第35話 パン屋にて
(貴族は貴族で気苦労が多いよなぁ)
過去の自分の記憶の影響か、それともまだ子供だからか、オリトには貴族としての自覚は薄い。
十二歳になれば二年間貴族が通う学校に行くので、そこで貴族の子女と関わってみて貴族らしさを覚えていくのだろう。
どっちみち子爵家の次男は独り立ちするんだから、変な貴族の矜持にすがることはしたくない。
(豆、ベーコン、ベリー、ジャム、芋……へぇ、意外に種類も多い。デニッシュもいいけど、朝食にはハード系のほうが好みかな)
ゆっくりと店内を回り、パンの種類を確かめていく。
パンに練りこまれた食材の書かれた札を見て、オリトは御者に声をかける。
「明日の朝食分に二斤包んでもらおう」
「種類はどうされます?」
「こっちの豆が入っているのは父上と兄上が好きそうだ。ベリーは母上と姉上が好むだろう」
「オリト様のお好みは良いので?」
「僕は買った者の権利を主張して両方もらう」
「賢いですな」
御者が店員を呼び、オリトが選んだパンを包んでもらう。
そこまで来て、オリトはお金を持っていなかったことに気付く。
だが焦りが顔に出るわけでもなく、じっと御者を見つめていると彼は懐から小さな財布を出してスムーズに会計を終えた。
「お金、持ってたんだ」
「はい。ジルスト様より預かっております。オリト様が買いたいものがあれば使うようにと」
「さすが兄上」
今日オリトが町を歩くことになったのは突然決まったと思っていた。でも財布を用意して御者に渡したということは、前々から準備していたのだろう。
自由に散策が楽しめるようにという兄の気遣いに、オリトの心はスキップを始める。
もちろん心の中だけで、顔には表れていないのがオリトの残念なところである。
「一個、持とうか?」
両腕にパンを抱えて店のドアを押し開ける御者に、オリトは両手を伸ばす。
だが御者はニカリと笑って黒い顔を左右に振った。
「さすがにそれはやめときますよ」
「そっか」
いくら気軽に話せても使用人の仕事の範疇だ。
オリトは両手を下ろし、せめて御者の助けになるようにとドアを支える。
「さて、どうします? もう少し見て回りますか?」
「荷物があるから馬車に戻ろう。今日はもう満足だ」
「分かりました」
子供の歩幅でゆっくりと通りの店を見ながら歩いてきた。
時間はたっぷり使ったはずだと診療所に戻る道へと体を向ける。
その直後、突風が吹き、黒い影がオリトの視界を覆った。
驚きに体が一歩下がる。
「うっわ!」
ドサッという落下音。
振りむいた先に、地面に倒れこむ御者。
なぜかその隣に見たことのない風貌の男も倒れている。
(え?)
一体何が――と思うよりも先に、御者のそばに立つ人影に気付く。
そして御者へと伸ばされる手。
「やめろ!」
咄嗟に体が動いた。
両手を伸ばし、御者を守るように人影に飛びつく。
だが十歳の軽い体はいともたやすく振り払われた。
一瞬の浮遊感のあと、体が勢いよく地面に落ちる。
肩に走る鋭い痛みに、オリトは息を詰まらせた。
痛みで一瞬瞑っていた目を開くと、見上げた先に一人の男が立っていた。
ぼさぼさに伸びた黒い髪、こちらを見下ろす目の片方は濃いグレー、片方は空っぽな透明。
そしてその手には、さっきまで御者が持っていたパンの包みが抱えられている。
(パンを、奪った?)
命でも金でもなく、奪ったものがパンだということに、オリトは呆然とする。
しかしその思考も、すぐに断ち切られた。
「カミオチだ!」
通りに響いた大声に体が揺れる。
カミオチ。
(え、この人が?)
