたらしい。
「ファルザード殿下。あなたはもう少し気品を身に着けていただきたい。庶民に溶けこんで違和感を覚えられていないとは、どうなっているんですか」
彼の物言いにはカチンと来るものがあったが、これには少しばかり納得がいった。
気づかんわ、王子だなんて。そもそも王族の顔を見る機会なんてほとんどないし。上層部の顔を少しは知ってるアラム先輩も、王宮に出入りしているロクサーナでさえ気づいていなかったではないか。
「男、名は?」
それが私に尋ねられていると気づいて、私は目をぱちくりさせた。
港湾課の制服を着ているからか、店内が暗いせいか、私を男だと思っているらしい。失礼極まりない。
「サンジャル様、この方は男性では……」
もう一人がフォローのように口を挟もうとしてくれたが、私は黙って首を振った。
「お尋ねになる必要はありませんよ。そもそも彼自身も、私の名前を知りませんし」
私が言うと、サンジャルは意外そうにした後、興味を失くしたらしかった。
ふっと視線を私から外すと、そのままファルに顔を向ける。目を離したら逃げ出すとでも思っているのだろう。
「本当にいきずりの仲だったのですね。これに懲りて男相手に目を向けるのは止めてください」
「だから失礼なことを言うな。そもそもそういう関係ではないっ!どうしておまえたちと来たら二言目にはそういった話題に直結するんだ。おかげでまともに友人も作れないではないかっ」
腹を立てながら早足で入口へと向かうファルの後姿を見ながら、私は苦笑いした。
改めて王子だと思って見れば、後姿にもどことなく気品があるように見えなくもない。荷物運びをするにはいささかたくましさが足りないように思えたけど、板についていなかった理由は納得だ。
「失礼しました、お嬢さん。……サンジャル様は殿下のことで気が立っておられるのです。どうかお気を悪くなさらないでください」
もう一人の男の方が、そう言ってくれたが、服の上からラインを確認するかのような彼の視線も、あまり気分のいいものじゃない。男装だから男、と判断したサンジャルの方がマシかっていうと、別にそういうわけでもないけど。
「……あ~ぁ」
ちょっとばかりつまらない気分で、私はコップを飲み干した。
後に残されたのは外歩き用のランプが一つ。座席に置いたままだったのを忘れていったらしい。
食事代には足りないけど、これは彼なりの支払いだったと思うことにする。
友人になれるかもしれないと思っていた矢先だったのに、どうやらもう二度と会う機会はないだろう。
そう思っていた私と彼との再会は、さほど遠いことではなかった。




