第36話 おつかい
「諦めなさい」
冷たい答えが返ってくる。
父親の厳しい視線に、オリトは膝の上に置いた両手を握りしめる。
なんとなく予想できていた。
「カミオチになる危険性があるなら、領地の兵士で対応する」
「僕には、まだ神様が一緒にいるのが見えたんです。だから、あの人はまだカミオチになっていないんです」
「カミオチになって人に危害を加えてからでは遅いのだ」
低く、不自然なほどに感情のない声で告げるリュウスト。
それが防御手段も攻撃手段も持たない末っ子のためだということは、本人も理解している。
それでも、心の奥底で納得できないと駄々をこねる自分がいる。
「原因を、調べるか?」
兄ジルストの提案に、オリトはすねたように首を振る。
調べてあの男の人の抱える問題を知ったとて、オリトにできることはない。
子供である自分が恨めしい。
そして大人である父親や兄でさえも、できることは限られているのだ。
しょぼんっと肩を小さくして俯く末っ子を見て、父親と兄がちらちらと気まずそうにお互いを見る。
数秒後、何かの戦いに負けた父親はこほんと小さく咳をして口を開いた。
「あー、ジルスト。そういえば、あのパンはどうだった?」
「はい。とても美味しかったですね」
「さすがパンの神の信徒の作るパンだ。また食べたいと思わんか?」
「ええ、できれば。毎週でも食べたいほどでした」
突然父がジルストにパンの話題を振る。
確かに、あのパンは豆がぎゅっと入っていて美味しかった。
ベリーも生のベリーと乾燥させたベリー、ジャムが混ぜられていて格別だった。母マイヤと姉フレーシャが朝から最高の笑顔でオリトを褒めてくれた。
オリト自身が選んで買ってきたということを抜きにしても、今まで食べたパンの中で群を抜く品質のパンだった。今度は別のパンも食べてみたいとは思う。
「なあ、ジルスト、お前、また買いに行かんか?」
「さすがに私は忙しいので、町までパンを買いに行くだけに通うには……」
チラリ、チラリ、と二人から視線が飛んでくる。
オリトが首を傾げると、さらりと伸びた髪が揺れる。
唐突にパンのことを話し出したかと思えば、やたらと意味深な視線。
父リュウストはパンを食べたい。だからジルストにパンを買いに行けと言っている。
でもジルストは忙しい。だからパンは買いに行けない?
「えっと、僕、行きますか?」
「おお、そうか! オリトがパンを買いに行くか!」
「使用人のみんなは忙しいでしょうから」
「そうだな。だが最近は町も物騒だ。町に行く時には御者だけじゃなく護衛の兵士もつけよう」
「父上、でしたら私が人選をしておきます。事前にオリトと顔合わせをしても良いでしょう」
「うむ、確かに。相性もある。ジルスト、頼んだぞ」
「はい」
オリトが町に行くと言ったらあっという間に話が進んだ。
なんだんだと思い、オリトは会話を反芻する。
そしてハッと顔を上げた。
今回、あの男性と会ったのはパン屋の前だった。もし、彼が食べ物を欲しているのならパン屋に通っている間にまた会うかもしれない。
あるいは、オリト自身で町を回って彼を探すことも可能かもしれない。
そのために、父親はオリトに護衛をつけてくれたのだ。
「なるほど」
一つ頷き、オリトは顔をあげる。
「父上と兄上が好きそうなとっておきのパンを選んできます!」
無表情なのに両目をきらきらと輝かせてオリトが宣言する。
リュウストは仏頂面のままで一つ頷き、ジルストは柔らかい笑顔をオリトに向けたのだった。
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パタパタ、ピョコピョコ、ヨタヨタと折り紙たちが揺れる。
赤い鶴と、白いカエルと、緑のカメだ。
書の神に最初にいただいた緑色の紙は、精巧なカエルを作るのに使った。
その後、もしかして書の神が来るのではないかと思って待っていたら、数ヶ月してオリトの元に現れるようになった。
しかしやはり火の神ほど力を持っていないらしく、簡単な作りの折り紙のほうが動きやすいようで、今は平たいカメが一生懸命四つ足をばたつかせている。
緑なのでカエルでも良いと思った。
しかし無視できない圧を紙の神から感じ、書の神の加護つきの紙ではカメを作るようにしている。
紙の神様はカエルの姿を他の神に譲りたくないらしい。
(ねぇ、神様、どー思います? やっぱりカミオチになったらもうどうにもならないんでしょうか。でも、風の神様は諦めてない気がするんですよねー)
白い紙を前に、オリトは神様たちに愚痴る。
あの後、簡単な報告であのカミオチしかけている男性は風の神様の信徒だったと教えてもらった。
パタパタと翼を揺らす火の神。
紙の神と比べると、火の神がオリトの元を訪れる頻度は低い。
信徒も多いし、元々人の前には現れない神だからだろう。
(風の神様、会いに行ってみたらいいのかな。でも会いに行ったからといって何が分かるってわけでもないし。僕は会ってどうしたいんだろう。カミオチから救うだなんて大それたことを僕ができるわけないってのは分かってる。でも少しでもあの人が人間でいる間に、できることをしたい。神様だって、カミオチになって欲しくないよね?)
白く四角い紙を手に取り、まず三角形に折る。そしてもう一度、三角に。
脳裏に浮かぶのは、逃げていく男の後ろを追うように揺らめいていた水色の影。
ピョコッとオリトの手元を覗き込むカエルに、オリトは「サンマ、知ってる?」と呟く。
ピョッコピョッコ、ヨタヨタと顔を突き合わせる二体の神たち。知っているのか知らないのかは判断がつかない。
この世界ではもしかしたら違う名前なのかもしれないし、いないのかもしれない。
(サンマ、美味しいよなぁ。この領からは海が遠いのがちょっと残念。でも美味しい魚はなくても食べ物は十分に美味しいし。たまに川魚が食卓に出るけど美味しかったな)
途中から紙飛行機を折るように、サンマの前後の形を作っていく。
それにしても折り紙で折れる魚は数々あるのに、サンマ。自分のチョイスに呆れる。
でもなんとなく、あの光景を思い出すたびにサンマが浮かぶ。長い流線型の青い影のせいだろうか。
小さな三角を折っていくつも作り、サンマの顔の部分や尻尾の部分を作るためのガイドラインを引く。
美しい形を作るためには、こうやって細かく、正確な折り目を付けておくのが肝要だ。
(そう、なんでもない折り目が、いつか役に立つ。折れた心も、いつかそれが美しい姿になるための布石に……)
ふと紙を折る手が止まる。
今浮かんだ考えが、オリトの心の中で温かな火を灯した。
「折れても、無駄じゃない。折れたからこそ……それが人生の導きとなってくれる」
人も同じであってほしい。
身勝手な希望だろうか。
古い記憶を持っているとしても、オリトはただの十歳の子供。
そんな子供が抱く、妄想にも近い願い。
唇を引き結び、オリトは一つ一つの折り目を心を込めて折っていく。
パタパタ、ピョコピョコ、ヨタヨタと折り紙たちが揺れる。熱心なオリトを見て、顔を突き合わせる。
フワフワ、ピョッコン、ポテ……神々の会議に気づくことなく、オリトは一尾の見事なサンマを折り上げたのだった。




