番外 ファルザードと過去の話
オレの過去の話をしよう。
ペテルセア帝国に敗北したエラン。属国のようでいて独立国の体裁を維持する複雑な状態を統治する国で、国王の息子としてオレは生まれた。名はファルザード。正式名はもう少し長いが、個人名というとこれだけだ。
今でこそ国王の一人息子だが、幼いころには兄と弟がいたと記憶している。母親は違うが、特に争いを強要されるようなことはなかったので、年の近い同性の友人同士のようなものだった。ただ、どちらも病気が原因で早いうちに亡くなってしまった。
砂漠の国であるエランは、幼児死亡率が比較的高い。幼子にはエランの気候は暑すぎるのだろう。そのため子供は多い方がいいというのがエランの常識だった。エランが一夫多妻の国だったのも、幼児死亡率の高さが原因の一つだろう。複数の妻がいれば、多くの子供を望めるからだ。後継者を必要とする家柄では特に複数の妻を持つことを推奨されてきた。とはいえ、他国との交流が増えるにつれて、それはあまり良いことではないと考えられるようになり、今では一夫多妻が合法化されているのは国王とそれに近い貴族くらいに限られる。
一夫多妻制度のエランでは、妻たちの間に扱いの差はなかった。そこに変化が現れたのも、他国との交流のせいだった。正室には王妃として国王と並ぶ教養が必要とされたためだ。求められるものが多い分、見返りを求めるようになったとも言える。女性に対する教育レベルが低かったエランでは、これはかなり難しいことだったようだ。ペテルセアとの戦争期など、ロクに教育がされていない女性同士で王妃争いが繰り広げられており、どうやらそこを付け込まれてペテルセアに襲われたというのが真相のようだった。ペテルセア文化が入ってきたことで、女性にも教育が施されるようになり、エランはようやく国際社会に仲間入りできるようになった。
オレの母親は、息子が一人きりになった時点で正妃扱いを受けるようになった。もともと王妃になれるような気概のある女性ではなかったので、オレの教育は後宮全体で行われた。母親も他の女性との間に差を望むような気質ではなかったから、王妃としての仕事が回ってきた時以外は他の女性たちと変わらぬ生活をしている。その代わりに、オレの教育を主導していたのが、祖母である。
オレの母親と違い、彼女は”王妃”だった。
ペテルセア帝国との戦争に敗北し、王宮は港街へと移った。だが古き都である旧都には依然として王宮の雰囲気が維持されている。良く言えば誇り高く、悪く言えば融通の利かない貴族の一部と、後宮の真の主である祖母のための王宮。それが旧都だ。
□ ◆ □
ゴオゴオと風が鳴る。
真っ白い帆を広げた空飛ぶ船の上から見下ろしたエランは、一面の砂漠のように見えた。
オアシスも、池も、王宮もなく、ただただ砂漠の広がる国に。
ところどころに街があり、砂色の建物があるのだが、それもまた上空から見ると砂に埋もれる寸前にしか見えない。
広い。そして寂しい光景である。
「よーお。王子さんよ、起きたか」
甲板部から地上を見下ろしていたオレに、キルスが声をかけてきた。今しがた起きてきたようで寝癖のある髪を手で撫でつけている。
「ああ。……エランは砂色だな」
「そりゃそうだろよ。別の色が見たけりゃ海に出ればいい。ペテルセア帝国なんかは多種多様だ」
行ってみたいかと聞かれ、オレは黙って首を振る。
「私には寄り道している余裕がない。……旧都に向かってくれ」
「はいよ」
軽い返答を残して、キルスは離れていった。おそらくはこの船を動かしている主、シンドバッドに伝えるために。
調査団襲撃の報を受けて、オレは王宮を飛び出した。
旧都へ向かう一番早いルートは馬だ。それでも一週間はかかるだろうと思ったのだが。
馬で夜道を駆けているところを、どういったわけかキルスたちが上空から見つけ、声をかけてきた。
暗闇に浮かぶ白い船に言葉を失っていると、現れたキルスは問答無用でオレを馬ごと船に乗せた。上空に舞い上がられると、もはや下りることもできないため、オレは大人しく目的地を告げたのである。
