第十五話 ナクシェ村へ(行き)
件の村は、ナクシェ村という。
行くのにかかるのが三日、滞在するのに一日、戻ってくるのに三日だ。合計で一週間ほど、通常勤務を離れることになる。
選別メンバーは四名。
赤い服に着替えた囮役の私、目元以外のすべてを隠したファル、国軍の服装を目立たないものへと変えたボルナー、旅商人のヒールダードさん。
人数の分からない集団を捕縛する目的だというのに少なすぎる、ということと、王子であるファルが同行することに対して私が抗議したところ、返ってきた説明はこうだった。
「もちろん、黒装束捕縛のための国軍は派遣してある。これはもう村の情報が手に入った三日前の時点ですでに出発済みだ。だが、国軍は目立つ。逃げ場所を失くすため、村を遠巻きに囲んでいるため、合図と共にやってくる予定になっている」
「だからといって」
「……あの黒装束は、離宮を襲っておきながら逃亡している。ペテルセア帝国のナスタラーン姫が滞在中だというのにだ。それを、王子であるオレが指揮をとり、いち早く解決したということでフォローしておきたいという狙いもある」
「……」
なるほど。ペテルセア帝国への失点の回復か。それは、納得がいった。
合点のいった表情を浮かべた私に、ファルはわずかに苦笑いした。
「頼りないか?」
「え?」
「いや……」
大きくかぶりを振った後、ファルは目元を隠した頭布でかぶり直し、ヒールダードさんの元へと旅程の確認に向かった。
旅商人のヒールダードさんは、王宮への出入りを許されている大物らしい。私にとって馴染みのある商人というと、筆頭はシャハーブ、次点がベフルーズさんだが、ヒールダードさんは旅慣れているためかたくましい風貌をしていた。
「ラーダと申します」
港湾課の調査官であることは明かしているが、今の私は赤い服の上に日除けの外套を着ている。念のため港湾課の制服と腰飾りは荷物に入れてあるが、着替える余裕があるかどうかは分からない。
「ヒールダードです。話は聞いてますが、女の身で大丈夫ですかね?言っておきますが、三日の間、まともに体を拭いたりもできませんよ?」
「ええ、聞いております」
「……まあ、遊牧民には旅慣れた女性もいるでしょうが。港湾課で働く女性ともなると、普通の女性とは違うんですかね」
ヒールダードさんは胡散臭いものを見るような目を一瞬向けた。
「私は、旅慣れておられない王子をサポートするようにと依頼を受けております。あなたのフォローを優先することはできません。それもご了承ください」
「はい。もちろんです」
こくりとうなずいた私に、ヒールダードさんはまだ警戒を緩めなかったが、それ以上続けなかった。
女の我が侭で旅程が狂わされたら困ると思っているのだろう。だが、私だってファルがいる以上、自分が旅の中心となるとは思っていないのでその心配は不要だ。
旅商人の行商ルートは、人によって違うらしい。
ヒールダードさんは村や宿場町のある、街道といってもいいルートを使う正統派のようだった。ファルがいるので一番安全なルートを使っている可能性もある。
頻繁に人が往来するような街道では、ほぼ一日ごとに違う宿場町があり、それを使って旅をするものだ。
だが、ナクシェ村への道中は、途中に村のようなものは一切ない。
ナクシェ村には井戸があり、小さなオアシスのようになっているそうだし、小さいが農地もあって作物を作っているという。羊を飼い、直接糸を紡いで絨毯を織りあげたりもしているということで、わりと自立した村という印象だ。緑も多いのではないだろうか?
