第十二話 シンドバッドと魔神のランプ
それは、その日最後の船が入ってきた直後だった。
エラン王国の港では、深夜の航海はあまり推奨されていない。灯台の明かりを頼りに進んでも、座礁することがあるからだ。
だが、小さい舟ほど例外で、港を利用する必要のない漁村などでは、日常的に行われているらしい。
魚がまだ寝ている深夜に漁に出て、朝早く戻ってくるという手段のために。
らしい、というのは、私は実際には見たことがなかったのである。
ところが、その日最後の船のチェックを終え、どうやらキルスは今日の便には密航しに来なかったようだ……、と一息ついた時だった。
静かに港に向かってきたのは、異常な船だった。
大きな真っ白い帆を張る美しい船である。船体まで真っ白で、まるで月のように見える。
中型船だが、エラン王国の港の、一番大きい桟橋でも泊めることができるだろうかと心配になったのは、帆が大きいからなんだろう。風を受けて進む船だということを考えても、こんな大きな帆を張るなんて、どこまで行くつもりの船だろう。ペテルセア帝国との間の往復だけなら、こんな帆は必要ない。
その白い船には、乗組員が乗っていなかった。
帆船なら、当然、港に泊めるために帆をたたんだりする必要もあるし、様々な要件のために甲板の上に乗組員がいるはずだ。だがそのような人影がまったくなかった。
「ちょっと、あの船の寄港連絡って受けてますか?」
私と同じように船の接近に気づいた調査員に話しかける。彼は慌てて首を振ると「アラム先輩を呼んできます!」と叫んで駆け出していく。
私は港で船の様子を伺いながら、空いてる桟橋へと走り出した。
「おーい!おーい!聞こえますかー!?」
大声を張り上げながら、白い船に向けて声をかけた。
「その調子で進むとぶつかります!こちらの桟橋に着けてください!」
私の声は聞こえなかったらしい。
両手を大きく振って自己主張してみたんだけど、そもそもそれを伝えるべき乗組員がいないのだ。普通、見張り台とかがあって、誰かしらいるはずなんだけど。
「なんなの、あの船!」
憤慨しつつも、とにかく事故だけは避けたい。
港の人々に避難勧告を出しつつ、万が一座礁した場合に救助隊が出せるようにと小舟の手配を……などとやっている間に、その船は音もなく港へと入ってきた。
『おやおや、出迎え感謝だよ』
それは、エラン語でもペテルセア帝国の公用語でもなかった。
意味は分かる。どこかで聞いたことがあるからだ。地方語かもしれない。
「船の方ですか!こちらはどこからの船で、所有者はどなたです!?エラン王国に寄港連絡は出していますか?!」
そう叫んだ後に、おかしいことに気づいた。今の声を発した人物が、甲板に見えない。どこから聞こえてきたんだろう?
『この船に、そのようなことを言うのは無粋というものさ。空を駆け、海を駆け、砂漠を駆ける船なのに』
奇妙な言い回しをしながら、声はもう一度聞こえた。
返答したということは、私の声は届いているらしい。
「こちらはエラン王国の港です。どちらの所属の方か、連絡をお願いします!また、港に立ち寄るつもりでしたら、荷物チェックが必要となりますので、停泊して下りてきてください!」
私は、この船はたまたまエランに立ち寄っただけの外洋船だろうと判断した。
私はまだ見たことはなかったが、ごくたまにあるらしい。外洋へ向けて航海する大型船は、水や食料などの補給のため突然やってくる。最低限ペテルセア帝国の公用語くらいは話せる人間が乗っているため、大事になることはないが、エラン語は通じないし、通貨は通用しないし、持っている通商手形はエランでは使えないものだったりして、いろいろと面倒だ。貿易目的ではないため、乗組員が港に下りたとしても息抜きのためだけで、すぐに立ち去るのだが、彼らは困ったことに荷物チェックを嫌がることがあるのだそうだ。だったら港に着けないでくれればいいのに。大変迷惑な連中である。
『やれやれ、女の子っていうのは、いつの時代もうるさいね』
その人物は、どう見ても宙に浮いていた。
私は目を疑ったし、港にいた他の人間もそうだった。
日差しの強いこの地方において、夜とはいえ頭に何も巻かずに外に出ているという時点ですでにおかしい。
白い外套を着ていて、海の男たちの軽装に比べると動きづらそうに見える。外套が風で翻るために、彼が宙に浮いていることは疑うべくもなかった。
