第50話 約束
オリトが作ったわずかな間を逃さず、ジョシュアは素早く立ち上がり、両手で剣を構えて油断なくランドルと対峙する。
(ランドル、お願い。正気に戻って)
顔を押さえるランドルの喉奥から、低いケモノのような唸りが聞こえる。
駄目か――そう思った時、ランドルの灰色の右目がジョシュアを捉えた。
ぴくりと大きく体を揺らしたジョシュアを見て、ランドルは一度、二度と頭を振る。
長い指が、クシャリと前髪を握りしめた。
「は、はは……」
「ラン……ドル?」
ためらいがちに呼びかけるオリトの声に、ランドルの目が一瞬オリトを映す。
だがすぐに視線は外された。
「は、ついに、バケモノになったか……」
俯き、呟いたランドルの声が、震えている。
ジョシュアは剣を手にしたまま近づき、ランドルの顔を覗き込んだ。
「おい、ランドル。正気に戻ったか?」
至近距離でじっと灰色の瞳を確かめ、ジョシュアは己を納得させるかのように深く頷く。
その動作にためらいが全く見えず、離れているオリトの方がヒヤヒヤする。
「ああ……ジョシュア、悪かった」
「おう。久々に実践訓練できて良かったぜ」
「殺されかけてよく言う」
ランドルは首を振り、ハッと自嘲気味に笑う。
二人が普段通りの会話を初めたのを見て、オリトは肩の力を抜く。
途端、全身からも力が抜け、ガクンッと地面に膝をついた。
(良かった。ああ、良かったぁ)
心臓が激しく踊る。
開けたままの口から出る自分の呼吸が煩い。
手裏剣を投げた指先がじんわりと熱い。
血管が熱を持っているようだ。
「オリト、ありがとな」
「え? うん。止められて良かった」
「ああ……」
「神様が、手伝ってくれたんだ」
まだどこか沈んだままのランドルを励ますように、オリトは続ける。
「え?」
「紙の神様、火の神様、それと、風の神様に、力を貸してってお願いした」
一気に緊張が抜けたからか。オリトは普段よりも力の抜けた口調で弾むように言う。
「そうしたら、ただの折り紙なのに、すっごい勢いで飛んで。まさか爆発するとは思わなかった」
地べたにお尻を落として、走り回ったせいで頬を赤くして、オリトは目を輝かせる。
神様はランドルを見捨ててなかったんだと、教えたかった。
それなのに、ランドルの顔は大きく歪んだ。
苦いものを飲み込むように。飲みきれなかった苦みに耐えるように。
オリトはその表情の意味を量りかねて、目を瞬く。
次の瞬間、ランドルは剣を握ったままのジョシュアの右手を両手で掴み、自分の首元に押し当てた。
「おい!」
咄嗟に左手でランドルの手首をつかむジョシュア。
刃が薄皮一枚とて傷つけてはいないことに安堵すると同時、怒りが湧く。
なんの真似だとランドルを睨みつけた。
「あんた、何をして」
「今ここで、俺を殺せ」
「は?」
耳に飛び込んできた言葉に、体温が下がる。
全身の血が引いた。
声を発せないオリトとは対照的に、ジョシュアが吠える。
「ざけんなよ、おい! その手を放せ!」
だがジョシュアの持つ剣はランドルの喉元から、紙一枚ほどの距離のまま動かない。
二人の男の力を受け、剣がチリチリと場に不似合いな涼やかな音を立てる。
「殺せ。俺がバケモンになっちまう前に」
「ならねえよ! ならなかっただろ!」
「あんなにも簡単に理性を失う。俺は、もう、いつバケモンになってもおかしくない」
「違っげえよ! ちゃんと言葉、喋ってんだろ! バケモンじゃねえ!」
「今は、な」
鼻で笑い、ランドルは口角を歪める。
伸びた爪が、ジョシュアの腕に食い込む。
それに気づかぬまま、ランドルは灰色と透明な瞳でジョシュアを睨んだ。
「殺せよ。お前だって、死にたくねえだろ。先に俺を殺せ」
冷静な、覚悟を決めた男の、全ての感情をそぎ落とした平坦な声。
