第一話 砂漠の国の港湾調査官
暗闇の中に男がいた。
木箱やずた袋が積み重なる船倉の中は明かりもなく、身動きしない男の存在に気づくのは困難だ。
男は荷物に紛れて小さくなっていたが、漂わせる生き物の臭いだけは誤魔化せなかった。
そもそも潮の香りで自覚がないのかもしれないが、長い船旅の間ロクに身体を洗えない船乗りは、けっこうな臭いがするものだ。
船倉の入り口から差しこんでくる光に、男はますます小さくなる。
「そちらの方。当局では現在、渡航許可のない人間の出入りに対して厳しく接しておりまして。密航者は第二級犯罪者として強制送還、あるいは五年間の強制労働を課すことと決められております」
私が言うと、男はビクンと身を震わせた。見つかったことには気づいただろうが、かといって逆上するべきかどうか悩んでいるのかもしれない。
私はさらに港湾課の印である腰飾りを外すと、それを男に見せつけながら言った。暗いので見えないだろうし、そもそも後ろを向いているから私が見えていないだろうけど、別に構わない。こういうのは形式美である。
「国家治安維持部隊港湾課、アラム隊のラーダとして申し渡します。大人しく捕まってくだされば、痛い目に遭わずに済みますよ」
だがこの言葉は、あまり意味がなかったらしい。
「……あ?」
男は振り返ったが、入り口から見えるのは華奢な人影が一つだけだということに気づいたようだった。
一瞬、その目が周囲を見やった。
「チッ。ビビって損した。女が一人で何ができる!」
げげ。
どうやら観念するのではなく、逆上する方を選んだらしい。
男は隠し持っていたらしい曲刀を振りかぶりながら私の方へと駆けこんでこようとした。
だけどさ、ここって船倉で、荷物がギュウギュウ詰めなのだ。明かりもなしに動こうとしてうまくいくと思う方が間違いである。
ブン、と曲刀は振られたけれど、私にはギリギリで届かなかった。
私が突き出していた腰飾りが曲刀の先に引っかけられ、ハラリと宙に舞う。
「ハイ、確保~」
軽い声が横からかかり、私の後ろから現れた人間が、するっと立ち位置をチェンジした。
彼は男の手をひねり上げると、そのまま慣れた手つきで縛り上げていく。
名はアラム。私の上司であり、先輩である。20代半ばの美丈夫で、明るい性格もあって男女問わず人気者だ。現在独身。狙っている女性も多いと聞くけど、どちらかというと女性の社会進出肯定派なので、女性本人はともかく親御さんが反対し、今までに三度縁談は流れているそうな。
「いやはや、いいね。ラーダを囮にすると面白いくらい簡単に犯罪者が釣れる」
「面白がらないでくださいよ。けっこう怖いんですよ?」
「まあ、いいじゃないか。見かけに騙されてくれる男がけっこういるってことだよ。姿かたちだけ見たら、ラーダも華奢な女の子ってことだ」
アラム先輩はそう言ったが、ちっとも嬉しくない。
「港湾課の腰飾り持ってる人間が、そこらの女の子と同じなわけないのにね。男尊女卑の世の中はなかなか変わらないなー」
アラム先輩がこう言うのには、訳がある。
このエラン王国は基本的に男性優位の国だ。女性の社会進出は遅れていて、増してや港湾課みたいな荒事一歩手前なところには女性はいない。治安維持部隊にいる女性は私だけではないけれど、治療師とか、翻訳事務官とか、裏方仕事なのである。
「海向こうの帝国とかじゃあ、女性の大臣もいるそうじゃないですか。どうしてこうも違うんでしょうね?」
「長年続いてきた習慣が、そう簡単に変わるわけないってのが一つ。もう一つは戦争のせいだな」
アラム先輩はあっさりというと、縛り上げた密航者をズリズリと運びだしていく。
「ついでに、船倉の荷物を確認しておいて。密航者はいないだろうけど、密輸品がある可能性はあるからさ」
「はい」
私が素直にうなずくと、そのまま先輩は密航者ごと姿を消した。
私の名前はラーダという。エラン王国国家治安維持部隊の港湾課所属である。
治安維持部隊という言葉に聞き覚えのない人は、国軍の一番下っ端だと思ってくれればいい。
主な仕事は港での荷物チェックである。国外に、持ち出し禁止の品が流出しないよう、国内に、持ち込み禁止の品が流入しないよう、目を光らせるのがお仕事だ。一口で言うとそれだけなのだけど、港に入ってくる船すべてについてチェックを行わないといけないのでなかなか大変である。船主もこんな事務仕事は早々に終わらせてサッサと商売に行きたいので非協力的だし。
私は荒事ができないので地味な作業ばかりだが、荒事ができる人なら犯罪者が逃げ出したり、逃げ込んだりしないようにと完全武装で待ち構える。
服装は港湾課の制服。長いダボついたズボンの上にローブと短い上着を合わせ、そこに腰飾りをするわけだ。身体のラインはほとんど出ない。
さて、任された以上はきちんと果たさねばなるまい。
船倉の荷物の確認というと簡単そうだが、船倉に詰め込まれた荷物すべてを、それも荷物に破損なく調べないといけないのだ。かなり時間がかかることは予想していただけると思う。
私は船倉の中、人が通ることを想定している通路から順に荷物を確認していく。
荷物には識別用に中身が分かるようにメモがしてあるものなので、基本的にはそれを見るのだけど、ごくたまに記載と中身が違うことがある。アラム隊の目当てはそれだ。けど、外から分からないように偽造したものを、どうやって判断するのか?
