第十話 ペテルセア帝国の狙い
サンジャル様が去った後、しばらくその場を動けなかった。彼の発言が本気かどうか、さっぱり分からなかったせいだ。
二度、三度深呼吸をしてから、ようやく広間に戻ってくると、ファルとナスタラーン姫がそろって楽の手を止めているところだった。仕切りの布を上げて中へと入ろうとした私に、最初に気づいたのはニキである。彼女は姫の護衛だから、おそらくもっと前から気づいていたんだろうけど。
私の服装が元に戻っているのを見て、ファルがホッとしたような表情を浮かべた。
「おかえりなさい、ラーダ。遅かったわね」
「すみません、着替えに手間取りまして。それと……お借りした衣装なのですが、部屋に畳んでおいておきましたが、それでよろしかったんでしょうか」
汗だくだった服なので、どうにも気が咎めたが、他に置く場所もなかったので。
「ええ、構わないわ。それに、洗って返せと言われても困るんじゃなくて?」
言われてみればもっともである。洗い方が分からない。
私が納得した顔をすると、ナスタラーン姫はくすくすと笑った。
夕ご飯はこのまま広間を使うことになったらしい。
仕切りの向こうから食事を運んでくる給仕たちが、私を見て一瞬奇妙な表情を浮かべる。確かに一人だけメンバーが異色だ。
さすがに他国の王女への歓待料理だ。宴の日でもないのに仔羊料理まである。
それ以外は豆の煮たの、鳥肉のシチュー、生ソラマメにヨーグルトソースをかけたの、平たいパン、ジャム、ザクロのゼリー、果物各種だのといった定番が多いのだが、全体の種類が多い。食べきるなんてとても無理だろうという量だ。
「ラーダは宮廷料理は食べたことがあるのかしら」
「あるわけありません。……ただ、メニュー自体は、下町の料理とそれほど差はないみたいに見えますね」
ところがまず平たいパンの味が違う。他の食材も素材の違いがよく分かる。煮込み料理なんてそんなに違うものかと思ってたんだけど、何が違うんだろうか。素材?味付け?黙々と食べていたところナスタラーン姫にくすくすと笑われてしまった。
「熱心に食べるわねえ、ねえ、王子殿下?」
「っ、はい……?」
急に話題が振られたからか、ファルが食事をする手を止めて顔を上げた。
「お酒はお好きかしら。呑んでも構わなくて?」
「え、ええと、私は……」
「ああ、良いのよ。昨日、王子殿下はあまりお酒をお好きじゃないって教えていただいたから」
にこにこと微笑むナスタラーン姫は、給仕に指示を出すとさっそくお酒を用意させたらしい。
頼んでもいないのに器にお酒を注がれてしまい、困り果てている私の目の前で、ナスタラーン姫はまったく顔色を変えずにグイグイと呑んでいく。
「姫様、お酒が強いんですね?」
「ふふふ、これは鍛錬の賜物といったところよ。一国の姫がお酒ごときで正体を失くしていては危険でしょう?」
その言葉はファルの胸にグサリと刺さったらしい。
そういえば、記憶が飛ぶことがあるのでお酒はあまり呑みたくないようなことを言っていた気がする。
「でも、これは言い訳のようなものかしら。お酒が入ったということは、本音を口にしても良い頃合いだと思うでしょう」
ナスタラーン姫はそう言って、ファルに向けてにこりと笑った。
「わたくしと婚約をするつもりなのでしたら、ペテルセア帝国の狙いを知っていて欲しいの」
ファルは顔をしかめた。
サッと手を振り、給仕の人間を下がらせてからナスタラーン姫を非難するかのような視線を向けた。
「ナスタラーン姫、うかつなことを口にしないでくれ」
「あら、どうして?」
「あなたの評判に関わる。……国同士の婚姻に狙いがあるのは承知しているが、それを口にするような真似は……」
ファルの言葉に、ナスタラーン姫は首を振った。
「国同士に友好関係は必要でしょう。けれど、それはお互いの国に大使を送り合うという現状で十分果たせていることだわ。わたくしたちの国は争い合ってはいないという証としてね。違うかしら」
「……いや」
ファルは静かに肯定し、彼女の発言の意図を確認するかのように視線を向けた。
こくこくと器の中を空にしたナスタラーン姫は、ニキにお代わりを注がせて楽しそうに笑う。