シャーロフ大臣を家に送ったキルスは、しばらくの間姿を隠す必要があったらしい。目的地が旧都であれば一石二鳥。そう言ってきたキルスに、オレは戸惑いを隠すことはできなかった。
キルスは犯罪者だ。どれも小さな罪ばかりだが、積み重なって相当な量に膨れているため、国軍に捕まればそれ相応の扱いが待っている。
オレ個人として含むことはないが、為政者であるオレの前に、こうしてほいほいと姿を見せることには違和感があった。
「シンドバッドか……。これも、西の大帝国時代の遺品なんだが。こうして可動しているのを見ると感動するな……」
シンドバッドには自意識があるという。それでは、たとえエランの遺産だからと王宮に提出を求めても断られるだろう。他国にさえ渡らなければ構わないのだが、現役で可動する品だとすればなおのこと悪用されかねない。エランの遺産が悪用されるのは我慢がならないのだ。もっとも、キルスはシンドバッドをただの便利な船として利用しているらしいのだが。
『そうそう、僕を見て素直に感動するのが正しい人間だよ』
ふいに聞こえてきたのはシンドバッドの声だった。
宙に浮いている少年。青色の髪をした少年。どこから見ても人外の姿をしたシンドバッドは、船の意識体であるらしい。
聴き慣れない発音の言葉を話すが、これは大帝国時代のエラン語である。オレも話せないことはないが日常語でないため発音には少々自信がない。現代語が通じるようなのでオレはそちらで返答する。
「感動するのが普通じゃないか?空を飛ぶ船など見たことがない。それも、これほど美しい船は滅多にないだろう?」
『この前会った魔神そっくりな子には、まーったく驚いてもらえなかったよ』
「……ラーダのことか」
『そうそう、そんな名前。魔神そっくりなのに名前があるなんて変な気分だけどね』
シンドバッドはそう言って笑う。
港湾課のラーダ。その名前に心うずくものを感じて、オレは赤らむ頬を誤魔化した。
国軍に所属する女性は少ないながらも存在する。だが、港湾課という何かと物騒な部署に所属している女性と出会ったのは、春のことだ。
まだ成人したてだが、港湾課に所属して一年になるらしい。
女性としては背が高く、厚みに欠けるスタイルをしているため、港湾課の制服を着ているとまるで男性のようにも見える。
だが、男性としては少々――いや、破格の美形と言えるだろう。彼女を男と間違える人間はどうかしている。しかも日除けの布を頭に巻くだけで、顔を隠したりもしないのだ。おかげで、彼女の姿を見ることが海の男たちのひそかな楽しみだということを、知りたくもなかったのに知ってしまった。
オレと彼女は友人同士だ。――残念なことに。
港で出会い、どういった偶然かその後も顔を合わせる機会が多かった。『魔神のランプ』を追いかけているうちに親しくなった今、彼女もまたオレのことを友人と呼んでくれる。
いつのまにか彼女を特別視している身としては、もう少し関係を進めたいのだが、そうなるとこの国唯一の王子である立場が邪魔をする。
すでに一度フラれているので、王子でなくても同様だったかもしれないが。
『……で、その時キルスはねえ。止めといたらって僕が言うのも聞かずに飲んじゃったんだよ。ドロッとしてて、真っ黒で、少しも美味しくなさそうなそれをだよ?案の定、飲んだとたん目をシロクロさせてさー。ゲホゲホむせた上に吐いちゃったんだけど!結局需要があるんだからってことでエランまで運んだんだよ。あれ。あんなの買う人の気がしれないよ』
考え事をしていたら、シンドバッドの話す内容がまったく頭に入っていなかった。
「ああ、すまん。聞き逃したのでもう一度お願いできないか」
『ちょっとー。僕が話してるのに聞いてないってなんだよそれ』
シンドバッドは機嫌を損ねた顔をしたが、本心からではなかったらしい。また上機嫌な顔に戻って話を続ける。
