第26話 神殿
神殿の前に馬車が止まる。
鞄を肩にかけたオリトは振り返り、これから伯爵家に挨拶に行くという両親に向かって頭を下げた。
「では、行ってきます」
「ああ、私たちも挨拶が終わったら火の神様に挨拶に来るから、それまで待つように」
「はい」
走り去る馬車を見送り、オリトは回れ右をしてまずは本殿に向かう。
加護を受ける信徒が多いため、ひっきりなしに神々の像のある本殿には人が出入りしている。
しかし神殿と言う場所の特性上、人の気配が満ちているのに騒がしさは全くない。
静寂の中に神の気配を探すように、みな像の前に並び、心の中だけで熱心に声を上げていた。
そしてその祈りにオリトも加わる。
(火の神様、いつも僕の家族に加護を与えてくださりありがとうございます。僕は火の神様の信徒になれなかったけど、そのおかげで僕は家族の温かさを知ることができました)
火の神様の信徒にならなければいけない。
そうでなければ家族に捨てられてしまう。
そう思っていたオリトはもういない。
紙の神の加護を受けたオリトを受け入れ、さらに信徒になったことを喜んでくれた。
(火の神様って温かいのかな。人を温かくする神様なのかな。僕は僕で家族を温かくできるように、紙の神様の信徒として頑張ります。あ、もし許してもらえるなら、家にある火の神様の祭壇に紙で作ったお花とか置いていいですか? 父上が、紙の神様の祭壇も作ろうって言ってくださってるんですけど、さすがに僕のためだけに、長く火の神様を信奉してきた一族の礼拝所を改装するのは申し訳なくって)
週に数回、家族の誰かは礼拝堂の火の神様にお祈りに行く。
選神の儀の前には、オリトも姉のフレーシャと一緒に火の神に祈りを捧げていた。
でも選神の後は、火の神の信徒でもないのに礼拝堂で祈っても良いのか、と不安だったのだ。
自分の部屋で折り紙を折って、紙の神様の訪れを待つのも問題はないと思う。
でもこんな風に神殿という厳かな祈りの場で祈る静かな時間を、オリトは気に入っているのだ。
だからもし火の神に許されるのであれば、引き続き屋敷の礼拝堂を使いたいとオリトは願う。
数秒待って、オリトはゆっくりと目を開けて火の神の像を見上げる。
そこからは何の反応もなく、微かな胸の痛みを押し込めてオリトはふっと息を吐く。
(やっぱり、火の神の信徒でもないのに何か返事がもらえるって期待しちゃだめだよな)
礼拝所に関しては父親に相談しよう。そう決めてオリトが像の前から身を引こうとした、その時――
パチリ、と温かい空気を感じた。
静電気のような小さな火。
でも痛みはない。
一瞬燃え上がって消える儚い火なのに、強い印象を残す。
それはまるで線香花火のように輝いた。
「……ありがとうございます」
礼を告げたオリトの口元が、紛れもない笑みの形に広がる。
そしてそれは次の瞬間、まっさらな白い紙のように跡形もなく消え去った。
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静かながらもにぎわっていた本殿を抜け、オリトは木漏れ日が指す小道を抜けて旧神殿にたどり着く。
案内人に声をかけ、木桶と布巾を借りる。
これは前回来た時に心にメモをしたことを実行するためだ。
(えーっと、あ、こっちだ)
石壁に沿ってずらりと並ぶ小さな神々の像。
本殿の威厳を放つ見上げるほど大きな神々の像とは、また違う趣がある。
歩くたび、足元の石がほんのわずかに声を立て、桶に汲んだ水が涼やかな音を奏でる。
似た作りの像が立ち並ぶ中から、まず一番最初に見つけたのはオリトが仕える神、紙の神の像だ。
小さな札できちんと確認をして、オリトは木桶を地面に置く。そして乾いた布巾を手にして像に近づいた。
(紙の神様、お久しぶりです。とはいってもほぼ毎日僕のところにいらしてくれてますけど、僕からここに来るのは久々ですね。あ、さっき火の神様にご挨拶しました。たぶん、これからは家の礼拝堂からもお祈りさせてもらうと思います)
そっと像の表面を拭くと、積もった砂埃がぱらぱらと落ちる。
隣り合った像にかかってしまわないよう気を付けつつ、オリトは紙の神の像を綺麗にしていく。
(僕、これからも色々な神様と関わっていきたいです。この世界には神様が近くて、皆神様の存在を信じている。それを僕はもっと感じたいんです)
乾いた布である程度埃を取った後、次は布巾を濡らして像の表面を磨いていく。
何の石でできているのか、オリトには分からないけれど白っぽい石像は水だけでもずいぶんと綺麗に輝く。
(もしかしたら石の神様の加護を受けた人が像を作るのかな。それじゃ石の神様にもお礼しないと。――紙の神様、すっきり綺麗になりましたよ)
まるで介護でもしているような気分になる。
蘇るのはオリトになる前、過去の自分の記憶。
療養施設に入った母親の入浴を手伝ったことはなかったが、食事補助などはしていた。
その時に触れた乾いた肌を思い出す。
意外にも、オリトの胸の奥は平穏だ。
それはオリトと過去の記憶の人物とは違う人間だからかもしれない。
それとも――
(僕の家族はここにいる。できなかったこと、後悔していることは、今の家族とすればいい)
布巾を桶の中に落とし、軽く手をすすいでポケットから取り出したハンカチで手を拭く。
続いて肩掛け鞄から折り紙の作品を取り出す。
(紙の神様、前に来た時にはお花がなかったので、今度は僕が花束を作ってきました。きっと神様も見てくれていたと思うのでバレてますよね。これはバラ、ユリ、マーガレットです。芯の部分もちゃんと紙です。ちょっとずるをして色を塗ってみました。白い紙だけもいいですけど、色が付くとまた綺麗ですよね)
像の前に置いて角度を丁寧に直す。
紙でできた花たちが揺れて、カサリとした微かな音を立てる。
立ち上がって一歩離れる。
白い像の前に、絵の具で塗った黄色と赤が映える。
絵の具の水分を吸って表面が波打った紙は、生花の花びらのように見えなくもない。
ぼうっと風に揺れる花束を見ていると、空気が変わった。風が止んだわけでも、音が消えたわけでもないのに。
温かな中にも澄んだ静謐さが空気に混ざる。
「……神様」
ぽつりと呟く。
オリトの声が消える前に、紙の花束は柔らかな光を纏って溶けて消えていった。