だからこそ、黒装束によって立ち寄る旅の商人の数が減ってもなんとかやっていけているのだろう。
港街から三日であれば、完全な砂漠地帯には入らない。よって、旅は私が予想していたよりも順調だったし、のんびりしたものだった。
エラン王国では、港町であっても風の強さや方向によっては砂が舞う。それだけ、国土全体が砂地なのだ。
また、日差しの強さについては王国中どこであってもさほど変わらない。
そのため、旅は日中の一番強い日差しの下は避け、主に朝や夕方に歩を進めるという形だった。
港湾課の業務時間とさほど変わらないな。
ヒールダードさんは旅慣れた商人の常として、馬を連れている。これらの生き物は荷物を運ぶのにも役に立ってくれるし、徒歩よりもはるかに移動しやすくなるので、連れている商人は多いらしい。ルートによっては、それがラクダになったり、ロバになったりする。ロバは、純粋な荷物載せだろうけど。
ファルとボルナーも馬を連れていたが、彼らの乗る馬は、行商人のそれとは違い、見かけからいってもかなり上等の馬だった。軍馬なんだろう。毛並みの美しさも、顔立ちの凛々しさもそうだが、たくましい体つきが普通じゃない。
乗馬の鍛錬を受けていない私は、馬に乗ることができない。早くも足手まといかと思ったのだが、どういったわけか、私はファルによって二人乗りすることになったらしい。
「あの、せめてボルナーさんにしてくれませんか?」
私の申し出に、ファルは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「オレの馬では不安だと?」
「そういうわけではありませんが。ええと……」
「ボルナーは、オレの護衛を務めている。有事の際に脚が遅くなることを考えると、二人乗りをさせるわけにはいかない」
ファルの説明はまっとうであった。それにナスタラーン姫という婚約者候補のいる男性と二人乗りをすることで、また誤解が生じかねない噂が立つのを避けたいという理由を、うまく口にできなかった私が困っていると、ヒールダードさんが低い声を挟んだ。
「早いところ出発したいのですが?」
く。ここで時間をとっては女の我が侭になるのか。仕方がない……。
「で、では、お願いします」
深々と頭を下げた私は、ファルの馬に乗せてもらうことになった。
乗馬の経験のない私にとって、馬の上というのは新鮮だった。視線が高いので、見える光景が違う。また、馬というものはあまり深く腰掛けるものではないそうだ。かなり揺れるので、少し腰を浮かせて馬のリズムに合わせて歩を進めるものらしい。
落ちないようにと、私はファルの前に乗せられている。私の背側に座ったファルが、私の身を抱えたままたずなをとるため、うかつに身じろぎしようものなら彼に迷惑がかかりそうで悩ましい。
「あまり緊張するな。身体がこわばっていると、余計に疲れてしまう。力を抜いて、オレに身を任せろ」
優しく腕を回し、抱きしめながらファルがそう耳元でささやく。
「い、いえ、しかし」
そうは言っても、はじめての乗馬で緊張せずにいられる者などいるだろうか?
「ラーダ」
「な、な、なななっ、なんでしょう!」
耳元で名前を呼ぶのは止めて欲しい。ぼそりと呟くような声は、暑さのせいか吐息までが熱いような気がする。
「目を閉じろ」
「え?」
思わず振り返るところだった。
馬の上にいて、バランスをとるのに必死なのに、目を閉じることなんてできるわけがない。
「オレがいる。だから安心して目を閉じろ。視界に惑わされず、バランスをとることだけに集中するんだ」
「……」
ファルは、どこまでも真面目な王子だ。私の緊張が、どこに起因するものかなど分かってはいないのだろう。
男性に抱きしめられた経験などないものだから、余計に緊張してしまう事情など、分かるはずもない。
ヒールダードさんには申し訳ないが、確かにこれは、女の身であることの悪点だった。
「……わ、分かりました」
ごくりと息を呑み、私は背側に体重を移動させる。
「お、落とさないでくださいね?」
「ああ」
おそるおそる、目を閉じる。
視界が暗くなると、自分の身体がこわばっているのがよく分かった。特に肩に力が入っていたようで、ガチガチに固まっている。足もヒドイな、ずっと緊張していたせいで、後でストレッチしておかないと歩けなくなりそうだ。
ファルのぬくもりが密着した背から伝わってくる。回された腕が、私の腕を支えているのが分かる。
深呼吸をして、私はそちらに体重を移動させていく。硬くなった部分から徐々に力を抜いて、ファルの腕に身を預け、馬の動きに身体を合わせていくのだ。