奇妙だったことは他にもある。髪の色が青なのだ。しかもかなり長い。
黒髪ならば知っている。茶色い髪も、赤い色も黄色い髪も見たことはある。
だが、青というのははじめてだった。
美しい宝石のような鮮やかな色ははじめて見たし、それを束ねていないというのは滅多にない話だった。
甲板に一人で現れたその人物は、船の上から私を見下ろして目を丸くした、らしい。不思議そうな声音が降ってきた。
『声をかけたのは、キミかい?』
「そ、そうです!エラン語は分かりますか?」
『エラン?ああ、その言葉?大丈夫だよ、理解できる』
「今、仲間が確認に行っていますけど、あなたがたのような船が来るとは伺っておりません。この船は、どこの国の……どちらの船ですか?」
私の問いかけに、その人物は笑ったようだった。
『この船の名は”風”、僕はその化身。我が主人であるキルスは僕をこう呼んだね。シンドバッド、七つの海を駆ける風……って』
ふわりと舞いながら私の目の前に現れたのは少年だった。
年齢は10代前半くらいだろう。得意そうに名前を披露してくれたが、その名が意味するところは私には分からなかった。
おそらくは風の意味なんだと思う。
化身という意味がよく分からないが、このような少年が、船の船長ということなんだろうか。
「キルスが、主人なんですか?では彼を迎えに?」
では、この船はキルスがペテルセア帝国に帰国するためにわざわざやってきたのか。
密航するのではなく、船を呼び寄せるというのは良い案だが、問題はキルスが現在のところ犯罪者の一人となっていることだ。
逃亡するのではなく、きちんと釈放手続きを取ってくれたらよかったのに。
『そうだね。……ところでキミ、誰かに似ていると言われたことはない?』
シンドバッドは目を大きくしながらそう言った。
「いいえ……。特にそう言ったことはありませんが」
『そうか。おかしいなあ。それとも誰も気づかないのかな』
彼はニコニコとした笑みを浮かべながら、『まあいいや』と呟いて話を終えることにしたらしい。
『キルス。早く乗りなよ』
シンドバッドの視線は、私の後方を向いた。
後方には男が一人いた。
幾度も遭遇したけれど、一度も分かり合えたことはない気がする男だ。
キルスは、身体に布を巻きつけたような服装をして、私を邪魔そうに見つめてきた。
見たところ、武器は持っていないらしい。
顔色がひどく悪い。おそらく病状は悪化しているのだろう。
「ロクサーナが心配しています。治療をまともに受けもせずに、逃亡ばかりしているので」
「余計なお世話だ。……あの女には、犯罪者なんぞを気に掛ける暇があったら、他の患者の世話をしろと言っておけ」
「ご自分でどうぞ。……私たちは、早ければ今日にでも、あなたが国外逃亡を企んでこの港に来るだろうと思っていました」
「それは、狙いどおりで結構なことじゃないか」
舌打ちするかのような声音でキルスは答える。
「まさか船をお持ちだとは思っておりませんでした。それならなぜ、密航なんて真似をしてこの国に?」
「……」
「『魔神のランプ』を手に入れるためですか。あれが、あの船の中に隠されているのを知っていたからなんですね?あの荷物がキルスさんの持ち物なら、最初からそうおっしゃっていただければ、別に捕える必要もなかったんですけど」
「……あの麦袋に入れたのは、俺じゃない。俺の財産を勝手に売り払った連中だ」
「ならば、まっとうな手段で麦袋ごと買い取ろうとは思わなかったのですか?」
「そんな金は残ってなかった」
「船をお持ちなのに?」
「その船は、金にならない」
キルスの言葉に、シンドバッドが不満そうな声を上げた。
『しっつれーだなー。僕をお金に換えられないのは、売ったら詐欺になっちゃうからなんだろ?別にいいんだよ、売ったって。でもそれよりも僕を使って商売した方が大金持ちになれるって思ったのはキミじゃないか』
「おまえは、俺が所有権を手放せば、風になって消えるんだろう。そんなものを売ったとなれば、売値よりも高い賠償金を払わされる」
『そんなこと知らないねー』
キルスは苛々とした声を上げた。
「だいたい、どうしてこんなに時間がかかった!俺がエランに向かって三日後に迎えに来いと言っただろう!」
『だって、『魔神のランプ』を取り戻せなかったんだろう?』
