第9話 アシュヴァル家
「おはようございます、ジルスト兄上」
「ああ、おはよう」
食堂に入れと先に長男であるジルストがいた。
支度する順番を考えれば、長男、長女、そして次男であるオリトなのだが、女性の支度は長いというのはここでも常識。
大抵ジルストとオリトのどちらかが最初に来て、次に長女のフレーシャ、そして両親であるリュウスト、マイヤの順となる。
今日も予想通り順番でそれぞれが食堂に到着し、テーブルに食事が並んだ。
「日々の実りと健康に……火の神と……紙の神の加護に、感謝を」
「感謝を」
「……感謝を」
父親の声のあと、家族全員の唱和からわずかに遅れて、オリトは慌てて声をだす。
食事の前の短い祈りの句。
昨日までは火の神のみだったのに、今日は紙の神の名も加わった。
つまり頑固で脳筋な父親が、オリトが紙の神に仕えることを認めたことに他ならない。
仮に認められなかったとしても、神の加護を拒否することなどできないので、父親にできることと言えばオリトを家から追い出すくらいだっただろう。
(もしかして、人生設計のスーパーハードバージョンはプランから消しても良いかも?)
オリトは苦虫を嚙み潰したような父親の顔をちらりと見てから、ナプキンを膝の上に広げるために顔を俯いて心の中でほくそ笑む。
エッグスタンドなんてしゃれた器に乗ったゆで卵に手を伸ばし、スプーンの背で軽く叩く。
「オリト、選神の儀、おめでとう。将来は紙の神様の信徒になるのね。どんな仕事があるのかしら」
「フレーシャ姉様、ありがとうございます。昨日お会いした神官様には、貴重な契約用の紙を生成するのを見せていただきました。そこまでの加護を得られなくとも、領地内の紙の補給を支えられたらと思っています」
「まぁ、もうそこまで考えているのね。オリトは優秀だわ」
まるで自分のことのように喜ぶフレーシャ。四つ年上の十四歳で、半年後には成神の儀を受けて火の神の信徒となる。
以前木の神の信徒に片思いをして振られ、現在は麦の神の信徒に思いを寄せている。
失恋した時は領地の山に火をつけようとして暴れて、母親にこっぴどく怒られていたのはほんの……二ヵ月前だ。
容姿も整っていて、穏やかな時は完璧な貴族女性なのに、恋になると人が変わる。いつか幸せな結婚をしてほしいとは思うのだけれど。
「町の商会で紙を取り扱っているところがある。興味があればリストを渡そう」
「ありがとうございます、ジルスト兄上」
感謝を告げれば、真面目な顔つきのまま満足気に目を細めて頷くジルスト。
オリトの九つ上、フレーシャの五つ上、十九歳の長男は子爵家にはもったいないくらいに優秀だ。
この兄がいるからこそ、オリトが鉄仮面無表情でぱっとしなくても、誰も子爵家の将来を心配していないとも言える。
婚約者がおり、再来年くらいには結婚予定である。ちなみに婚約者も火の神の信徒だ。
「オリト、朝食の後に書斎に来るように」
「はい、分かりました、父上」
町にでると子供を半泣きにさせる強面を持つ父親、リュウスト・アシュヴェル子爵。
なんとなくこの流れだと良い方向に行きそうか。
ちらりと母親に視線を向ければ、半目で父親を見ている。
あれは昨夜何かしらのバトルが繰り広げられたのだろう。
父親はこのアシュヴェル家の”火の神至上主義”に染まり切っている、というか”そのもの”な人だが、母親は子供への愛情が深い人だ。
兄と姉が父親と同じ主義を押し付けてこないのも、母親の教育のたまものと言える。
たぶん心の中で”火の神が一番”とは思っていても、周囲には寛容という感じだ。
ありがたい。
母親が子供の味方であることがこんなにも心強いとは。
そうとなれば、食後の話し合いのためにもしっかりとエネルギーを入れておこうと、オリトは手にしたフォークを厚切りのハムに突き刺した。
「領地の神殿では、長らく紙の神の神官の座が空白となっているらしい」
「……なるほど?」
前置きもなければ結論もない。
どこか明後日の方向に投げられたボールのような父親の言葉を何とか受けとめ、オリトは無表情のまま浅く首を上下に振る。
完璧に理解はしていないけど、意味は分かる。つまり、父親はオリトに神官になれと言っている?
助けを求めるように――実際には鉄仮面のまま――オリトは執務机の向こうに座る父親から視線を外し、優雅にティーカップを傾ける母親へと向ける。
母マイヤは音もなく一口だけ茶を飲み、ティーカップをソーサーへと置いてローテーブルへと戻した。
ゆっくりと上がる視線に、オリトはどことなく居心地悪く感じて後ろ手で組んだ両手に力を込める。
「……この領地に残る場合の、選択の一つということです。紙の神の神官がいないと、契約のための正式な紙が手に入りにくいのです。お父様の領地のお仕事には多くの契約が関わってきますが、契約書用の紙を他領から買わねばならない状況が続いているのです」
「なるほど。僕が神官になることで、父上や次期領主の兄上をお手伝いできるということですね」
「その通りです。オリトが紙の神の加護を受けたことは、領地にとって良いことだとお父様は考えていらっしゃるのです」
本当にそうだろうか。
今も宿敵を見るような目でオリトを見ている父親へと顔の向きを戻して、正面から視線を受け止める。
強面中年、対、鉄仮面少年のにらめっこ……にもならない試合は、父親のリュウストが顔を下げたことであっという間に終わる。
何がしたかったのかも分からないまま、オリトは首を傾げた。
その途端、髪がサラリと耳からこぼれ落ちたのに気づき、さりげなく髪を耳に掛けなおす。
しかし、領地の神殿で紙の神の神官として仕えるのはなかなかいい案かもしれない。
この世界では神官の地位は高い。
誰もが神から祝福を授かるこの世界で、神官となるには神から格別の寵愛を受けなければならないからだ。
寵愛という表現は大げさかもしれないが、オリトは十歳ですでに紙の神に信徒として認められている。
たった一日で神からの恩恵を賜ったのであれば、今後も継続して折り紙を奉納することでより一層祝福の力を高めることができるだろう。
それに神官になることが適わなくとも、ここは父親の意向を汲んでおくのが得策だ。
少なくとも十五歳になるまで、この家に居座るためにも!
「僕ごときが神官になれるかは分かりませんが、与えられた機会を存分に生かしていきたいと思います」
「う、む……よろしい」
本当にこの息子は十歳なのかと目をうろつかせる父親の様子は、頭を下げたオリトからは見えない。
二人の様子を眺め、母親のマイヤは「まったく、この親子は硬いんだから」とため息をティーカップの中に落とした。