そこで出番なのが鼻だ。ベテランの調査員は臭いだけですべてを見抜く。劇毒物や武器などがあった場合、その特定の臭いを嗅ぎづけるのが私の仕事。風邪でも引いて鼻が利かなくなれば仕事はできないだろうと思われる。
クンクンと鼻を引くつかせ、船倉の中を見て回ること一時間。
異常を一つ見つけた。けど、これはおそらく船主ではなく密航者のせいだ。荷物の一部が破損していて、中に詰まれたものがこぼれ出している。密航者が乗りこんでいた場所である。どうやら密航者は食料を持ち合わせてなかったんだろう、こぼれ落ちているのは麦の類だ。外に露出してたいせかちょっと腐ってるし、商品としては使えそうにない。
「気の毒な……」
この箱一つ分で、いくらの損失だろうか。もともと、船便っていうのは何割か破損を覚悟で運ぶものらしいんだけど。
「……?」
麦の詰まった袋の中に、キラッと光る金属質のものを見つけて、私は首をかしげた。
「どうせこの荷物は使えないから……、大丈夫だよね?」
さらに触ると被害が拡大すると思うんだけど、どうにも気になるので近づいてみる。
袋ごしに触ると、湿った麦の間にはやはり何かが隠れていた。ううん、むしろ意図的に隠してあるかのように。
「……まさか」
密航者はこれを取り出そうとして後ろを向いてたんだろうか。
私は胸元から古いペンダントを取りだし、それを荷物の外側に当てながら、じっと息を呑んだ。
触るとマズイような毒物であれば、宝石の色が変わるという貴重なペンダントである。港湾課にはこういったアイテムがいくつかあり、調査にあたる人間に貸し出されている。
もともとは王宮からの貸し出し品なので、失くしたりするとヤバイのだが、鼻と手の感触だけを頼りに異常を確認していた先人が、何人も立て続けに命を落とした事件があり、以後多少の配慮がされるようになった。
「変わらない……ってことは、毒じゃないみたいね」
私はペンダントを胸元に戻すと、意を決して麦袋の外を叩いた。
トントンと何度か衝撃を与えると、ドサドサと麦がこぼれ落ち、中に隠されていた金属質のものが露わになった。
「なーにこれ。ランプ?」
油を入れて火を灯すタイプのランプだ。しかもかなり古い。わざわざ密輸するほどの貴重品には見えない。
だけど麦の中にわざわざ隠してっていう運び方が気に入らないし、報告した方がいいだろう。
私はそう結論づけると、証拠品をずた袋の中に移し替えると、さらに麦袋の中を漁った。
怪しそうなものはそれ以上出てこなかった。他の荷物の中にもこういったものが隠されているかどうかは、神のみぞ知る、だ。荷物の運びだし前に、船主を詰問する必要がある。
船倉にこもること一時間。
無事に確認が終わった船は、荷物の運びだし作業へと移る。船主にとってみれば無事にこの瞬間を迎えられないと財産がすべてパーなので、大変重要な時間だ。今回の船については、運びだし前にストップをかけるわけだ。
手続きを申請すると、船主は泣きそうな顔をした。密航者も、麦の中に隠れていたランプにも、彼は心当たりがないという。
密航者はともかくとして、彼に荷物を預けた者をさらに追及する必要があるんだけど、どこまで調べられるものかな。ここから先は私の担当じゃないので、次の担当者にお任せだ。
一通りの手続きを終えた私は、ようやく日の下へと戻ってきた。
船主もランプも次の担当者に預けて、ようやく朝ごはんである。
別の船から荷運び中の男たちとすれ違う。重労働なので荷運びバイトは男オンリー。ここで働く女性は今のところ見たことがない。
たいがいは骨の太そうな、いかつい海の男なんだけど、小遣いが欲しい子供なんかもたまに混じっている。そういう子供がうっかり荷物を落としてしまって船主から大目玉を食らい、親が賠償金を払わされることになった、なんて例もある。雇い主ももう少し採用時に気をつけてやればいいのに。
毎日のことなので、働いている人の姿はほとんど見覚えのある顔ばかり。軽く挨拶しながら通り過ぎようとしたところ、見慣れない姿を一つ見つけた。