シンドバッドは楽しそうな笑みを口元に浮かべた。
『キミの願い事は全部で三つ。
一つはどこへでも行ける船を得て、大商人になること。ただ大金持ちというのではいずれお金を使い果たしちゃうから、自分でお金を稼ぎたいっていうキミの狙いは、なかなか面白かった。
二つ目は刃で死なない身体になること。不老不死はダメだって言われたからそうしたんだって聞いたけど。おかげでどんな場所に捕まっても、なんだかんだと逃げ出してこれる。どんな秘境に行くこともできる丈夫な身体だけど、キミは気づいてしまった。肉体は使えば衰える。それは何も変わらない。
お金と健康を手に入れたら、次は女だ。だけどキミは利口だった。大金持ちで『魔神のランプ』を持っているなんて評判があれば、望まなくても向こうから女は寄ってくる。一番いい女を手に入れようと思いながら、キミは最後の願いを使おうとしない。
だからねえ……』
シンドバッドは言葉を切った。
『キミが、エランに来るために、わざわざ病気にかかったのを知ったから。迎えが遅かったら最後の願いを使うかなと思ったんだよ。病気を治してくれ、ってさ』
「ちょ……」
私を挟んで行われる会話に、困惑するあまり声を上げた。
「ちょっと待ってください。それじゃあ、まるで……」
まるで本当に、魔神が願いを叶えてくれているかのようではないか。
困惑している私をよそに、キルスは船へと近づこうとする。
「女、邪魔だ」
「そ、そうはいきません!キルスさん、あなたは分かっておいでですか。度重なる逃亡のために、最初はたいしたことなかったのに、立派な犯罪者入りしてるんだってことを!最低限、麦袋の弁償をしてくだされば、私だって口添えできますけど、このまま逃がすようなことはできません!」
「俺も、これ以上エランにはいたくない。黒装束に狙われるのはもうまっぴらだ」
彼がそう言った時だった。
周囲を、黒い風が走った。
夜の闇の中から現れたような黒装束。目元以外はすべて布に隠され、しかも黒い馬に乗っているというのは、どういう趣味だろう。
現れたのは一人だけだが、騎乗している黒装束はやけに大きく、私とキルスとを見下ろし、その目にわずかに迷いを乗せた。
「くそ、追いつかれたじゃないか!」
キルスは大急ぎで桟橋へ向かい、白い船へと走り乗った。
それを、黒装束は追いかけようとしたが、なぜか私を見て躊躇した。
馬が横を駆け抜ければ、確かに蹴られて危なかったかもしれない。だが、そういう視線には思えない。
私とキルス、どちらを優先するべきか迷い、結論を出せないといった視線だ。
その間にキルスは船の甲板へと乗り込み、即座にシンドバッドへと命令する。
「早く、出せ!」
『ハイハイ。船使いの荒いご主人さまだね』
シンドバッドが再び宙を舞う。ふわりと広がる髪と一緒に、船は大きく帆を膨らませた。
このままならば、キルスは逃げる。逃がしてしまう。
……でも。
黒装束がそばにいる状態でキルスを追いかけるのは、誰のためにもならない気がした。
黒装束は、理由は分からないがキルスと私とを天秤にかけている。どちらかを確保しようとしているのだ。
今、私がキルスを追いかけて走り出せば、一石二鳥とばかりに黒装束も追いかけてくるだろう。
この黒装束が何者か分からないまま、それをしていいんだろうか。
「あ、あの」
私は思い切って黒装束へと話しかけた。
キルスの乗った白い船が桟橋を離れかけている。それを、指差して私は叫んだ。
「逃げますよ。いいんですか?」
黒装束に追わせて大丈夫かどうかについては、正直なところ分からない。だが、私のそばにいられるのも、なんとなく嫌だ。
「……仕方がない」
黒装束はそう呟き、その代わりというように私を見下ろした。
「あの男一人を逃がしたところで、次を手に入れればいい。その手がかりは手に入れたのだから」
「え?」
手がかりとはどういう意味だ。
困惑しながら見上げる私の顔を見つめたその黒装束は、その腕を伸ばして私を馬の上へと引き上げた。
「っ!?」
両腕の下を抱え上げられ、足が宙に浮く。馬の上というのは予想以上に高いものだった。……怖い。
黒装束は目元しか見えないその顔で、私の顔を間近で見やった。
「こんなところをウロついているとは思わなかったが、思わぬ拾いものだ」
「ちょ、降ろしてください!」
ヤ、ヤバイ。なんで、なんで!?