彼の口から出てくるのは、キルスの話だ。キルスがどういったマヌケなことをしたのかといったエピソードを上げ、おかしいだろと言って笑い飛ばす。キルスにしてみれば冗談ではないというかもしれないが、シンドバッドの本意が伝わってきて微笑ましい。彼は自分の主人のことが大好きなのだろう。
「君とキルスとの仲は長いのか?」
オレが尋ねると、シンドバッドは目をきょとんとさせた。
『そりゃねえ。もう10年かな?キルスがランプで魔神を呼んだ、最初の願い事だったからね』
懐かしそうにシンドバッドは言った。
『でも、たった三つの願い事に10年以上もかかるようなケースは珍しいんだよ。魔神もよく付き合うよね、こんなやつに。ただでさえも何百年も封印されちゃって、一人でも多くの人間の願い事を叶えて解放されたいだろうにさ』
「解放……?」
『そうだよ、知らない?魔神ってのは、地上の人々の願いを規定数叶えるっていう、神様の修行の一つなんだ。今、地上に残ってるのは彼女一人だけ。他の魔神はとっくの昔に願い事を叶え終わって天界に戻ってるさ』
「神が何人もいるのか?」
『エランには何人もいないけど。東の方には八百万の神って言って、万物すべてに神様が宿るなんて国もあるよ。それぞれさ』
「……すごいな。神がそんなにいて、人々は混乱しないのか?誰を信仰していいか迷いそうだ」
オレが言うと、シンドバッドは楽しそうに笑った。
『だーいじょーぶ。その国じゃ、迷わず全部の神様を信仰して、全部の神様から願いを叶えてもらおうっていう結論になったらしいからね!』
「……いいのか、それで」
『いいんだよ。ああ、でもね。魔神については良くはない。彼女が気長な性格しているせいで、しもべの僕らもずっと解放されないし』
はーあ、とシンドバッドはため息をついて、チラリとキルスの姿を目で探した。甲板に彼の姿はない。
『知ってる?魔神のしもべは四人いるんだ』
「いや、知らないが興味深いな。詳しく教えてくれないか?」
『いいよ』
シンドバッドは得意げに笑うと、ぷかぷかと浮かびあがりながら答えた。
『魔神のしもべは、魔神が主人の願いを叶える時に手伝うことになっている。
それぞれ火、風、水、土の属性があって、対応する力が使える。エランでは『魔神のしもべ』だけど、地域によっては『精霊』って呼ばれたりもするかな。僕なら『風』だね。船の形状をしているのはたまたまで、他のしもべたちは別の姿をしているよ』
「たとえばどんな姿をしてるんだ?」
『そうだなー、『火』なら、鳥の姿をしてる』
シンドバッドは楽しそうに笑いながら答えた。
火の鳥。そのフレーズを聞いて思い浮かぶのは一つだけだ。
「不死鳥のことか」
『そうそう。おとぎ話によく出てくる不死鳥は、魔神のしもべの一人だよ。姿が目立つせいか、単独でおとぎ話に出てきちゃってズルイよねー。立場は僕らと同じなのに』
さほど妬ましそうではない風でシンドバッドは言う。
『ああ、おとぎ話って言えば。僕らは皆、ランプを持ってるんだ。魔神が何か用事がある時に僕らを呼び出す用の……言うなればホットラインだよね。ところがいつのまにか、このランプが逆に魔神を呼び出す道具だと思われちゃってるじゃないか』
「それって『魔神のランプ』のことか?」
『まあね。確かに、魔神に直接つながるんだから、そう言えなくもないけど。キルスが使ったランプもそうだよ、あれはしもべの一人、『水』が持っていたランプで。キルスが試してみたら魔神につながったんだ』
「だとすると、『魔神のランプ』は他にもあるんだな」
『壊れてなければ全部で四つあるはずだね。なーに、君も欲しいの?まあ、探すのは自由だけど、今言った通り、あれはホットラインなだけだから、キルスの願い事が叶え終わるまで次の順番は回ってこないと思うよ。
僕の知る限り、『火』のランプは女の人が持ってる。『水』のランプはキルスが見つけたやつで、君らが王宮に預かってるんだろ?『風』のランプは僕が隠してる。『土』のランプは知らないけどー……』
そう言って、シンドバッドは周囲を見回した。
