#12 鉛の天蓋
「どうして――」
俺は、目の前に現れるはずの無かった彼女の姿に、茫然としながら口を開いた。
「ピオニィの前にいたのが、チラッと見えましたからね。顔も出さずにそのままどこか行ってしまうから、心配になって後を追ったんですよ」
「………………」
なんて……、情けない話だ。
本心では俺は、一人で死ぬのが寂しかった。誰かに、声をかけて、助けて欲しかったんだ。
だから、わざわざピオニィの前に姿を現して、そのまま立ち去った。構って欲しがりのガキのように、情けない未練を晒していたんだ。
……みっともない。生き恥とは、まさにこういう事を言うんだろうな。
「……もっと早く、死んでおけばな」
……何を言ってるんだ俺は。助けに来てくれた綾夏に対して、真っ先に言う言葉がこれかよ。
心底嫌になる。だが、心からの軽蔑を受けた相手に、みっともなく縋ろうとして、気を遣わせて、命を助けられるなんて、真っ当な神経で耐えられるはずがない。こんな姿を見せるぐらいなら、人知れず死んでいた方が、どれだけ救いになっただろう。皆を見捨てて、死に逃げる自分の醜悪さに気づいた今、助けを喜んだりなんてできはしない。
もう、徹底的に失望してくれて構わない。「あなたのような無責任な人間なんて知らない」と、見限られたのなら、俺だってもう、現世に未練など持つまいよ。
「……朱弘さん、昨日私が言ったこと、そんなに引き摺ってるんですか?」
「………………」
「ごめんなさい。私も無神経な軽口を言ったと、後悔してます」
「……合理主義気取って、広子ちゃんの純情を弄んだのは、事実だろ」
「だからって、私があなたのことを『死んでもいい』ってほど軽蔑してるだなんて、本気で思っているんですか?」
「………………」
……わかっている。わかっているんだ。
俺は、綾夏や広子ちゃん、鉾田さん達に失望されることを恐れるあまり、現実に彼らが言わないような、苛烈な言動を妄想している。皆が俺を囲んで責め苛むような、そんな狂った光景を想像してしまっている。
みんなはそんなことは言わない。みんな、ピオニィで知り合ったみんなは、「善い人」だ。わかっているんだ。
――だから、俺は、そんな「善い人」たちに不義理な真似をする自分が、みんなの善意を信じられない自分が、怨魔どもと同じぐらいに、許せないんだ。
俺の脳裏には、過去の自分を取り囲む大人の女たちの振る舞いが、俺と同じように淀みに飲まれていく男たちの姿が、こべりついて離れない。人間の善意を信じたいのに、「そんなものは存在しない」ともう一人の自分が囁きかける。
――もう、信じて傷つきたくないだろう
――責任など、負わなくていい
――怖いのならば、逃げ出してしまえばいい
いつだって、そう囁きかけて来る。
自分の不誠実さで裏切りを誘い、「やっぱり、人間なんて信用できないな」なんて、軽薄な納得を得ようとしている。
この二ヶ月。俺は待ち望んだ力を手に入れ、大切に思える人たちにも出会えた。ようやく、この安っぽい不信感に勝てる自分になれたんだと、自信を持てた。
けれど、それは自分を騙す偽りに過ぎなかった。よりにもよって、まだ幼く純真な広子ちゃんに、あんな薄汚い真似をするなんて。俺の根底が、薄汚れた淫乱男のままだったなんて――
やっと……あの仄暗い離れから出られたって、やっと、俺の人生が始められるんだって――そう、思ってたのに、俺の軽率な振る舞いで、何もかもが崩れ去ってしまった。
「俺は――――――――」
俺は、もう耐えられなかった。自分を偽り、ヒーローを気取っている自分が、気持ち悪くて仕方なかった。
俺は、何も変われてなんていない。俺は、そんな自分が、殺したくなるほど、大嫌いだ――
「――――――――――――」
「――――――――」
「――――」
……俺は、綾夏に、その穢れ切った生い立ちを、曝け出した。
恥も外聞もない、俺のありのままの、醜い人生を――
* * *
……綾夏は何も言わない。ただ、俺の目をまっすぐに見ていた。
俺は、彼女の目を直視できなかった。彼女が、俺のことをどう見ているのか、確認するのが怖かった。
暗黒の穴倉の中、地獄のような沈黙は、周囲に流れる水音だけを際立たせていた。
「……つらかったんですね」
彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「信じていた大人たちから裏切られて、弄ばれて……大事に想っていた人にも、打ち明けられなくて……。人間なのに、人間として、扱ってもらえなかった」
「………………」
彼女の浮かべる表情は、ただ悲しげなものだった。しかし、彼女の慰めは、俺の心をいっそう暗い闇に沈めていく。
……俺だけが、この世で一番辛い目にあっていたとでも思っているのか?そんなわけ、ないのに。
「朱弘さん」
「………………」
「私が、戦後どう暮らしていたか、詳しく話していませんよね」
「……聞きたくない」
わかっている。わかっているんだ。綾夏が、どんな境遇で生きて来たか、俺は既に想像もついている。
わかっている。わかっていてなお、自分の過去を、さも悲劇の主人公かのように話したんだ。綾夏の抱えているであろう過去を、わかっていながら、俺は――
「あなたに、聞いて欲しいんです」
「……やめてくれ」
つらい事を忘れられて、幸せになれたんだろ?やっと、楽しい日々がやってきたんだろ?