何度か深呼吸をしてから目を開いた私は、もう馬の背でオドオドする私ではなかった。
「そうだ、ラーダ。それでいい」
ファルが満足そうな声で、そう褒めてくれた。
再び目を開いた馬の上は爽快だった。
豪華な衣装に身を包んだ女性であれば、馬の背に乗るのも横座りであるらしい。裾が長くて邪魔になるからと、またいで乗るのがはしたないと思われるからだ。そのための専用の鞍も存在すると聞いたことがある。だがそれでは、旅はできない。
人物絵に合わせて作られているため、この赤い服は見事な装飾がされているが、絵では分からない下半身側は、後宮で働く女性たちに揃えてズボンタイプになっている。そうでなければ、馬に乗るような選択肢はなかっただろう。
バランスをとって乗ることができるようになったことで、遅れがちだった旅程は元通りになったらしい。
「今日は、ここで眠ることにしましょう」
ヒールダードさんが足を止めたのは、大きな木の生えた場所だった。野営地の定番となっているのか、火を焚いた跡が残っている。
馬やラクダを連れていれば、それを寝かせ、あるいは風避けにして、その陰で眠るというものらしい。
私自身は馬がいないので、木陰あたりで風避けにさせてもらうこととした。
「街の外には盗賊が出ることもありますので、見張りを立てたいと思うのですが……」
ヒールダードさんの申し出に、ボルナーが即座にうなずいた。
「自分がやらせていただきます」
「そうですね。王子殿下と、ラーダさんはどうぞお眠りに」
「え?私も参加しますよ、見張り」
立候補したのだが、即座に断られた。
「こういうものは、野生に慣れた人間か、戦い慣れした人間が行った方が良いのです。訳も分からず見張りをされても、安心して眠ることはできません。それよりは、しっかり睡眠をとって明日に備えてください」
ヒールダードさんは朝の出発時よりはいくらか警戒を解いた顔で笑った。
「あれほど早く馬慣れされるとは思いませんでした。さぞかしお疲れでしょう」
どうやら私は、ヒールダードさんにだいぶ信用してもらえたらしい。
夜半。私はお言葉に甘えて眠らせてもらっていた。
見張りというものは、バッチリ起きて周囲を伺うと言う意味ではなく、動物の本能を使って、馬やロバなどが人の気配に気づいて反応するのに、いち早く気づくということを指すらしい。動物に密着して眠るのも、彼らの動きに気づくためであり、風避けのためだけではないらしかった。
「……私は、サンジャル様に報告の義務があるのですが」
ヒールダードさんの声に気づき、うとうとしていた意識が覚醒したのは、眠りはじめてから一時間も経ったころである。
「ああ。ベテランの旅商人ということで選ばせてもらったが、この一行に加わる以上、サンジャルの配下だろうということは気づいている。それがどうかしたか」
返答する声はファルだった。彼もまた、見張り免除のはずなのだが、まだ眠っていないのだろうか。
「配下というほどではありません。ちょっとした、頼まれごと、といったところです。あの方について」
「……」
ファルの返答は沈黙だった。ヒールダードさんは探るような問いかけをする。
「今のまま、報告してもよろしいので?」
「そんなに……、態度に出ているか、オレは」
「抑えておいでなのは分かりますが。ええ、まあ……。どこの青少年か、と思う程度には」
「……本人も気づいていると思うか?」
「いえ、それはないと思います。先ほども顔は見ていなかったでしょうし」
「そうか……」
「表にされないつもりなのでしたら、もう少し演技達者になられることをおすすめします。今日のところは、私は見なかったことにしますので」
「すまん」
「いえいえ、王子殿下に謝っていただくなど、商人の冥利に尽きますね」
笑みこぼれるような声と共に、会話は聞こえなくなった。
翌日の進みはいささか遅かった。地面がかなり踏み荒らされており、「馬ですね。それも、軍馬です」とボルナーが警戒をはじめたためだ。村までの距離は残り一日強。このあたりはもう、いつ黒装束が通りがかってもおかしくはないのだろう。
「ボルナー様、できましたら殺気を抑えてください。周囲に伝わると馬が怯えます」
「しかし、ヒールダード殿」
「我々は旅の商人です。そういう話でしたよね」
「……わ、分かった」
ボルナーはうなずいたが、身に付いた習性は早々簡単に変わるものではないらしい。周囲に向かって鋭い目を向けることは抑えられないでいる。たまりかねたようにヒールダードさんは妥協案を出してきた。
「ではせめて、布を。顔をもう少し隠してくだされば問題ないかと」
彼が差し出した布を大人しく頭に巻きつけながら、ボルナーさんはやはり周囲を警戒していた。
