第二
「……は?」
「は? じゃない。僕は一生、君を許さないと言ったんだ」
「……は?」
「君は馬鹿なのか? 日本語が分からないとか」
「……は?」
「……だから、君はにほ――」
「なんで俺がお前にそんなこと言われなきゃ何ねえんだよぉおおおおおおおおおぉぉおおおおお!!」
そうだ。
なんで俺がこいつにこんなことを言われなくちゃならない。
まず第一にこいつから俺に発せられるべき言葉は『ありがとうございます』だろうが。
それが何でいきなり嫌味言われてるの? なんで許さないとか言われてるの? ほんとぶっ殺してやろうかな……。
「僕がいつ君に助けを求めた?」
まだ肺あたりに水が残っているのか、苦しそうにしながら熱くなっているコンクリートに平然と手を付き俺を睨む。
苦しそうに顔をしかめているので、迫力はなかなかだ。
「……」
「何だよ? 何か言いたそうだな」
ええ。
ええ、そりゃあもちろんですとも。
確かに助けを求められた覚えは一ミリたりともございませんが、普通誰だってあんな場面に遭遇したら助けるよなぁ? なぁ?
……そうは言わないあたり偉いぞ自分。もっとも、今にキレそうでこめかみのあたりで血管がヒクヒクとしているのだが。
「僕は君に助けてくれなんて言っていない。僕は好きでああなっていたんだ。それなのに余計なことをしてくれて……。どうしてくれるんだ?」
そんな様子を見て何も感じることができないのか、恩人を親の仇だとでも言うように言葉にありったけの憎しみと棘を含ませている。
さすがにちょっとキレそうです、安西先生……。
「……えっとさ、君……」
駄目だ。これ以上何か言うと絶対俺がキレる。
だってこいつありえなくね? 事もあろうに命の恩人に向かってさぁ……。
「……僕は、死にたかったのに」
とても小さな声音だったが、確かに聞こえた。
弱々しく俯き、髪からは水を滴らせながら、そろそろ自分達の体から出ている水滴によって冷めてきたであろうプールサイドのコンクリートに手を付きながら――確かに、言ったのだ。『死にたかった』と。
「……え?」
今にありったけの嫌味を込めて罵倒してやろうかと思っていたのだが、そんな気持ちは一瞬のうちにしぼみきり、返す言葉を失ってしまった。
「何でもない……余計なことを言ったな。一応礼だけは言っておく。ありがとう」
ありがとうなんて一ミクロンたりとも思っていない様子で、まだ苦しそうに小さく咳をしながらゆっくりと立ち上がる。
帰ろうとしているらしい。
帰ろうとしているらしい?
何を、そんな馬鹿なことを――。
「オイ」
気付くと俺はどうやら自殺志願者だったらしい奴の手首を掴んでいた。
「何だ」
少し驚きの表情をしたあと、また親の仇でも見るような目つきをし、離せと言う様に手に力を込めて振りほどこうとしている。
そんなものにはお構いも無しに、こいつよりは確実にあるであろう握力を存分に披露してやる。
「何だ、じゃねえよ。命の恩人様に向かって暴言を吐いたあとは、『死にたかったのに』だと? ふざけるなよ」
「ふざけてなんかいない。あれは口が滑った。悪かった。だからこの手を早く離してくれ」
ありったけの力を込めて、なんとか振りほどこうとしているようだったが、俺の手が離れることはなかった。
「何が悪かった、だよ? ふざけんなよ、本当に。命がどれだけ大事なものか知ってるのかよ? ほんの少しの短い間だけでも生きていたいと願う人間が、今だってどこかで亡くなってるんだぞ」
「そんな説教訊きたくも無い。早く離せ」
溜め息を吐きながら、どうしようもない馬鹿を見るような目で睨みつけてくる。
何を言っても無駄だと思った俺は、渋々と手を離す。見ると、相手の手にはくっきりと俺の手形が残っていた。
自分の手首をさすりながら、また深い溜め息を吐いて俺の顔を睨む。
……何でこいつはこんなにも偉そうなんだ。
さすがに顔に一発くらいぶん殴っていい気がしてきた。
特に何を言うでもなく俺をねめつけたまま動く様子が無いので、代わりに俺がプールから出て行くことにした。
さすがに舌打ちの一つや嫌味の一つ出そうになったが、何とか堪えてそのまま出て行った。
プールからだいぶ離れた位置で振り返ってみたが、あいつがプールから出てくる様子は無かった。
もしかしたらまた死のうとしているのかもしれなかったが、もう助けてやるつもりは無い。
まだたっぷりと水を含んでいる様子のシャツとズボンをどうするでもなく、俺はそのまま帰宅の途に着くのだった。