それを……壊さないでくれ。君は、もう、悲しいことを思い出して、苦しむ必要なんて、ないんだよ。
頼む……頼むよ。俺なんかのために、傷を開かないでくれ。悲しい思い出を呼び起こさないでくれ。
「朱弘さん、私はね……」
「……やめてくれ、綾夏……っ!!」
――私は、RAAで、進駐軍の兵士に、身体を売っていました。
* * *
|特殊慰安施設協会《レクリエーション&アミューズメント・アソシエーション》。
日本の敗戦後、東京に開かれた「慰安所」。その目的は、連合国軍の兵士の性暴力から、日本の婦女を守るために設置された施設とされる。これは日本の婦女の貞操を守るための「性の防波堤」とも呼ばれた。一方で、それは戦勝国への「接待」であるとも揶揄された。
RAAの募集は、衣食住と高給を保証するというもので、私のように身寄りがなく、食い扶持を稼ぐ手段のない女性たちに向けられたものだった。私たちは、毎晩、何十人もの外国の兵士と、身体を重ねた。
……誰しもが売春の経験を持っていたわけではない。その日暮らす金銭のために、経験のない女性たちもそこで働いた。「日本の女性たちの貞操を守る」とは言ったものだが、その守るべき婦女の中に、私たちのような存在は含まれていなかった。
やがて、進駐軍は公娼制度を廃止した。それは私たちにとって「解放」を意味することだったかと言うと、そういうわけでも無い。
勤め先を失った慰安所の女性たちは街娼となり、世間からは「パンパン」という蔑称で呼ばれた。募集をかける時には、さながら女性たちの英雄のように喧伝された私たちも、実態として他の国民からは「あばずれ」の扱いであり、RAAが解体され御役御免となる頃には、売女の誹りも避けられない世情だった。
私の当時の齢は十に満たない。しかし、精鬼という生物の特性として、私は産まれた時点で成熟した肉体を持ち、また他の女性の持つ「妊娠」というリスクも負わなかった。しかしながら、当然のこととして、親しくもない相手と体を合わせることには、抵抗も嫌悪感も強かった。
ましてや……彼らは、彼らの祖国は、私の大切な人たちを、焼き殺した者たちだ。精鬼の頭として、戦争への参与を避け続けた、私の「お爺様」の頭上に焼夷弾を落とし、消し炭に変えた者たちなのだ。
そんな相手に、好き勝手な慰み者にされたり、浅はかな同情心で軽薄な愛を囁かれたり、私は彼らに何を想えばよかったのか。彼らを許せない気持ちや、屈辱感は募っていく。そして、そんな者たちに命惜しさで体を開く、そんな自分自身が、日を追うごとに嫌いになっていった。
私の心は、日に日に擦り切れていく。人を怨まず生きていくこととは、なんて難しいのだろう。
……だが、私の生きる道は他になかった。身寄りもなく、世間について何も知らない若い女が、身体を売らずに働き口を見つけられるほど、当時の日本は甘い世界ではなかった。やがて私は、怒りも、屈辱も、不快感も、全てを飲み込み、「自分は何も感じていない」と思い込むことで、何とか生きていた。
男性たちは「欲」の成就を求める。その反面で女性の「清純さ」を愛すべき魅力としている。その矛盾は、私たちのような「使われる女」と、世の歪みから守られた清らかな「愛すべき乙女」が分かたれることで、解消される。
朱弘さんが、広子ちゃんを「護るべき子供」として愛おしく感じる一方で、「親に愛され護られて羨ましい」と思う気持ち。そこに嫉妬や劣等感を感じて、苛立ちを覚える気持ち。……それは、私にだって存在している。
世の中は、往々にして誰かにしわ寄せを集め、損をさせることで理不尽に回っている。それでも、私たちは自分たちの人生を生きていかなければならない。
あの夜。上空を飛ぶ爆撃機に、焼夷弾で邸宅を焼き払われ、お爺様を、お世話になった皆を、一斉に亡くしたあの夜。
そこから、ずっと続く閉塞感。私の心を覆いつくす不自由の象徴。それが、この東京の青い空。
私は、この東京の青空が、不似合いなほどに鮮やかなペンキで塗られただけの、暗く重い鉛の蓋のように感じていた。
それは、私が鉾田店長に保護され、ピオニィで働き始めてからも、ずっと、ずっと、続いていた。
誰も……「私」を知ってくれないと思ってた。一人で死んでいくしかないんだって思ってた。
もう、いつ死んでもいいと思ってた。浄忍に殺されたって、もう構わないと思ってた。
自身の命を削り、ただひとり傷つきながら戦う、そんなあなたに殺されるなら、私の人生の幕引きに悪くないと。
けれど、あの夜、あなたは、「あの言葉」を私にかけてくれた。
私の素性を知って、それでもなお、私を「人間」と認めてくれた。
望む全てを諦めて、なおも寄り添ってくれた、そんなあなただから。
だから、私は――
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