まばらとはいえ、草木が生えている。地面が砂地なのでどこか乾いた色をした草だが、その分大地に根を張り丈夫に生きているのだろう。馬から見える光景は、大地がモスグリーンの色彩を強めている様子だ。
「ああ……雨が降ったから」
納得した私がぽつりと呟いたのが聞こえたのだろう。背からファルの声が返ってきた。
「そうだ。数日前に雨が降ったので、大地の下にあった草が芽を出している。だが……王宮の女性は普通、そんなことまで知らないぞ。港湾課ではそんなことまで教えるのか?」
「いえいえ。港湾課で教わるのは、波の見方です。出航の成否に大きく関わりますからね。それに、嵐の日には港に着く船が予定より大幅に遅れることも、場合によっては転覆してたどり着かないこともありますから」
「なるほど、そちらはオレも知らないな。嵐の日は決して海には出るな、死ぬぞとだけだ」
「それはきっと、港街で育った子供は全員聞かされますね」
思わず笑みが浮かんだ。
ファルは王子である。だが、50年前の戦争以来、王宮があるのは港街だから、彼もまた、港街で生まれ育った子供だったのだ。
「そういえば……女官さんの噂話を聞きましたよ。小さい頃のファルは、そりゃもう可愛らしい子供だったって」
「……あのな」
憮然とした声が後ろから返ってきた。
「子供というものは、大方可愛らしいものだろう」
「そうでしょうか」
「君はどうだったんだ。どんな子供だった?」
どんな?私は話を振られてふと首をかしげた。
「……覚えていませんね。でも、下町の子供というものは、可愛らしいというよりしたたかなものなので。私もたぶん、可愛げのない子供だったと思います」
そう言って、私は言葉を切った。
穏やかな行程など、そう長く続くものではなかったらしい。
二日目の夜、野営場所に選んだ場所は、ボルナーに言わせると「先ほどまで野盗が根城にしていたかのような荒れ具合です」とのことだ。
だが逆に、ヒールダードさんにとっては最上のコメントだったらしかった。
「それは良いですね。ならばここにしましょう。先ほどまでここにいたなら、ここに戻ってくることはありません」
「ヒールダード殿、我々は連中を捕縛するために来たのです。それをお忘れでありますか!?」
「とんでもない。しかし私の受けた仕事は、王子殿下を無事に村へとお連れすることでもあります。それに、こんな村の近くで一味の一部だけを捕えたりしたら、本隊に逃げられるというものでは?」
「その通りだな。トカゲのしっぽ切りを避けるために、囮を決行させたんだ。まずは村へ急ごう」
「……はい」
ボルナーはしぶしぶとうなずいた。
二日目の夜、聞こえた会話はファルとボルナーとの会話だった。どうやら私は眠りが浅い性質なのだろうか。
「王子。ヒールダード殿の言葉はいささか無礼であると思います!」
「そう言うな。彼はこちらが是非にと雇っている身だ。それに、旅については旅商人に勝る知識を持つ者はいない」
「しかし!我々の目的を……」
「彼は、サンジャルの部下だ」
「えええ!?サンジャル様の!?」
「ああ。……叔父上も、過保護なものだ。なんだかんだと手勢を配置してオレに一人でやらせる気はないらしい」
ファルの自嘲気味な言葉に、ボルナーは困惑したように答えようとした。
「い、いえ、それは……」
「分かっている。オレは叔父上に任されるほど、頼りになる王子ではない。そういうことだろう?」
「ち、違います!ただ、単に……、サンジャル様は、何事にも警戒心の強い方だと伺っておりますし……」
「無理をするな。ボルナー、おまえの立場でサンジャルを非難できるわけがない」
必死になって否定するボルナーへ、ふう、とファルは息を吐いた。
「叔父上の信頼を勝ち取りたいと思っている。幼いころから、オレに期待をかけてくれた彼の思いに応えたい。だが……、彼の、女性に対する警戒心の強さは、なんなのだろうな?」
「サ、サンジャル様は……その……噂では、手痛い失恋をなさって以来、女性不信でいらっしゃるとか」
「失恋……?サンジャルがか?どこの誰が、彼をフるんだ」
「お、お噂では、バハール様とか……」
「違うだろう。オレは彼女とは幼馴染だから知っているが、彼女は昔からサンジャルに焦がれていたはずだ。彼が気持ちを寄せたなら、喜びこそすれ断る理由がない」
「え?え?え?だ、だって、その、バハール様は、王子の……」
「婚約者候補だったはず、か?またその話題か。シャーロフ大臣がどう思っていたとしても、バハールが昔からサンジャルを想っていたし、オレもそれを知っていた。だいたい、オレも、十も年上の女性はそうそう恋愛対象には考えられなかった。婚約についての話題が上がっていたのは知っているが、早いところ立ち消えてサンジャルと結ばれればいいと思っていたくらいだからな」