大混乱を起こしながらも、馬の上から飛び降りるようなこともできず、ただジタバタともがく。
下手な落ち方をすれば足を折るだろう。こんなことなら乗馬の練習もしておくべきだったか!?
「暴れると、落……」
落ちるぞ、か、落とすぞ、かのいずれかを口にしようとしたんだろう。
黒装束の言葉は最後まで言い終わらなかった。
路地から駆けてきた一人の男が、ものすごい勢いで馬に飛び乗ったからだ。
その男は短剣を持っているだけだった。
だが、人が乗っている騎馬の上に跳ね乗り、黒装束の首元に短剣を突きつけてきたのである。
「な、な、な、な……!」
人が飛び乗ってきたことで、黒い馬は驚いたらしい。慌てて暴れ出した馬を抑えるのに、黒装束は気を取られた。
その間に男は、抱えられた私を奪い去ったのである。
驚くべきことに彼は手を支えに使ったりしなかった。どれだけ身が軽いんだ。
「ラーダに何をする」
彼は地面に着地してからそう聞いた。
――ファルである。
路地から駆けてきたのは男が三人だったらしい。今日は千客万来だ。占いの結果に背後に注意って書いてあったんじゃないだろうか。
一人は先ほど先輩を呼びに行った同僚の調査員。もう一人はアラム先輩。そして、……ファルだった。
彼はそのまま黒装束から数メートル離れて、私を地面に下した。
「その姿、『東のカシム』を襲った連中の仲間だろう。なぜここにいる……、いや、どのような理由であっても、エランの国で好き勝手させるつもりはない。大人しく捕まれ」
ジロリと黒装束を睨みつけながら彼は鋭く言った。
「あー、ハイハイ。この娘は確かに犯罪者ホイホイなんだけどさ。キミらまではお呼びじゃないね」
アラム先輩は距離をとったまま、遠く離れていこうとしている白い船へと視線を向けた。
「ラーダ、あれは」
「キルスの船です。……すみません、逃げられました」
馬を落ち着かせた黒装束は、騎乗したまま、現れた男たちの姿を確認しながら私を見やった。
「ラーダ?」
「……私の名です。それが何か」
黒装束はわずかに目を見開き、それから黒い布の下で何かもごもごと言ったらしい。
「女、……人間か?」
「?どういう意味です、当たり前でしょう」
いぶかしんで尋ねた言葉に、黒装束は私への興味を失ったかのように見えた。
「……そうか。それは、残念だ」
黒装束はそれだけ言うと、馬の首を音もなく上げた。
正直なことを言えば、馬鹿な、と思った。
間近で馬の走り出しに遭遇したことがあるだろうか。これはかなり怖い。馬は人を背に乗せられるだけあって大きいし、その脚の力は比類ないものがある。運悪く蹴られて命を落とした話だって聞いたことがある。
馬が身動きする気配に気づき、私が頭を抱えて屈みこんだのは自己防衛本能といったところだった。
いかに犯罪者だろうからといって、走り出す馬の上から相手を引き摺り下ろすような真似は、私にはできない。
ところが、黒装束の馬は音を立てず、また近くにいた私やファルに砂埃一つかけずに走り出したのだ。
現れた時も去る時も、その馬は一声も鳴かなかった。
黒装束がいなくなってから、しばし。
駆けつけてきた男たちも、私もまた動けなかった。
めまぐるしく展開した事柄に頭がついていけなかったのと、馬に対して警戒した身体がこわばってしまい、動けなかったのだ。
「ラーダ、無事かっ?」
ファルはそう言って、改めて私を見やり、それから躊躇したように動かしかけた手の動きを止めた。
「あ、いや、……け、怪我はないな?」
なんとなく、彼は迷子の子供にするように抱きしめてこようとしたんだと思う。だが、私は子供ではないということを思い出したのだろう。もごもごとしたファルの言葉に、私はうなずく。
「特にありません」
「あのな、ファル。……そこで変に躊躇されると、かえって微妙だからな」
アラム先輩が呆れたようにため息をつき、それから私へと視線を向けた。
「ラーダ、報告を」
「ハイ」
こくりとうなずき、私は口を開いた。