「わたくしとの婚姻を望んだのは、あなたの国の、国王陛下だわ。その狙いはご存じ?」
ファルは静かに口を開いた。
「私の立場を強化することだろう。世継ぎの王子でありながら、私は王太子とは言えない。それに、国際社会の中で対等に扱われる国へと成長していくには、エラン王国内の女性の地位を高めていく必要がある。そのために……」
「つまり、わたくしである必要はないのでしょう?」
ナスタラーン姫は目を細めた。
「ペテルセア帝国の王女で、独身だったのはわたくし一人。だからわたくしに白羽の矢が立ったのよね」
「……否定は、できない。国王も私も、あなたの人となりを知っているわけではないし。……だが、私はあなたを王妃として迎えた場合に、他に女性を迎える予定はない。それでは私とエラン王室の誠意は伝わらないか?」
「ふふふ。正直な方。愛ではなく誠意なのね」
ナスタラーン姫は笑った。
「では、今度はわたくしの番。わたくしの父上がなぜ、この婚姻に対して前向きになったのか」
それは、と彼女は続けた。
「『魔神のランプ』が欲しかったからよ」
ナスタラーン姫は、ファルが驚く顔を楽しみにしていたらしい。
目を見開き、顔をしかめた彼の表情を実に楽しそうに見やると、ニキの方へと手で合図した。
「面白いものを手に入れたので、王子と話をしてみたいわ、と申し入れをしてありましたの。伝わっていらっしゃるかしら」
「サンジャルが、そういえばそのようなことを言っていたが……」
「ええ。……それが、これ」
ニキが運んできたのは一枚の羊皮紙である。
「ペテルセア帝国の公用語か」
「お読みになれる?」
「……少しなら」
「ラーダ、あなたは?」
「え!?」
まさかこっちに話題が振られるとは思わなかったので驚いて目を丸くした。
「どちら?」
「あ、あー。読めますよ、公用語なら。ペテルセア帝国とは貿易回数が多いですし、向こうから来る船はほとんどエラン語が使われていません。ペテルセア公用語が読めないと、仕事になりませんし……」
しどろもどろに答えると、ファルが私にその羊皮紙を手渡した。
「いいんですか、私が読んでも?」
「頼む」
間近で真剣な目を向けられて、どうにもこうにも困った気分になった。
「……確実な内容が知りたい」
その目は、ナスタラーン姫の発言を頭から信じることはできかねるという戸惑いを含んでいた。
「……読みます。『キルスが所有していた魔神のランプは、エラン王国行の船に載せられたもよう。ルーズベフ』。それと、これはエラン王国の地図でしょうか……?赤い印がついていますけど」
私とファルは思わず顔を見合わせた。
キルスというのは、密航者の名前だ。ランプを追って船に乗っていた彼を見つけたのがすべてのはじまりだった。
彼は、ランプは自分のものだと主張していたから、もしこの文面が正しいのであれば、それは真実だったということになる。ルーズベフというのは、ベフルーズ商会と偽って不死鳥の雛を買うという話を持ちかけたという男の名前。
「どうして、この名前が並んでるんですか……」
偶然というにはあまりに最近に聞いた名前ばかりだ。唖然とする私の目の前でファルはますます苦虫を噛み潰したような顔になった。
「これは、ペテルセア帝国の誰に向けて出された報告なんだ?」
「わたくしの父上よ」
「それが、ペテルセア帝国の本音か」
「そうなるわね」
ふふふとばかりにナスタラーン姫は笑った。
「ペテルセア帝国は、昔からエランの国が欲しかった。この国には大帝国跡地があって、黄金の都が眠っているという伝説があるから。50年前、戦争に勝ち、今度こそこの国が獲れると思ったのに、やはり叶わなかった。なぜなら砂嵐によって西に行った部隊が全滅してしまったせい。これ以上続けても不利だと分かり、和議に持ち込むことにした」
「……」
「そして数年前、エラン出身だという商人が『魔神のランプ』を帝国内に持ち込んだ。これは間違いなく黄金の都への手がかりになる。けれど、商人は頑として売ろうとしないし、入手先も教えない。彼は帝国内に屋敷を構え、商売をし、栄えていった。その名はキルス」
「……」