「そ、そうなんですか……」
ボルナーはほうっと大きな息を吐いた。
「自分が、国軍に入隊したのはこの春です。ですから、あまりそういった噂については詳しくなくて……」
「王宮など胡散臭い噂話ばかりで、相手にしていては疲れると思うぞ?だが、そうだな。この機会だ、オレについての噂なら、否定しておいてやろう。何か気になる噂などはあるか?」
「え。ええええ!?いいんですか!?で、ではっ……」
ガチガチに緊張している気配が漂ってくる。
考えてみれば、ボルナーは私よりも年下の少年なのだ。いろいろと気になる噂話はあるだろう。
「ナスタラーン姫が王妃様になられるというのは、本当ですか?」
「……」
ファルの返答が遅い。タヌキ寝入りをしていた私は、横になったままうっすらと目を開いた。
見れば、焚き火の明かりの中、ファルはきょとんと目を丸くしていた。
「あー……、そうだな、確定ではないな。婚約が成立すれば、いずれそういう可能性もある。そもそも、オレと婚約したところで、オレが王位を継がなければ王妃とは言えないから」
「そ、そうですかー……」
残念そうに肩を落としたボルナーに、ファルは不思議そうな顔をした。
「それが気になる噂なのか?」
「い、いえー。先ほどサンジャル様のお話があったので。確か、サンジャル様がナスタラーン姫推しになられたのは最近だと聞いて」
「ああ……」
ファルは静かにうなずいた。
「確かに。もともと国王がオレの婚約者にペテルセア帝国の姫をと言い出したのは、十年も前らしい。それが、サンジャルが支持することで実現可能になったのは、ここ最近の話だ」
「そ、それの理由がっ!」
ボルナーはグッと身を乗り出した。
「王子が男色に走ったので心配したからだとっ!」
「違うっ!!」
思わずといった風に否定したファルは、頭が痛いとばかりに額に手をやった。
「あの時期のサンジャルは、オレが女性と話せば彼女は恋人かとうるさかったんだ。面倒なので男とばかりいるようにしたら、今度は男色に走ったのかと明後日の方向に心配しだして……」
「な、なーんだ、そうだったんですね」
「まさかおまえ、オレが男色家だと思って警戒していたのか?」
「いえいえとんでもありません!そうではないんですが、ここ数年、王子殿下の護衛官は軍人になったばかりの新人ばかりで頼りない、まさか若い少年を選んでいるわけではあるまいな、という陰口を聞いて……」
「それは単に、オレもそれなりの腕になったので護衛官にかける負担が少なくなった結果だ。……くそ、そのロクでもない噂、信じてるやつ他にもいそうだな……」
「い、いえいえ……そんなことは……」
「とりあえずボルナー、おまえ今後どこかで聞いたら否定しておけ」
「はい……」
やれやれ、とファルは笑った。
「もっと真剣な話でも飛び出してくるかと思ったんだがな」
「いえ、今のはわりと、自分には真剣な……、いえ、なんでもありません!」
直立不動で宣言しながら、ボルナーは敬礼をした。誤魔化し方が下手な少年だ。
「でも、よろしいのですか?」
ボルナーはホッと肩の荷を下ろしたようにしてうなずいた。
「ファルザード様は、そのナスタラーン姫がいらしているというのに、お会いにもならずにこのような場所まで来て」
「……どういう意味だ?」
「王子自ら討伐したという実績を作りたいという話は伺いました。けれど、それなら王子の指示で行ったというだけでも良かったはずです。ご自分が出向かれては万が一という危険もありえます。もちろん、自分がそのような真似はさせませんが、それでも」
「……そうだな」
ファルはぽつりと呟いて、それから歪んだ顔をした。
「ボルナー、これはおまえが護衛官だから告げておこう。よって口外無用だ」
「は、はい!」
「今から向かう村には、ペテルセア帝国の、この婚約に対する真意が隠されている」
「え?」
「深くは考えなくていい。そういうものだと思っておけ。その結果次第によっては、オレは国王陛下にこの婚約の破棄を申し出る」
「……え。え……?」
「ナスタラーン姫は友人としては尊敬できるだろう。だが、エランの王国を傀儡国家にされるのは御免だ」
ボルナーは反応できなかった。ファルから告げられた言葉に、ただ驚いて目を丸くしている。
それから、口外無用と言われたことを思い出して、「決して口にはしません!」と緊張した面持ちで告げた。
「ラーダ」