黒髪で長身の色男だ。年齢は20歳前後くらいだろう。いや、もう少し若そうだし私と同じ年くらいかな?あまり日に焼けておらず、海の男って雰囲気がまったくない。身に着けている服もどことなく高級品だし、海向こうからやってきたはいいけど仕事がないからここで働いてるってところだろうか。
荷物を肩の上に抱えたまま、男がふっと顔を向けてきた。
私がジッと見つめているのに気づいたんだろうか。ちょっとぶしつけだったかなー。
だが、彼の表情が驚きの色に変わるのを見て、私は驚いた。
「……あんた、女か」
それどころか声をかけられてしまった。
海向こうの人なら、私が港湾課の制服を着て働いている程度では驚かない。この港で荷運びしている常連なら、毎日見ているからなおのことだ。
「新人さんですか?」
私が尋ねると、彼はしぶしぶといった風にうなずいた。
「港をフラフラしていたら、暇なら手伝えと言われてな」
「暇だったんですね」
「……まあ、そんなところだ。荷運びも意外と奥が深い。もっと楽なものかと思ったが、荷物の抱え方にコツがあるんだな」
彼はむしろ感心したように言った。どうやら貴族のぼんぼんなんだろう。なんとなく、おっとりしている。
「調子に乗ると腰を痛めますからお気をつけて。腰痛に効果覿面なマッサージ師を紹介しましょうか?」
「いや、遠慮しておく」
彼は苦笑するように答えた。
「それより……、あんたはどうしてここで働いてるんだ?」
「雇っていただいたからですよ」
私は答えたけど、彼が言いたいのはそんなことではないんだろう。
「若い娘がこんな荒くれ者ばかりの場所にいたら……、その」
彼は言いづらそうに目をそむけた。顔が赤いところを見ると、何かいやらしい連想をしたに違いなかった。
まあ、港湾課は、腕っぷしに自信があるわけでもない若い娘が好んで選ぶ仕事ではない。
「男装してるってことは、用心してるんだろうが」
「ああ、いえ、この格好は単に動きやすいからです。それに、港湾課の制服に、女物はないので」
私の返答は、彼のお気に召さなかったらしい。不満そうな表情が浮かぶ。
だが、続く提案に、私は目を丸くした。
「他の部署に配属されるよう、オレから言っておこうか?」
このぼんぼん、港湾課の人事に口出しできるような偉い人の息子なんだろうか。
「止めてください。私は望んでここにいるので」
「……何?」
私が断るとは思わなかったらしく、彼は機嫌を損ねた表情を浮かべた。
「私、鼻が利くタイプでして。その特技を一番生かせる仕事がこれだったんですよ、お気になさらず」
ひらひらと手を振って誤魔化した。
「オイこら、サボってんじゃねえ!」
おおっと、立ち話で時間を取ってしまったせいか。私は慌てて顔を上げ、彼の方を見やった。
彼も同じことを思ったんだろう、再び荷物を肩に抱え上げようとしたが、その動きがふと止まった。
何かに驚いたような表情に気づき、私も彼も視線を追う。
どうやら怒られているのは彼ではなかったようだ。小遣い目当てと思われる小さな子供がもたついていたせいで麦袋を落としてしまったらしい。地面は砂地だし、麦袋なので中身が無事かどうかは五分五分だったけど、こういう時に叱らないと後に響く。
そう考えた親方が子供の頬を殴ろうと手を振り上げた。
「いーか、この荷物はおまえを奴隷にして売り払っても弁償できねえくらい高値なんだ。聞き分けねえやつにはこうしてっ……」
「止せ」
え。と私が目を丸くしたのは、すぐ隣にいた彼が動き出したからだった。
「そもそもこんな子供を働かせておいて、荷を落としたからと叱りつけることがどうかしている。荷を落とす懸念があるならば、最初から雇わなければいい」
肩に荷物を抱えたまま、彼はずんずんと親方に向かって近づいていく。
「おまえは、今朝雇った新人……?」
「子供。後はオレがやっておいてやるから、もう帰れ」
「えっ……」
子供の顔に浮かんだのは絶望だった。
帰れ、ということは、もう仕事がなくなるということだ。働かないと給金がもらえないことくらい、子供にだって分かっている。親方が嘲るように言った。