「父上は考えた。『魔神のランプ』を手に入れるにはどうしたらいいか?彼は王女を商人に近づけて、色気で落とそうと考えた。だけども彼の娘は、ぽっちゃりぎみでマニア受けする娘以外、小さいころに他国との婚約が成立していたの」
ぽっちゃりぎみでマニア受けって……。
思わず顔を引きつらせた私の目の前で、ニキがうんうんとうなずいている。
「父上はその娘を改造することにした。誰もが振り向く美女にするために、家庭教師をつけてエラン語まで覚えさせ、徹底的にダイエットさせて。ついに王女は文句なしの美女に変貌を遂げたけど、時はすでに遅かった」
ひらひらと手を動かして、ナスタラーン姫は笑った。
「商人は別の欲深な者たちによって罪を着せられ、屋敷を襲撃され、『魔神のランプ』は行方不明になったのよ」
ちゃんちゃん、と彼女はオチをつけた。
「おとぎ話の通りね。欲深な者の狙いなんて実現しないわ。でも、せっかく良い仕上がりになった王女は勿体無いでしょう?そこで、父上はエラン王国にわたくしの婚約を進めるよう求めてきたのよ」
黙ったまま話を聞いていたファルは、苦々しい声で口を挟んだ。
「王女との婚約は、以前から国王が進めていたと思ったが」
「そういう話があったのは確かね。でも、具体的に誰という指定はなかったでしょう」
ナスタラーン姫はお酒の入った器をゆらゆらと動かしながら、流し目を送ってきた。
「父上は手段は問わないから、王子を色仕掛けで落とすか、もしくは『魔神のランプ』を手に入れるようわたくしに言ったの。でも、そのための手段として持ってきたものを、ラーダに見つけられてしまったのよね」
ふふふと彼女はあくまでも楽しそうに笑った。
ファルが私に問いかけるような視線を向けてきた。てか、説明しろとでもいうのだろうか。あの薬について。
「私は、あくまで港湾課の調査官として、ボディチェックをさせていただいただけです」
私の言葉に、ラーダは楽しそうだった。
「ファルザード王子、わたくしの事情はお分かりいただいたかしら。わたくしとしてはあなたの誠意が気に入ったから、このまま婚約を進めてくださっても結構だわ」
にこにこと笑うナスタラーン姫に、彼は苦い顔をした。
その時だった。屋敷内の空気が変わった。
まず、ニキがハッと顔色を変え、ナスタラーン姫を庇うように立ち上がった。
「……!?何事だ!」
次に反応したのはファルだ。腰に据えた短剣を引き抜いて周囲を見回す。
その段階になってようやく、私も仕切りの布向こうがザワザワと人の気配でうるさくなっていることに気づいた。何か起きたらしい。
ファルが人払いをしていたからか、事態を報告しに駆けつけてきそうな人間が来ない。
「姫様、お下がりください。いったん、お部屋に」
「ニキ、何が起きてるの?」
「賊です。……何者か、屋敷の中に入ってきたのでしょう」
言い終わる前に、それは姿を見せた。
一人は、薄汚れ、砂にまみれた服を身に着けた男だった。整えられていないヒゲのために、人相が悪い。手に短剣を握りしめている。
砂まみれの男を追いかけているのは黒装束の人物だった。人数は三人。目元以外のすべてが黒い布で覆われているせいで、男か女かも分からない。黒装束の人物たちは、抜き身の曲刀を手にしていた。
「た、助けてくれ!」
悲鳴を上げて近寄ってこようとしたのは砂まみれの男の方である。
私の人物観から言うと、良くても盗賊なんだけど、どうやらこの場合は彼の方が被害者であるらしい。三対一だとすれば、逃げる気持ちは分かる。
「近寄るな」
ニキがナスタラーン姫を背に、男へ殺気を放った。
「ひぃ!?」
前と後ろとを物騒な気配で囲まれて、男は落ち着きなくキョロキョロした。その背に黒装束の曲刀が迫る。
「待て!」
割りこんだのはファルである。曲刀相手に装飾のついた飾り用の短剣で立ち向かうなんて無茶なと思ったけど、器用に刃を受け流して砂まみれの男を背にして黒装束たちへと視線を向けた。
「どのような理由であろうと、目の前で殺傷を認めるわけにはいかない。刀を下げろ」
ファルの命令に、黒装束たちの表情に変化は見られなかった。