しゅるしゅると吹いてきた風が彼の髪をなびかせ、ぐるぐると包んでは離れていく。風と遊んでいるようにも見える光景に見入っていると、やがてシンドバッドは笑った。
『あはははは!『土』のランプは黄金の都が崩壊した時に行方不明だったんだけどね。どうやら最近見つかってたらしい。でももう遅いな。『土』のやつが先回りして壊しちゃったってさ』
シンドバッドは続けた。
『『土』のやつはね、魔神のしもべであることが嫌だったんだ。早く解放されたいのに、魔神は僕らの願いを叶えてはくれないから。
だから魔神に愛想をつかして、『土』のやつは家出したんだよ。
しもべであることは止められないけど、しもべのまま新しい人生を歩もうってわけだ』
面白いだろ、とシンドバッドは口元を緩めた。
『でもね、ランプを複数持つことはすすめないよ。陣が重なると物騒なことになるかもしれないし』
そこへ、割って入る声があった。
「――ざーけんなぁあああ!」
口元を緩めたまま、シンドバッドは甲板に駆け上がってきたキルスに手を振った。
「探しに行ってやったのに、なんでここにいるんだよ、てめえは!」
「あー、舵のところでバタバタしてると思ったら僕のこと探してたの?だったら声かければ良かったのにー。この船全体が僕なんだから、意識体の僕に直接話さなくたって聞こえるよ?」
「うるせえ!」
ぎゃあぎゃあと文句を口にするキルスと、それを軽くかわすシンドバッド。この船に乗ってからずっと繰り返されている光景に目を細める。
この船の上には、煩わしいことが何一つなかった。
□ ◆ □
港街から旧都までは、早馬でも一週間はかかる。
もう少し時間がかかることを覚悟していたが、空飛ぶ船シンドバッドは、たった二晩で旧都が見えるところまで移動した。
これほどの速度で移動ができるならば、街と街との間に交流が進んでもっと栄えるだろうと思うが、それもシンドバッドという船があってこその話だ。
「この技術が再現できればな」
魔神たちの不思議な力がどういった仕組みになっているのか。それは、魔神のしもべであるシンドバッドにもよく分からないことらしい。実際、西の大帝国時代の遺産として残されている品には、仕組みが分からないものがほとんどだ。港湾課のラーダが所持している、毒に反応するペンダントなどもそうである。これらの仕組みを解明できれば、エランはかつての大帝国のように栄えるかもしれない。そう思うたびに、自分の非力さを思い知る。これらを研究する施設を作りたいなどと言ったら父親やサンジャルに反対されるのだろう。金の無駄遣い、おとぎ話を本気にする愚かな王子として。
シンドバッドは旧都から馬で一時間ほど離れた場所で停泊した。
「それじゃーなー。これ以上近づくとうるせえバアさんに見つかっちまうから、ここでいいよな?」
「乗せてもらえて助かった。運賃代わりといってはなんだが、受け取ってくれ」
馬ごと地上に下ろしてもらったオレがそういって差し出した指輪を見下ろして、キルスは肩をすくめた。日用品で申し訳ないが、王子の装飾品なのでそこそこの値段にはなるはずだ。だが、キルスは受け取らずに首を振った。
「運賃っつーなら、港湾課の連中に口添えしてくれよ。あいつらうるせえ」
「うん?罪を軽くするようにってことか?」
「そーだよ。なんであいつらあんなに仕事熱心なんだ」
「それが彼女たちの仕事だからな。……オレの口添えでどれだけ減罪できるかは分からないが、それくらいなら承知した」
うんざりした様子で言うと、キルスを乗せたシンドバッドは静かに空へと舞い戻っていった。
受け取りを拒否された指輪をつけ直し、オレは旧都へと視線を戻す。
旧都は、オアシス都市として発祥した。もともと西の大帝国への交通の要衝だったところに王宮を置いたのは数代前の王である。
西の大帝国が砂に埋もれ、旧都は要衝地とは言えなくなったが、水に恵まれ作物を育てることのできる場所は貴重だったため、そのまま都市として栄え続けた。他国との貿易さえなければ、この街から離れる必要はなかっただろう。海に出るには遠すぎる、それを理由にオレの父親はここから離れた。実際は、何かと干渉してくる祖母から離れたいと思った末だったようだ。