あまりの圧に、ジョシュアは息を飲み、奥歯を噛みしめる。その直後、彼は大きく頭をのけぞらせた。
「ばっ、かやろうが!」
「ぐっ」
「づぅっ!」
振り子のように振り落とされたジョシュアの額が、ランドルの頭にぶち当たる。
バギッという頭蓋骨が立ててはいけない音がオリトのところまで届き、オリトはまるで自分の痛みのように顔を顰めて首をすくめた。
「最後まであがけよ、クソ野郎! お前がここで踏ん張んねえで、誰がレネーを看取るんだ!」
「……っつぅ、くそ。石頭が」
「ああん!?」
衝突の直後、緩んだランドルの手から自分の手と剣を奪い返し、ジョシュアはチンピラのように唸る。
脳を揺らす衝撃を払うようにランドルはゆっくりと首を左右に振り、長く、長く息を吐き出した。
「オリトがいれば、悪いようにはしないだろ」
「ガキに重すぎる責任押し付けてんじゃねえ!」
正論だが、自分の上司にもあたるオリトをそんな風に呼んでよいのか。
オリトはハラハラしながら二人の様子を見守る。
今すぐにでもランドルが命を絶つ、ということはなさそうな雰囲気ではある。
でもこの会話がどこに行きつくのか見当もつかず、じっとランドルの次の言葉を待った。
「だったら、お前が責任を持て」
「は? レネーのか?」
「違う。俺のだ」
「……どういう意味だ」
額に拳を当て、強く目を瞑ってからランドルが顔を上げる。
死の覚悟とは違う、探るような視線がジョシュア向けられた。
「毒が間に合わなかった時、お前が、俺を殺せ」
元々、ランドルは自分がカミオチをする前に、服毒するつもりだった。
だが今回のことで悟った。
一気にカミオチしてしまい、毒を飲めなくなってしまうかもしれない。
ランドルはレネーの死を目の前にして、自分の精神を信じられなくなっていた。
「もしかしたら、今の俺に毒が効きにくいかも」
「任せろ」
ランドルの言葉にかぶせてジョシュアは即諾する。
シャンッと音を立てて剣を鞘に納め、左で柄を握って挑発するように顎をしゃくった。
「俺が、最後、ビシッと終わらせてやる」
「そうか」
自分を殺す相手に対し、ランドルは安堵するように肩の力を抜く。
そしてもう一度、「そうか」と小さく呟いた。
「ま、俺はなんなくあんたは最後まであんたのままな気がするけどな」
「……楽観的すぎだろ」
呆れるような声に、ジョシュアはへッと皮肉気に笑う。
それから「うおおお、体、がたがただわ。今日はもう帰りましょうよ、オリト様」とオリトに向かって告げる。
オリトははっと体を揺らし、ヨタヨタと立ち上がった。足の力がまだしっかりと入らず、よろめきながら前に進む。
「なんで俺よりかボロボロなんすか」
「ちょっと、びっくり、しすぎて。腰の力が」
「おっさん臭いなぁ」
「うるさいよ」
通常運転に戻ったジョシュアを見上げる。
背の低いオリトから、ジョシュアの首や目元にできた傷が見える。
あともう少し深く入っていたら、首は引き裂かれ、目は抉り取られていた。
そんなギリギリの戦いだった。
「なんすか?」
「うん。父上には褒美を出すように言っておくから」
それしかできなくてごめんという謝罪も込める。
ジョシュアはしっかりとそれを受け止めて、ニンマリと悪い笑みを浮かべる。
「嬉しいっすね。誰かさんのせいで剣がボロボロになったから、新しい剣が欲しいなぁ」
「……すまん」
「あと数回しのげてかどうかって感じだし。まったく馬鹿力野郎」
「すまん」
「木の上から体重乗っけて降ってくるって。腕が折れるかと思ったし」
「すまん」
「騎士のカミオチってのはマジに厄介」
「すまん」
歩きながらジョシュアの口から流れ出る文句に、ランドルがしおしおと謝罪を繰り返す。
命を懸けて戦い、そして命を預ける約束をした。
そんな大人二人の会話を、オリトは理解できないまま黙って聞いていた。