邪魔だと考えたのか、そのうち一人がファルへと向けて刀を振りかざそうとする。それを、短剣で捌きながらファルは距離を測っていた。相手の得物が長い場合、距離をとっては不利だ。かといって、接近で対処していては、逃げることもできない。
それを見た私は、砂まみれの男へと走った。
「ファル!こちらは確保しますから!いったん下がりましょう!応援を呼ばないと!」
制服に戻していて良かった。腰飾りを解き、それで砂まみれの男の口を封じる。手に持っていた短剣を無理やり取り上げ、床に転がした。捕えられたと知った男はわずかに抵抗したけど、それよりも命が助かる方が優先だったんだろう。立ちなさい、と背を叩くと、大人しく従った。
「……警備兵が集まる部屋は分かるか」
ファルは黒装束へ視線を固定させたまま私に聞いた。
「はい」
「彼女たちを連れて行ってくれ」
「しかし」
「……頼む」
よりにもよって王子を残すということに不安はあったが、私はナスタラーン姫とニキへと視線を向けた。
彼女たちはすでに逃亡の支度が出来上がっている。私の視線が通路の方へと向いたのへ、ニキがうなずいた。
他国の要人と、自国の王子。どちらが優先かなんて、私の頭では判断できなかった。
仕切りの布をくぐり、逃亡したのはわずかに数メートルに過ぎない。
そちらには砂まみれの男と同類だと思われる人物が、もう一人いて。私が砂まみれの男を捕えているのを見て状況を判断したらしい。
「話が違うぞ!なんでこんなに警備がいるんだ!」
悲鳴のように叫ぶと、新たな砂まみれの男は、私に向けて短剣を振りかざした。
「いま、助ける!」
どうやら私が確保している人物に向けて言ったらしい。
腰飾りで男の口を封じていた私は、新たな男には対処できなかった。振りかざしてきた短剣を避けた拍子に、確保していた男を逃がしてしまったのだ。合流した男たちはお互いに顔を見合わせる。
「身なりのいい女だな。女官を連れてるところを見ると、貴族だろう」
「こいつを人質にすれば逃げられるんじゃねえか?」
男たちの視線は、ナスタラーン姫に向いた。
「姫様に近づくな」
離宮に入った時点で取り上げているから、ニキの手元にある武器はどこから取って来たか分からない短剣が一本だけだ。
おそらく屋敷内のどこかにあったんだろう。あるいは、私が取り上げ損ねたのかもしれない。とりあえず、今の状況では得物がないよりは幸いだあった。私の手元には腰飾りがあるだけ。とは言っても、どうせ剣なんか使えないんだけど。
「姫?姫なのか」
「ほー、お綺麗な顔してるしなあ。なら、ますます都合がいい」
ニヤニヤと笑う様子を見て、こいつはやはり盗賊だろうと私は胸の内で結論づけた。
せっかく黒装束から助けてやろうと言ってるのに、恩を知らない連中である。
「逃げたいのであれば、今のうちですが?ここで女性を人質にとるような真似をすれば、情状酌量の余地はありませんよ」
私が言うと、後から現れた方の男が首を振った。
「この国で盗賊は、罪状に合わせて死罪か腕落としの刑だっつーことくらいは知ってんだぜ。逃げる以上は捕まるような真似はしねえ」
「そうだそうだ!お貴族様には分かんねえだろ、盗賊やるしかねえやつだって、世の中にはいるんでねっ!」
口々に言いながら、男たちは走り寄ってくる。
短剣を取り上げ済みの方は素手で、もう一方は短剣を振りかぶってだ。
ナスタラーン姫を守ろうと、ニキは短剣を振りかぶった方へと手にした剣を投げ、そのままの勢いで懐に潜りこみ、蹴りを放った。男が怯んだ隙を狙い、手にしている短剣を奪い去る。それを首筋へと突き立てようとしたのを見て、私は思わず声を上げた。
「殺しちゃダメです!」
チッと舌打ちしながら、ニキは短剣を反転させて、柄の部分で男の首筋を突いた。
素手の男はまっすぐにナスタラーン姫を目指していた。間に割りこみ、腰飾りを構えた私の腰元へとタックルをかます。
まさか逃げもせずに向かってくるとは思わなかった私は直撃を食らってよろめいた。そのまま私を振り払って床に転がすと、ナスタラーン姫の元へと駆け寄った男は、別の人物によって目論見を奪われた。