王宮を移動させることに、祖母は強固に反対した。慣れ親しんだ王宮が好きだったせいもあるだろうし、ペテルセア帝国に敗北したのが理由だったというのも彼女の気に入らない点だっただろう。
オレは、定期的にこちらまでやってきて、祖母の手によって育てられた。港街と旧都、どちらが好きかは答えられない。旧都には古き良きエランの空気が残っていたし、祖母から聞かされるおとぎ話が好きだったからだ。
オレの来訪に、旧都王宮の召使いたちが騒然とする。通常、先触れもなし、供もなしでやってくるはずはないからだ。
バタバタとする中、馬をつないだ馬小屋で待たされることしばらく。
応接用の部屋に通されたオレは、部屋に近づいてくるバタバタとした足音を聞いた。
久しぶりに会った祖母は、幾分老けていたが、相変わらず美しかった。
「急な来訪ね。どうしたの?」
「先触れもなく訪れた無礼をお許しください、お祖母様」
孫としての礼をすると、彼女は険しい表情をやわらげた。
「無礼だなんて。わたくしとあなたの仲じゃないの。あの子が何かしでかしたのかしら。わたくしの手が必要?」
あの子というのはオレの父親のことだろう。
優しく微笑んでいるだろう表情が、変化する瞬間を見るのは忍びなかったが、オレは顔を上げた。
「お祖母様にお尋ねしたいことがあって、参りました」
片道一週間だと思っていたから、話す内容が頭の中でまとまりきれていない。二晩の間に整理した内容だけで口を開く。
「ペテルセア帝国の調査団を襲ったのは、お祖母様ですか?」
オレの言葉に彼女の表情は凍りついた。
「聞き間違えかしら。わたくしがなんですって?」
彼女は不機嫌を形にしたような表情を一瞬浮かべた後、こめかみをぴくぴくさせながらオレを見つめる。
「ペテルセア帝国から、西の大帝国跡に関する調査団が派遣されてきているのはご存じですよね」
「知っているわ。まったく、盗人猛々しいとはこのことよね。あれはエランのものだというのに、ペテルセアごときに何の権利があって勝手に掘り返しているというのかしら」
「今回の調査団に、王女が加わっていることもご存じですか?私と婚約する話が上がっているナスタラーン姫です」
ピクリと再び彼女のこめかみが動いた。
「……さあ、どうだったかしら。わたくし、興味がないから分からないわ」
「ご存じだったんですね」
はぐらかすような言い方は肯定だ。そう断じたオレに、彼女はこめかみの動きを激しくした。
「だとしたらどうだというの?」
「調査団が、襲われました。今のところ賊の正体は不明です」
「……王女もその場にいたのかしら?」
「いたとしたら、どうします?」
「あの子が困るでしょうね。国際問題になるのは間違いないでしょうから。王女も王女ね、わざわざ危ない場所に首を突っ込んできて命を落としていれば世話ないわ。エランの王妃になろうなどと不相応なことを言うからよ」
「……本気でおっしゃっておいででないことを祈ります」
オレが言うと、彼女はフン、と鼻を鳴らした。淑女らしくないしぐさだが、この場にはオレと彼女、それに数名の召使いしかないのだから大目に見たいところだ。
彼女はチラチラとした視線をオレに返した。どことなく不安そうな色が覗く。
「本当にいたの?王女は」
「さすがに同行しておりませんでしたので無事でした。ですが、王女が来訪していたことはペテルセア帝国はもとより、エラン上層部は皆知っております。なにしろ調査団に加わらないようにする代わり、各貴族たちがこぞって家に招いておりましたので」
今度こそ彼女のこめかみはピクピクヒクヒクと動いた。
各貴族、の動きの中に旧都派の者がいないのは言うまでもない。ペテルセア帝国とつながりを深めたい港街の貴族たちによるものだ。
「……安心しました。お祖母様は本当に無関係のようですね」
「当然でしょう」
オレの言葉に、彼女は少々気まずげに答えた。
「いくら王女が気に入らないからといって、刺客を送るほどではないわ」