「てめえ、正義感のつもりか?そいつを雇ってやってるのは、こっちの慈悲なんだぜ?そいつの父親は病気でなあ、ずっと働けねえんだ。母親だってロクに働き場所なんかない。こいつの少ない給料が生活の支えなんだぜ。それを取り上げる気かよ?」
「……」
彼はしばらく黙った。やがて意を決したように口を開く。
「ならばその母親の世話、オレが引き受け……、っ!?」
ボカン、と思わず私は彼の頭を殴りつけた。
「あー、ハイハイ。港湾課のラーダです。揉め事はそのくらいに。そこの少年、以後荷物を落とさずに運ぶと誓えます?」
私の言葉に、子供は弾かれたように顔を上げた。
「は、はい!気をつけます!頑張りますからっ!」
「そちらの親方さん。以後、一度目は注意に留めてください。仕事ですからね、聞き分けない子には仕方ありませんけど、そうでないなら荷物の量を配慮するとか、いろいろ方法はありますでしょう」
「あー……」
親方さんは憮然とした表情を浮かべたが、仕方ねえとばかりに肩をすくめた。
「最後に、荷運びさん」
私はジロリと彼を睨んだ。
「うかつな言い方は止してください。『世話を引き受ける』というのは、……あ、愛人として取扱うという意味にとられかねません。子供の前でそういう発言は……」
「な……」
さすがに言いづらくて顔を赤らめた私に、彼は唖然として、それから火を噴いたような顔色になった。
「ち、違う!単に、仕事を世話するとかそういう話であって!け、決して、あ、愛人だなどと言ったわけではっ……」
「一般家庭は父親の稼ぎに依存してます。そういった家庭の母親が急に仕事をはじめるのは難しいんです!物売りをするほどの計算能力もなく、商品調達能力もなく、貴族の家で召使いができるほどの時間が取れない母親が、身売り以外の仕事に就くのはハードルが高いんですよっ!!」
まくしたてた私に、彼はますます顔を赤くした。
「だいたいですね、仮に本当に事務仕事でも紹介したとしましょう。あなたが一人にそれをしたと評判が立てばどうなります?あの家だけズルイということになって、次から次へと押しかけてきますよ。仕事先の紹介なんて、いくつもできるわけではないでしょう!」
「そ、それはそうだが。すべてのものを助けられなくても縁があった人間だけでも助けたいと……」
「お綺麗な理想を言ってるんじゃありません!」
ビシッと指先を突きつけて、私は言った。
「極論を出さなくても、今みたいにお互いに両成敗できることだってあるんです。あなたも荷運びバイトをする気になったなら、場の調和をはかるってことも、覚えて行ってください」
私が睨むと、彼はおずおずとうなずいた。
「ご苦労さーん」
荷運び中の人の間を抜けてアラム先輩がひらひらと手を振ってきた。
「どうしたラーダ、ナンパしたのか?」
話し中だった荷運びバイトさんの顔を見やり先輩が聞いた。よりにもよってナンパとは失礼な。だいたい声をかけたのは私ではない。
「違います。あなたもそろそろお仕事に戻ってはいかがでしょう」
「あ、ああ……」
叱られた後遺症か、彼が小さくうなずくのを見て、アラム先輩が首をかしげる。
「キミ、どこかで会ったことないか?こんなハンサム顔は一度見たら忘れないと思うんだけど……」
「い、いや、気のせいだろう、では、仕事に戻るので」
彼は否定するとそそくさと仕事に戻っていった。
荷運びバイトさんが仕事に戻るのを見送りながら、私は息を吐いた。
「アラム先輩。密輸品を見つけました。っていうか、密輸品という言い方はおかしい感じなんですけど」
ランプのことを話すと、彼はきょとんとした顔をして、首をひねった。
「そりゃ、『魔神のランプ』だろうなあ」
「まじんのらんぷ?」
おとぎ話みたいなフレーズだ。私が呆れた顔をするのに、彼は笑った。
「海向こうのペテルセア帝国に伝わる話だよ。『魔神のランプ』を手でこすると、中から魔神が現れて願いを叶えてくれるってやつだ。こすってみなかった?」
アラム先輩は期待するかのような視線を寄せてきたが、私は首を振った。
「証拠品ですから、極力触らないように麦袋からダイレクトに移しましたしね」
