ヱピローグ チョコレイトはお好き?
「……私に、ですか?」
綾夏は、俺が百貨店で買ってきたチョコレイトの箱を手に、不思議そうな顔をしていた。
「ああ、同僚や広子ちゃんに教えて貰ってな。二月十四日ってのは、異性にチョコレイトを渡して感謝を伝える日なんだと。営業先の百貨店にもポスターがあったんでな。普段の礼だ」
「……ああ、バレンタインデーですね。そう言えば、昼食時に渡してる人も結構いましたよ」
俺は、カップに口をつける。焙煎された珈琲豆の香ばしい香りが鼻腔に広がる。
「この辺の時期は、年末年始の反動で嗜好品の売り上げが落ちるからなぁ……広告店も新しいイベント作るのに必死なんだろ」
「その視点は、風情がないですねぇ……」
「営業職なもんで」
俺は気の抜けた笑いを漏らしながら、コーヒーの湯気越しに綾夏の顔を眺める。
……しかし、なんだ。嬉しそうとも嫌そうとも見えない。「腑に落ちない」って顔してるな。
「でも、朱弘さん」
「……ん?」
「バレンタインって……女性が、男性にチョコを送るイベントですよ?」
「えっ……?そうなの?」
「ええ、愛を伝える日っていう事で、好きな男子に思いを伝えたい女子とか、恋人同士の女性の側が男性に送る、みたいな……」
うわっ……やっちまった……。そりゃ、綾夏も怪訝な顔するわ。
生兵法で若者のイベントに首突っ込んで、恥かくことになっちまったか。……下水道があったら潜りたいぜ。
「ああー……、じゃあ、やっぱり無しにしていい?回収回収」
「ちょっとぉ……、人に物あげたんだから、最後まで責任取りましょうよ」
「うわぁ……恥ずかしいな、くそっ。……もう、持って行っていいから、早めに忘れてくれな……」
「ふふ、どうしようかな……?」
「……底意地の悪い女だぜ」
俺は、苦笑いを浮かべながら、チョコを持っていく綾夏を眺める。恥はかいちまったが……まあ、受け取って嫌な気分はされてねぇらしい。それならまあ、悪くもないか。
俺はカップを皿に置き、手帳を取り出す。珈琲で英気を養ったら、今日もせっせと外回りだ。年明け早々、滅多に取らない休みを取った手前、気まずい思いはあるけど、先月の成績は悪くない。既に手応えのある取引先もあるし、この調子なら余裕を持ってノルマを達成できるはずだ。
カラーテレビも他の店で導入事例ができたし、正月から始まった国産アニメーションの放映も、今後カラー化される可能性を考えると、需要はさらに高まっていきそうだ。……改めてだが、漫画の絵が動くの、すげぇよな。
……よし、あとで鉾田さんにもう一度提案してみるかな。若者向けにテレビ番組のバリエーションも増えてるし、きっと綾夏や広子ちゃんの喜ぶ顔が見られますよ、……みたいな、情に訴えるセコい絡め手も交えていこう。
商売人は何より「お客様の笑顔が一番」だ。……これも営業の手管ってことで。
* * *
「ねぇ、鉾田店長……」
カウンター席で、私と同年代の女性が、声をかけてきた。ふむ、噂好きの川越さんか。
「どうしました?面白い噂話でもありましたか?」
川越さんは向こうのテーブルに視線を送る。テーブルから離れていく綾夏ちゃんを、明松くんはじっと見つめていた。
「あそこに座ってるスーツの彼。鳴嶋さんの一件で、広子ちゃんを助けてあげた子よねぇ?」
「ええ、最近は割と仕事の隙間でやって来るようで、すっかり常連さんですよ」
川越さんはにやりと笑い、私にそっと耳打ちした。
「ふふ……あの子、綾ちゃんに、惚れてるわよ」
「ふぅむ……いや、でも、当人たちは否定してるんですよ。まだ、確信するところでは無いんですよね」
「鈍いわねぇ……、よく見てごらんなさいよ?」
「……むっ?」
そこで私は気付いた。なるほどなぁ……。
「ほら。彼、耳に出やすいのよ」
明松くんの耳の先は赤くなっていた。顔に出ない子だと思っていたけど、なるほど、ここに出る体質なんだな。
「いやぁ……、しかし、彼の方からでしたか。私は、綾夏ちゃんの方が先かと思ってたんですがねぇ」
「ふふ、朴念仁を気取って壁を作る男の方が、その本質は寂しがり屋なものよ。きっと綾ちゃんの包容力にやられたんでしょうねぇ」
「なるほど……。確かに彼からは、そういうところ感じますね」
……ある種の「危うさ」とでもいうのだろうか。明松くんは責任感も強く、善意で動く強い意志を持った男だ。しかし、その反面で言動の節々から、孤独な雰囲気をのぞかせる一面もある。
……無理もない。精鬼である私たちと関わることで、彼は元の居場所に戻ることは出来なくなった。我々としては感謝に尽きないが、情と立場の板挟みという、気の毒な立場を押し付けてしまったという、罪悪感もある。
そんな彼が、唯一安心して軽口を叩く相手が綾夏ちゃんだ。彼が唯一「甘え」を許せる存在と言うべきか。彼にとって安心できる「居場所」は、綾夏ちゃんの隣に他ならない。それを「恋心」と定義するかは、彼の心持ち次第ではあったのだろうが、きっと心境の変化があったのだろう。
「……ただ、綾ちゃんの方も、満更でもないと思うわよ」
川越さんは視線を綾夏ちゃんに移した。彼女は百貨店の包み紙で包装された箱を持って上機嫌だ。こちらは、顔から恥じらいなどは見えないが、それでも、明松くんからの贈り物に喜び、るんるんと満面の笑みを浮かべている。
「綾ちゃんはきっと、恋愛経験が少ないから、恋心がどんなものか自覚してないのよね。仲の良い友達ぐらいの感覚なんでしょ。けど……そうやって仲良くしてる内に自然と外堀が埋まっていくのよ」
「ふむ、確かに……。彼ら、まだ恋仲ではないようですが、お互いの信頼関係はかなり固まってるみたいですね」
「じゃあ、あとは時間の問題ね。遠くない内に、きっとドミノ倒しが始まるわ」
「なるほど、それは楽しみですな」
私と川越さんは、顔を見合わせてにやりと笑う。
……辛い境遇にあったあの子にも、ようやく春が来るかもしれない、か。感無量だ。相手が明松くんなら、私も文句はない。
これから、互いを大切に想う若い二人の関係がどう着地するか。私からできる力添えなど多くはないが、それでも孤独な二人が笑い合い、あわよくば、末永く寄り添い、愛し合う関係を築いてくれるのなら、私も安心だ。百月殿や鹿嶋への面目も立つことだろう。
「いやはや流石の慧眼です。面白い話を聞けました。お礼にクッキーをお持ちしますね、マダム」
「ふふ、ありがと。また面白い話があったら、教えてあげるからね」
彼女へのお礼を出すために、私はそそくさとカウンターの中へと戻っていった。
「……いやはや、先のことなんて、中々わからないものだな」
――――【第三章:東京アンダーモラトリアム・了】――――
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