第53話 感謝
「レネー、雪だ。オリトが、雪を降らせてくれたぞ」
レネーの名を呼ぶオリトの声が、白く染まった窓の向こうから響く。
ランドルは自然と口元に笑みを浮かべて語り掛ける。
レネーを看取る自分を何度想像しただろう。
狂いゆく自我と戦い、暗い闇に引きずり込まれる悪夢を何度見たことか。
それが、どうだ。
こんなにも穏やかで、賑やかで、温かさに満ちたものになるとは思ってもいなかった。
喉奥が熱い。
感情が枯れたはずの目の奥が、熱を持つ。
吐き出した息さえ熱を持っているようで、外を舞う雪が冷やしてくれることを願う。
だが外は眩しすぎて、輝いていて、ランドルから熱を奪うどころかさらに熱くさせた。
死に際に見る景色としては、最高だ。
レネーにとっても、ランドルにとっても。
ランドルは床に腰を下ろしたまま、ベッドに頬杖を突くようにしてレネーの顔の隣に頭を寄せる。
レネーと同じ視点から空を見上げる。
窓枠にはオリトが作った動物たち。
そっけない風景はいつの間にか賑やかになっていた。
小さな小さなこの子を腕に抱いた時から、訪れると分かっていたこの日。
友達と外で遊ぶこともできず、ランドルがこんな姿になってからは人と関わることもできなくなっていた。
そんな中、突然現れた子供。
無表情で、全く笑うこともしない子供。
そんな子供が、レネーの残された日々を彩ってくれるとは思わなかった。
「レネー、綺麗だな」
煌めく雪が、空から舞い落ちてくる。
いつだったか、騎士であった頃に見た本物の雪よりも美しい。
そう感じることができる自分の心が、まだ人であると教えてくれる。
小さく、微かなレネーの呼吸が聞こえる。それが少し乱れて、ランドルはレネーの口元をじっと見つめた。
空気を震わせる息の隙間から、レネーの声を拾いあげる。
「……ああ、綺麗だ」
いつまでも雪は降り続く空を眺める。
しばらくして、ランドルはハッと息を飲み、唇を強く噛みしめた。
強く眉間に皺を寄せ、深い息を吐く。
ぽっかり穴が開いたような胸を押さえてランドルは起き上がる。
そして安らかに眠る姪の顔へと視線を落とし、驚きに両目を見開いた。
キラキラと舞う白い紙が地面に落ちる。
溶けることなく、見た目が損なわれることなく、そこにあり続ける紙片を拾い上げ、オリトはクルリと回りながら宙に散らす。
顔に当たっても冷たくも痛くもない雪を浴びて。
その時、ギィッと扉の開く音がした。
オリトは一瞬体をこわばらせ、ゆっくりと体をそちらに向ける。
出てくるのはジョシュアだろう。
全てを見届け、終わったのだとオリトに告げるのだろう。
そう覚悟を決めてたたずむオリトの目に入ったのは――両腕に小さなレネーを抱いたランドルの姿だった。
「ランドル!」
木箱から飛び降り、オリトは彼の元へと駈け寄る。
なぜだ。
いや、生きていて嬉しい。
でも、レネーと共に逝くのではなかったのか。
なぜ、レネーを抱えているのか。
とめどなく浮かび上がる疑問は口にできず、黙ってランドルを見上げ、そして彼の腕の中のレネーへと目を落とした。
寝ているだけ。そう思ってしまいそうなほどに、安らかな顔をしている。
「レネーは、紙の神の信徒になった」
「え?」
穏やかな声に導かれて、オリトは顔を上げる。
ランドルは見たこともないほどに落ち着いた表情を浮かべ、口元には微かな笑みすら浮かべてもう一度告げた。
「レネーは、紙の神の信徒になったんだ」
そう言って、ランドルはゆっくりと地面に片膝をつく。
そしてそっとレネーの顔を撫でた。
その指先が彼女の柔らかな髪を梳いた時、オリトにはやっと意味が分かった。
「髪が……」
「オリトと一緒が良かったんだろうな」
レネーの髪の一部が、オリトと同じ紙の神の信徒を表す白に変わっている。
レネーはまだ十歳になっていない。選神の儀すら受けていない。
それなのに信徒の証を受けるなんて。
「紙の神に、感謝を。オリトにも。ありがとう、オリト」
オリトを見るランドルの目には、感謝と敬意が見えた。
オリトはそれを素直には受け取れずに、ふるふると駄々っ子のように顔を振る。
その拍子に、オリトの髪や服についた白い雪の紙片がレネーにぱらぱらと降り注ぐ。
「全部、紙の、神様のおかげだから」
「いや、レネーにこの景色をくれたのはオリトだ。紙の神も、オリトがレネーのために紙を使ったからこそ、レネーを受け入れたんだろう」
ランドルはオリト越しに白く染まった地面を眩しそうに見つめる。その周囲にたたずむ職人たちの姿も。
これだけの人を動かし、心を動かし、神をも動かした。
その少年に感謝言葉以外、何を捧げればいいのだろう。
「ありがとう」
心を込めて告げる。
その瞬間、無表情を崩さなかったオリトの顔がぐにゃりとゆがんだ。
ぽろりと一つ雫が丸みを帯びた少年の頬を伝う。
雫が顎の先から地面にこぼれた直後、次から次へと両目から涙があふれだした。
「う、ぅぁ」
涙の次には声が。
「うううう、わあああああああ!」
まさに子供の泣き方。
大声を上げ、顔を真っ赤にして涙を流す。
まさかオリトがこんな風に泣くとは思わず、ランドルは反射的にレネーの体を支える手とは反対の腕を伸ばした。
そして真っ黒な毛におおわれた腕も、伸びた鋭い爪も気にせず、オリトは両腕を広げてランドルの首に飛びつく。
「うわあああ! ふぅぅ、うあ、ああああ」
耳元で響く高い声にランドルは苦笑を漏らす。
軽いレネーの体と、温かいオリトの体を両腕に抱き、ランドルは静かに降り注ぐ涙の雫を受け止め続けていた。