呆然と地面に尻をついたまま、オリトは男を見上げる。
黒く乱れた髪や腕を覆う黒い体毛。
それは明らかにカミオチの証拠だ。
男の口が動き、一言何かを呟く。
獣のように鋭く尖った男の指先が、パンの袋にグシャリと突き刺さる。
ピクリと体を震わせるオリトと、男の透明な瞳がぶつかる。
でも顔はまだちゃんと人間。
透明なカミオチの瞳。
でも片方だけ。
もう一方はまだ人間の瞳。
そしてオリトの耳に届いた呟き。
(悪いって謝った。ってことは、まだ理性があるんだ)
以前に見たカミオチは完全にケモノの姿だった。
人間としての理性はなく、口から漏れ出る声も唸り声だけだった。
カミオチに見えるけれど、完全にカミオチしていない。
地面に無様に尻をついたままオリトの思考は高速で走る。
「オリト様、逃げてください!」
御者の叫びが鼓膜を打つ。
反射的にオリトは地面を強く押した。
全身がばねの様に飛び出す。
地面を蹴り、オリトは逃げるのではなく、男の前に体を押し込む。
だがオリトが手を伸ばす前に、男は素早く体を翻した。
「あ! 待て!」
咄嗟に叫ぶも、そんな制止の声など相手が聞くはずもなく。
通りを歩く人々の間に悲鳴が上がる。
だがそれもすぐに止み、男の姿は瞬く間に通りの向こうに消え去ってしまった。
水色の残像だけ残して。
(神様だ。まだ、神様が一緒にいる)
男が纏う水色がオリトには見えた。
カミオチして真っ黒に塗りつぶされて消えるのに抗うように、水色をした神の祝福が男にはまだあった。
(いったい何の神様だろう。あの人自身は、気づいているのだろうか)
カミオチしかけている状態でも理性があるのは、神の加護が残っているからだろうか。
「……オリト様。オリト様?」
通りを見つめて黙り込むオリトの名を、立ち上がった御者が呼ぶ。
オリトははっと顔を上げて御者の頭からつま先まで無事を確かめる。若干土埃がついているが目立つ怪我はないようだ。
そういえば、もう一人転んでいた人がいたけれどもういないようだ。カミオチが出て、恐怖で逃げて行ったのかもしれない。
それにしても、通りにいた人たちが逃げようとしてパニックが起こらなくて良かったとオリトは安堵する。
「怪我、なかった?」
「はい、びっくりしただけで。でもパンを奪われてしまいました」
「それは大丈夫だよ。また買えばいいから」
幸い、ここはまだパン屋の目の前。すぐに新しいのを買える。
ショーウィンドウの向こうから不安げにこちらを見る店員と目が合い、オリトは店のドアを押し開けた。
「すまないが、もう一度パンを買いたい」
「は、はい。あの、大丈夫でした?」
「ああ。パンを奪われただけだ。ここのパンは人気のようだね」
無表情鉄仮面のままのオリトの軽口に、店員はをどう受け取ったらいいのか迷って硬い笑いを返す。
(失敗した)
どうやら今の状況にはそぐわない冗談だったようだ。
ため息を飲み込み、オリトは先ほどと同じパンを包んでもらうように頼む。
店員がすぐにパンを紙袋に入れ始めるのを眺めながら、オリトはふと気になってことを店員に尋ねた。
「あの人、見たことあります?」
「……カミオチ、ですか?」
「カミオチというのは正しくないかな。なりかけ? 人を襲うような危険性は見られないみたいだけど」
今実際にパンを奪われたばかりだというのにいったい何を言い出すんだ、という御者の視線を無視し、オリトはまっすぐに店員を見る。
直感ではあるが、この店員は何かを知ってそうな気がするのだ。
「……噂ですが、王都で兵士をされていた方だと」
「なるほど。有益な情報をありがとう」
「いえ」
御者が金を払い、パンを受け取る。
手のふさがった彼のためにドアを開けてあげながら、オリトはあの男が消えていった通りを見つめる。
「オリト様、変なことは考えないほうがいいですよ」
「変な事なんて考えてないよ。ま、父上と兄上には相談するけど」
「そうしてください」
肩をすくめる彼に並んで歩く。
頭の中を占めるのは先ほどの出来事。
白昼堂々、なぜあの男はパンを奪うなどということをしたのか。
それはすぐに答えが出る。
カミオチしかけたあの風貌では、どこへ行っても追い払われるだろう。
カミオチだからと命を狙われることもあったのかもしれない。
だから人から奪う。
負のサイクルだ。
でも彼が完全にカミオチになる前に何とかできないのか。まだ彼の神が見捨てていない今ならば、どうにかなるかもしれない。
静かな決意を胸に、オリトはまっすぐに前を向いた。