「本日の港使用予定の船をすべてチェックし終えた後のことです。白い帆船が港へと近づきました。私以外にも目撃しています」
そこで言葉を区切ると、アラム先輩を呼びに行った同僚がこくりとうなずいた。
手早くあったことを話す。
さすがに、宙に浮き、化身だと名乗るシンドバッドの存在については男性陣も信じがたいという顔をしたが、キルスが『魔神のランプ』の所有者であったことがハッキリしたことで、納得はいったらしい。
「だが……、そうなると。キルスは三つ目の願い事を叶えていない。いずれ病気を治したら、ランプを取り戻しにエランに舞い戻ってくるわけか」
「ええ、そうなるのではないでしょうか。『魔神のランプ』というものが、途中で所有者を変えない限り」
「その心配は、おそらくない」
やれやれといった風に、ファルはうなずいた。
「『魔神のランプ』は国庫の宝物庫で預かっておこう。所有者の名前つきでな。盗賊対策としてもそれで大丈夫だろう。キルスに返却する際に、彼が悪用しないように伝えなくてはならないが……」
「あれ、返しちゃうんだ?」
アラム先輩が残念そうに尋ねる。
「ああ」
深々とうなずき、ファルは私を見やった。
「出来れば、三つ目の願いを早々に決めてもらい、その後はエラン王国の遺物として寄付してもらえたらとは思うが。
すまないが、港湾課で、キルスの船がエラン王国に寄港する様子があれば伝えてくれないか。ランプを返したいから連絡をするようにと」
あれだけ何度も捕まっていると、港湾課に対しての警戒が強くなっていそうである。素直に話を聞いてくれるかどうかは分からないが、まあそういうことであれば話しかけはしよう。
私はうなずき、まだ納得しきっていないアラム先輩へと視線を向けた。
「ちなみにランプはどちらに?」
「ああ、ココ」
ひょいと懐から古ぼけたランプを取り出しながら、アラム先輩が肩をすくめた。
「キルスも、もうちょっとばかり待ってれば、返してもらえたのにな」
気の早いやつ、と呟いた後、アラム先輩はランプの表面を手でこすった。キュキュキュと音がするだけで、特に何事も起こりはしなかった。
「やっぱ無理かー」
「先輩にも何か願い事があるんですか?」
「そりゃ、どうしてもってんじゃなきゃ、願い事のない人間なんていないだろうさ」
軽く肩をすくめたアラム先輩は、それを布でくるんでからファルへと預ける。
「それにしても、本物か。……できれば偽物であってほしかったな」
アラム先輩がぼやくように言うので、私は首をかしげた。
「どうしてです?」
「偽物であれば、キルス一人の話で済んだ。だが、本物となるとあちこちの連中がランプを狙ってくる。キルスの手になきゃ意味がない品だってことを教えたとしても、諦めきれるものではないだろう」
アラム先輩は、同僚の調査員の頭を掴むと、ギリギリと力を込めながら脅し付けた。
「いいか。絶対に誰にも言うなよ?どこかに話が漏れたら、おまえから話したのだとみなしてクビにする」
アラム先輩の言葉に、同僚が青ざめてコクコクとうなずくのが見えた。
手元にやってきたランプを見下ろし、ファルは静かに口を開いた。
「……案外、軽いんだな」
「油を入れてランプとして使うわけではないでしょうから」
私が答えると、彼はうなずいた。
「はじめておとぎ話で『魔神のランプ』について知った時、なんて気の毒なと思ったんだ。
王を怒らせたことでランプに封じられた魔神は、さぞかし彼を恨んだだろうと思った。
こうやって見ると、飾りランプのような豪華な品でさえない。日常的に使われていた、おそらく寸前まで火を灯していたはずの室内ランプだ。そこに放りこまれて、どれほど長い間砂に埋もれていたんだろうか」
しみじみとした声でファルは言って、布越しにランプの表面を撫でた。
キルスがいなくなったことで、港湾課の業務は通常に戻るのだと思っていた。
だが次の嵐は意外なところからもたらされた。
翌朝、しばらくぶりに姿を見せたシャハーブが、思わぬ知らせを持ってきたのである。