「そりゃ残念」
アラム先輩は笑った。
「帝国じゃあ昔っから、良いことをしていると魔神の加護が得られるけど、悪いことをしているとしっぺ返しを食らうっていう、子供の教育として伝えられてるんだよ」
「詳しいですねえ」
私が感心して言うと、アラム先輩は得意げに言った。
「俺の母さんは帝国の人でね、だから俺も昔からこの手の話を聞かされて育った。
「そうだったんですか?なんでまた帝国からこっちに……」
「さあ。帝国じゃあ、女性の社会進出が言われて長いからさ、男にチヤホヤ大事にされたいタイプは、エラン王国に嫁いでくる例も多いんだよ」
そういうもんだろうか。
女性が社会で働くっていうのは、女性の立場からするといいように思えるんだけど。それを歓迎しないタイプもいるってことかな。
「先輩の縁談がうまく進まないのは、そのお義母さまの関係もあるんですかね?」
「どうだかなー」
アラム先輩は首をひねった後、続けた。
「まあ、俺がどうしてもこの子と結婚したいって熱意を持ってなかったのが大きいんじゃないか?」
「あらま、そうなんですか?」
「エラン王国じゃあ、互いの愛が醒めてもまず離婚はできない。だったら、この女にだったら裏切られても後悔しないってくらい、惚れこんだ相手がいいからな」
「……」
アラム先輩的には決め台詞だったんだろう。カッコつけてそう言ってくれたが、私が返したのは冷めた視線だった。
「な、なんだ?今の、心に響かない?」
「いえ、そうではなく」
私は黙って首を振る。
「その覚悟もない女性と、結婚するはずだったというのがどうにも納得できかねるなと……」
しかも、三度も。
私のコメントに、アラム先輩の目は宙を泳いだ。
「ま、まあ、結婚ってのは身分に限らず大事件なんだよ。最近じゃあ、王子だって持ちこまれた縁談にノイローゼ気味だっていうし。ラーダも変な男に引っかからないように気をつけろよ?」
「王子?」
目をぱちくりさせた私に、アラム先輩は楽しそうな顔になった。
「国王の一人息子だよ。帝国王女と縁談があるらしいんだけどな、嫌がって王宮を逃げ出してるんだそうだ」
「え、なんでです?王子と王女なら、ちょうどいいんじゃありません?」
「帝国といったら、女性進出が盛んな国じゃないか。国王としては、エラン王国の女性社会進出を進めるために、まず次期王妃から革新派にしたいってことらしいんだ。けど、どっちかというと保守派な王子は、そんな気の強そうな奥さんをもらいたくないらしい。それに帝国じゃあ、女性の社会進出と同時に重婚も禁止されて長い。エラン王国の王族なら、後宮にいくらでも女の人を入れられるのに、それも許してくれそうにないだろ?だから嫌がってるんじゃないかって船乗りの間ではもっぱらの噂だ」
「我が侭な……」
王族といったら政略結婚が前提だ。国民の税金で生活してるんだからして、それくらいは我慢してもらいたい。
とはいえ、気の進まない相手と結婚してもうまく行かないだろうってのは納得がいく。
「ははっ。まあ船乗りはいい加減なことをいろいろ言うんだけどな。
俺の知ってる情報だと、王子はさほど保守派じゃないし、男色家の噂が立つほど女っ気もないらしいし、国王方針のせいで後宮を作れないことにも特に文句を言ったりしたことはないそうだからな」
「ほんっとに、詳しいですねえ。どこから見つけてくるんですか、そんな話」
「ふっ……、それは秘密だ」
アラム先輩はにやりと笑った。先輩にはぜひ、情報通の名前を差し上げたい。
「そういえば、先輩?見てください」
私は腰飾りを取り出してアラム先輩に見せた。
密航者の曲刀は思った以上に鋭利な刃物だったらしく、軽く触れられただけだったのに、スッパリと布が切れてしまっていたのだ。
「あー、縫うか、新しい布に付け替えるしかないな、それ」
「ええ、そうなんですよ。それでご相談なんですけど」
私はにこりと笑った。
「新調するためのお金って、経費でなんとかなりません?」
交渉の末、私は見事制服一式の予備を経費で購入させることに成功した。