床に転がされ、体勢を崩した私は即座には起き上がれなかった。だが、現れた別の人物が、ナスタラーン姫を小脇に抱えて棍棒のようなもので男を殴りつけるのは目撃できた。
その人物は背後から現れたらしい。ナスタラーン姫は何が起きたか分からない顔をしている。
背後から腰に手を回し、彼女をまるで荷物を抱えるかのように片手で軽々と持ち上げた人物は、砂まみれの男を二度、三度と棍棒で打ち据えると、見下すように言い放った。
「女を襲いに来るつもりなら、せめて砂を落としてからにしたらどうだ」
アラム先輩だった。
「先輩、どうしてここに……」
「こいつらは『東のカシム』一味だよ。……協力感謝する」
アラム先輩はナスタラーン姫を小脇に抱えたまま私に答え、それからニキに向かって礼を言った。ニキとしてはまずナスタラーン姫の待遇が気に入らず、殺気を隠そうとはしていなかったが、すぐに抗議することはしなかった。
他に残党がいないかどうか一瞥してから、アラム先輩に向かって非難するように答えた。
「姫様を離してください」
「へ、姫?」
きょとんと目を丸くしたアラム先輩は、言われてはじめて小脇に抱えた女性を見下ろした。
「姫っつーと、……ペテルセアのナスタラーン姫?」
「え、ええ。そうよ。わたくしの名はナスタラーン……。あなた、この扱いはいくらなんでも、あんまりだわ」
アラム先輩は姫の言葉をどう考えたのか、小さくため息をついた。
「ラーダ」
「はい」
「ファルはどこだ」
「まだ奥に」
「まさか一人で置いてきたんじゃないだろうな!?」
「申し訳ありません」
「……いや、仕方ないか。王子としては客人の身の安全の方が優先だしな。けどな、ラーダ」
アラム先輩は顔をしかめた。
「部下はそれを認めちゃいけない」
周囲を見回して、それから続ける。
「ラーダじゃ護衛は無理だな。仕方ない」
ファルのいた広間へと戻りはじめた先輩に、ナスタラーン姫が抗議した。
「ちょっ、わたくしをこのまま連れて行くつもりなの!」
「ワガママを聞いてられる場合じゃないんだがなー」
仕方ないとばかりに、先輩は小脇に抱えていた姫様を、両手に抱え直した。お姫様抱っこである。文字通り。ニキが思わず短剣を握りしめているのが見えた。
「ほら、これで文句ないだろ」
ニヤリと笑ったアラム先輩に、ナスタラーン姫は唖然として、それから火を噴いたかのように顔を赤くした。
広間に戻った時、黒装束たちはもういなかった。
ファルは油断なく周囲を見回しながら、警戒を解かない。
現れた私たちに驚いて振り返り、アラム先輩がなぜかナスタラーン姫を抱き上げているという状況に首をかしげた。
「あの黒装束はどうしました?」
私が聞くと、彼は静かに答えた。
「消えた」
「……は?逃げたということでしょうか?」
「いや」
ファルは黙って首を振り、目の前を指差して続けた。
「消えた、ように見えた。忽然といなくなった。天井に張りついたわけでも、窓から逃げ出したわけでもない。……先ほど読んでいた手紙があっただろう。あれが目的だったらしく。そいつを拾い上げるなり、いなくなった。
一人が消えたことに驚いた隙を狙って、残り二人は逃げ出した」
「え!?あの紙が!?」
ファルの言葉に、ナスタラーン姫が悲鳴のような声を上げ、アラム先輩の腕の中で暴れる。
「ああ。……問題があったか?国王の署名があったわけではないだろう。ルーズベフの糾弾には役に立つだろうが、それは証拠がどうしても必要というわけでは……」
「違うわ!地図があったでしょう!?あれを、今回の調査団のついでに調べて来ようと思っていたのに……」
ガッカリと肩を落としたナスタラーン姫。調査団に加わるという話も、本気だったのか。
「どんな内容だ?」
尋ねてきたアラム先輩に記憶を頼りに説明すると、彼は真剣な顔で黙りこんだ。
「……それはマズイな」
「なぜだ、アラム?」
ファルの質問に、彼は答えた。
「三度捕えた密航者……、キルスだが。そいつが、今朝方突然行方不明になったんだ。捕えてあった場所から、忽然と消えたらしい」
「ええええ!?」
私が思わず声を上げる一方で。
「キルスと、黒装束たちとの間に、何らかの関係があるかもしれないな」
ファルは重苦しい声でぽつりと呟いた。