「エランの貴族で、私と王女との婚約に反対する者はおりません。動機が婚約破棄だった場合、黒幕としてお祖母様の名前が上がる可能性がありえます。無関係でしたらなおのこと、今回の件について父上に口添えが必要かと」
「あの子が、わたくしがそのような真似をすると思っているとでも?」
「……」
オレは返答をしなかった。エラン国王である父親の胸中は、もちろん彼にしか分からない。だが、日ごろから祖母を疎ましく思っている彼のこと、これを機会に謹慎を求めてくる可能性はある。
「だいたい、ペテルセア帝国の王女を王妃に迎えるだなんて……。まさか本当に行うつもりはないでしょうね?」
ジロリと睨まれたオレは、これには特に動じることなく首を振った。
「現時点でナスタラーン姫をお迎えすることはありません。ですが、父上がどうするつもりかは不明です」
シャーロフ大臣に告げた通り、祖母の懸念をオレの口から否定した、その時だった。
関係者以外立ち入り禁止であっただろう応接用の部屋入り口から、召使い風の男が駆けこんできた。
「大変です!上空に、白い船を見たという者がおります!」
「なんですって!?」
男の報に、祖母は顔色を変えた。
空飛ぶ白い船とはすなわち、シンドバッドのことだ。
オレ自身がそれに乗ってきたのだから、旧都のそばに現れたと聞かされても驚くことではない。
だが、祖母にとっては違ったらしい。
「例のランプを持ってきなさい!」
駆けこんできた召使いに一声かけると、大急ぎで駆け出していく。この祖母が走るところなんてはじめて見た。
「キルス……!今度こそ逃がさないわよ!」
なぜ、その名前を知っている?
オレは迷わず祖母に同行した。付いてこいとも付いてきていいとも言われていないので、無断ではあるが構わないだろう。
祖母はオレが同行していることにも気づかぬ様子で、召使いが運んできた見覚えのあるランプを両手で受け取ると、王宮上層部にあるバルコニーから顔を出す。ヴェールをつけて顔を隠すこともせず、太陽の眩しさに目を細めた。
バルコニーは王宮時代のものを改築しているようだった。
多色の石を使った美しい模様が施されているが、バルコニーの床にそのようなものを作っても地上からは見えないだろう。
円を描いた装飾は、なんらかのモデルがあるようで、規則性が感じられて美しい。
いや、この模様は確かに見たことがある――。
ゴゴゴッゴゴゴゴゴゴゴ……。
音もなく飛ぶ白い船が、まるで身動きを止められたかのように浮かんでいた。
空気を震わせて聞こえる音は、動こうとするのに止められているせいできしんでいるように思える。不快な音だったが、祖母は歓喜した。
「引っ掛けたわ。ランプの魔法陣よ。これで動けないはず!」
魔法陣?
祖母の口から出てきた突拍子もない言葉に目を剥いた。
だが、その言葉で頭に浮かんできたのは馬鹿げたことだった。
なるほど、模様を見たことがあるはずだ、あれはナクシェ村に行くために作成した赤い衣装。あの絵に織り込まれた模様である。
それだけではない。この模様は、『魔法のランプ』の内側に描かれている模様なのだ。
ランプをまともに触ったことのないラーダは知らないだろうが、宝物庫におさめたオレと、アラムあたりも確認している。
魔神たちの使う、魔法のための陣。なるほど、魔法陣だ。
「お祖母様、何をしておいでです」
オレの言葉に、祖母は興奮した様子で口を開いた。
「ファルザード、あれを見なさい!あれこそがシンドバッド。おとぎ話に出てくる空飛ぶ船よ。七つの海を駆け、空も海も制する……」
祖母の言葉は続きそうだったが、割って入ってきた声がそれを止めた。
「やっぱり、あんたか。バアさん!」
苛立った声で甲板から叫ぶ声。キルスの姿は見えないが声は彼のものだった。
ゴゴゴゴゴゴッゴ…………
音がようやく止んだ時、シンドバッドの甲板はバルコニーとちょうど同じ高さにあった。
これも魔法陣の効果だとすれば恐ろしいことだが、甲板にはキルスの他にシンドバッドの姿もあり、平然としているところを見ればさほど重要事項ではないようだった。