ファルがそう呼びかけながら、私の眠る横へと腰を下ろしに来たのはそれから一時間ほどした後だった。
ボルナーは周囲の警戒に戻っており、ヒールダードさんは睡眠中である。
「私は睡眠中ですが」
答えた私に、ファルは小さな笑い声を返した。
「君が、昨夜も今夜もほとんど眠りについていないことは気づいてる。男ばかり三人もいる中にいては、警戒して休まらないのは道理だろう」
「……」
「君の眠り方は、周囲を警戒しながら丸くなる小動物のようだった。……それともいつもの眠り方か?」
やれやれと思いながら私は起き上がった。
大きな木の根元で身を起こし、空を見上げると、大きな月が出ているのが見える。雲一つない、明日も晴天だろう。
目元まで隠した恰好のせいで、今のファルは黒装束と似た印象を受ける。それがすぐ隣に座っているのを見やりながら、私は首を振った。
「人と話す際は、ぜひ頭巾を外してください。頭布だけならいいんですけど、そこまで隠されてしまうとどなたか分からなくて不安になります」
「それは失礼した」
バサリと頭巾を外す音がする。ファルの目元以外を隠していたのは大きな袋状になった布である。それを、頭からかぶって紐で結ぶ。砂の影響を一番受けない方法なので、特に砂嵐のヒドイ地域に住んでいる人間が野外に出る時に多い服装だと思う。
「……話し声が聞こえたので眠りが浅くなっただけです。きちんと眠ってますよ。それよりもファル、あなたの方は大丈夫なんですか?見張りの役でもないのに、連日起きていて」
「オレはきちんと寝ている」
「嘘ばっかり。目元しか見えない衣装だから騙されるとでも思いますか?目の下に隈があるんですよ」
「う」
ファルは思わず手を目元に触れようとして、だがそんなことをしても確認できないことに気づいたらしい。
「王子の指揮で黒装束を捕縛するのでしょう。そんなに緊張して、どうするんです。肝心の時に眠くて役に立たなかったなんてことに、ならないでください」
「……ああ」
目線がやわらかくなった。どうやら笑ったらしい。
ふわっとファルの指先が私の髪に絡んだ。
「気づかいは嬉しいが。オレが緊張して眠れないのは別の理由だ」
するりとファルの指先を通って髪の毛が風に舞う。
「君の髪は、砂の香りがする」
私は思わず噴き出してしまった。
「そんなの、他の人だって同じでしょう。この国の人なら誰だってきっと、砂の香りですよ」
「そうか?」
首をかしげたファルに、私は目を細めた。
「……そうですね。確かにあなたは少し違うかもしれません。あなたは乳香の香りがします」
「鼻がいいな」
「ええ。港湾課の調査官ですから」
「さすがに、旅商人には相応しくないから、今回は焚いてないはずなんだが……。目立つか?」
「いえ、かすかに香るだけですしね。残り香でしょうか……」
誰か身分の高い人間だろうとは気づかれてしまうかもしれないが。王子自ら捕縛に行くという名目なら、さほど問題にはなるまい。
「……昨夜のお話は本当ですか?ヒールダードさんが、サンジャル様の部下だというのは」
「本人が認めたのだから、そうだろう」
「では、あの方が取扱いになっておられる商品についても、サンジャル様は把握されていると?」
「それは……分からないな。王宮で商売ができる商人だから、人となりについては確認しているが、どのような商品を持っているかは本人だけの秘密だ」
「それもそうですね」
納得した私は、そこで言葉を切った。
「ファル。もし、今後、私が、突然何かを飲み食いする際に止めを入れても、驚かないでください」
「は?」
そのまま私たちはしばらくの間雑談をして、今度こそ明日の旅に備えて眠ることにした。
口にするべきではないだろう。
商人がどのような商品を持ち合わせているかは、本人しか知らないことだ。きちんと包んであれば外からは分からない。
だが、臭いを頼りにする港湾課の調査員には、外からだって気づけることもある。
ヒールダードさんは、媚薬を持っている。それも、ナスタラーン姫が国内に持ち込んだものと同じ香りだ。まったく同じものなのか、偶然なのかは不明だが、仮に彼がサンジャル様の部下だとすれば、いつぞやのサンジャル様の言動が気にかかった。
『あれを、王女に使いなさい』
サンジャル様は、国内に一瓶だけ、確実に媚薬が存在することを知っている。
だが、あれがナスタラーン姫の持ち物だということも知っているはずだ。
いくら置き場所が分かっているからといって、勝手に持ち出すような真似をすることは許されない。
ましてご禁制の品を、使おうとすることなんて……あってはならない。
美しい月夜だった。
だが目を閉じ、横になった私には深い眠りは訪れなかった。