キルスの声が大きくなった代わりに、祖母の声はいつもの調子に戻った。
「10数年ぶりね、キルス。相変わらず目つきの悪いこと。シャーロフから話は聞いているでしょう。早いところ『魔神のランプ』の権利をわたくしに譲りなさい」
「ヤだね。ひとの勝手だろう」
「あなたはそれで良くてもわたくしには良くないのよ。こうしている間にも世の中は移り変わってしまう。あなたからランプを取り上げようというのではないのだから、さっさと願い事を叶えてランプを放棄しろと言っているのよ」
『いいこというね。おばあさん。ねえ、キルス。彼女もこう言ってることだし、そろそろ三つ目の願い事をしたらどうだよ?』
祖母の援護をしたシンドバッドをジロリと睨んだ後、キルスは口を開いた。
「三つ目の願い事を叶えたら、一つ目も二つ目も終わりになる。あいつも消える。それは都合が悪いんだよ」
キルスの切り返しに、シンドバッドは口を尖らせた。
『僕としては早いところそうして欲しいんだけどなあ』
続いてジロリと睨まれたのはオレである。
「王子さんよ。まさかとは思うが、そっちのバアさんのために連れてきたってことはねえよな?」
「ただの偶然だ。そもそもシンドバッドに乗せてくれたのは君らの方だろう」
「そーだったな……。くそ」
露骨な舌打ちをした後、キルスは祖母を睨んだ。
「あんたの申し出は聞かねえ。さっさとシンドバッドを離しな」
「そうはいかないわ。わたくしとて10年待ったの。あなたが邪魔をしなければ、とっくに願いを叶えているはずだったのよ。10年よ?若いあなたには分からないでしょう、すでに孫のいるわたくしにとって10年がどれほど長いのか。老衰で死んでもおかしくない年になって、いつ叶うか分からない願い事を抱えていることがどれほど残酷か」
「はッ。縁がなかったと思って諦めたらどうだよ」
「あなたはもちろん、この場から離れることができるでしょう。願い事を使えば。今すぐにだって。
わたくしもそれを望むわ。そうすれば、その瞬間、わたくしの番が回ってくる」
「……」
「わたくしはあなたを殺すこともできる。部下を呼んで一言言えば船ごと炎に巻いてしまえる。弓を山ほど放ってもいい。この旧都はわたくしのための都よ?そこに踏み入っておいてむざむざ逃げられると思う方が間違い。
さあ、キルス。わたくしのために消えなさい」
淡々と祖母は口にした。彼女が本気であることは疑うべくもない。
もとより祖母にとって、庶民であるキルスの命など虫けら同然なのだ。それを、同列において直接会話することを許しても、『魔神のランプ』に選ばれているという特別性がさせているに過ぎない。
凍りついた空気の中、キルスは気丈にも目を離さない。”王妃”と呼ばれた女性の凄味ある視線を正面から受けて逃げ出さないだけでも、彼の肝は太い。
――だが。
「お祖母様、そのくらいになさってください」
オレが横から口出したことで、場の雰囲気は壊れた。
「彼は『魔神のランプ』に選ばれた人間です。そういった人物を敵に回すことは、身の破滅と同じですよ」
オレの言葉に祖母は忌々しそうに舌打ちしたが、それ以上脅しの言葉は口にしなかった。
キルスがその場を離れたのは十分ほどした後である。
バルコニーに設置されていた魔法陣とやらの効力が切れたのだ。ほんのわずかの間しか効果がないと分かっていたから、祖母は単刀直入に用件だけを口にしたのだろう。
キルスの乗った白い船が小さくなっていくのを見つめながら、祖母は悔しそうにため息をつき、そして心のよりどころであるかのようにランプを撫でた。
「もう、幾度これを撫でたことか。10年……、10年も……!」
「お祖母様の願いとは、なんですか?」
「……あなたには、関係のないことよ。ファルザード」
祖母は悲しい目をして首を振る。
「人知の及ばない願いであれば、私には叶えられません。けれど、……そうでないのなら、願いは魔神ではなく、人にかけた方がいい。
国を富ませたいのであれば人材を増やしましょう。緑を蘇らせたいのであれば他国の知恵も借りましょう。幼子が死ぬのが嫌ならば医療技術を進歩させる方がいい。
魔神に頼った願いでは、……いつ叶うか分からない」
かつて姫は魔神に頼んだ。
『わたしも王の役に立ちたい。もっと女の意見を聞いてくれるような世の中になってほしい』
魔神は承知したが、ただ一つだけ忠告した。
『あなたの願いには時間がかかる。それでも良いか?』
もちろん、と姫がうなずくと、黄金で出来た都は瞬く間に砂と化した。
黄金の都を犠牲にしておきながら、その願いは未だに叶っていない。
オレの言葉に、祖母は不可解そうな表情をした。
「お祖母様。私はおとぎ話が好きです。あなたの話してくれた昔語りがとても好きだった。そのため、酔狂な趣味だと言われましたが、国中に残る文献は残さず網羅してきました。
……だから、知っています。魔神は確かに願いを叶えてくれる。けれど、魔神にはとても制約が多くて、願い通りには叶えてくれない。
キルスもそうでしょう?彼の願いを私は知っている。
シンドバッドはこう言っていました。一つは『どこへでも行ける船を得て、大商人になること』ですが、キルスは大商人にはなったものの、ペテルセアで罠にはまり、一文無しになりました。彼は今、あの船一つしか持っていない。船があっても元手がなくて商売ができない。
二つ目は『刃で死なない身体になること』この時、不老不死はできないとキルスは言われたそうです。彼は病気や事故では死んでしまう。それに、戦時下の軍人ならばともかく、平和に暮らしていて刃で死なないとはどれほど限定された条件なのかと思いませんか。もちろん、治安の悪い場所へ赴く商人ならではだったのでしょうが」
オレの言葉を最後まで聞かず、祖母はわめいた。
「な、何を言っているの、ファルザード!あなただっておとぎ話が好きなのでしょう?魔神を信じているのでしょう?」
「ええ。信じています」
オレはうなずいた。
「だからこそ、魔神に頼っては叶わないと知っているんです」
魔神は実在する。夢の存在ではないから、限界があるのだ。
「お祖母様。そのランプを手放せとは申しません。ですが、……キルスに強要するのは止めてください。
あなたが魔神によって敵と認定されてしまうことは、私には悲しすぎる」
□ ◆ □
キルスの船が見えなくなった後、オレは旧都を出発した。
シンドバッドに乗った行きと違い、帰りは一週間はかかるだろう。先触れも供もいないので、オレの不在に気づいた者たちが大騒ぎすることだけは避けられないが、仕方がない。
調査団の襲撃に祖母は無関係だったという言質をとれただけで十分だ。これがあるのとないのとでは、ペテルセア帝国への対応が変わってくる。
早ければ今頃、調査団も王女も帰国しているころだろう。サンジャルがいるから、彼らが国に帰る前に対応を間違うことはないはずだ。
問題はその後。
調査団が襲われたとなればペテルセア帝国の態度が硬化する。おそらくは婚約どころではなくなっているはずだ。襲撃者について調べるため、軍を派遣してくる可能性もある。それは――避けなくてはならない。
「お祖母様。人の世を作るのは人です。争いを起こすのも、避けるのも、すべて人なんです」
現実主義を名乗るサンジャルは、魔神に傾倒するオレを良しとしない。だが、オレとして、おとぎ話に夢を見ているわけではないのだといつか彼に分かってもらいたい。
魔神もまた、現実なのだ。
だがオレはそのまま旧都に逆戻りすることになった。
オレが門をくぐり、外に出た直後。
爆音。そして激しく燃え上がる炎。後方から吹き付ける熱風に吹き飛ばされ、オレは馬ごと砂の上を転がった。
「な、な――!?」
全身を打ちつける痛みのせいでしばらく身動きができなかったが、よろよろと顔を上げて周囲を見やる。
賊の襲撃かと思ったが、そういうわけではなかった。
振り返った先に、オレは卵の殻を破るようにして飛び立つ、巨大な火の鳥を見た。
この日、エランから旧都が消えた。




