#9 骨肉相食む魍魎の廷《にわ》
――最悪の目覚めだ。
全身が汗まみれになって起床した俺は、時計を見て、私服を着込んだ。そして、アパートの下階にある煙草屋で電話を借り、会社に欠勤の連絡を入れた。
――今日は、今日ばかりは、誰にも、会いたくない気持ちだった。
ようやく自由になれたと思っていた。今の俺なら、なりたい自分になれると信じていた。
だが、綾夏から向けられた軽蔑の眼差し。これで、俺はようやく気が付いた。
……俺は、俺の心は、暗い世界から、まだ出られていなかった。
* * *
市井に生きる人々は、忙しそうに街を歩いたり、立ち話で談笑に興じている。今の日本の昼の街の姿は、平和そのものだ。
「……なんで、せっかく休み取ったのに、ここに来ちまうんだろうな」
俺は、遠巻きに喫茶店を眺めた。昼食時のピオニィは、いつもより忙し気な雰囲気に包まれている。店内では、鉾田さんや綾夏、パートタイムの女性が、慌ただしく注文を運んでいる。広子ちゃんは、今頃学校だろう。
……平和だ。俺がいないときも、人々には生活があり、各々の営みを続けている。当たり前の話。だが、今の俺はそのことに、深い疎外感を感じていた。
理由はわかり切っている。市井を生きる人々と俺は、本質的に、生きてきた世界の理が違う。俺は、平和な世の中で生きるには、その価値観の根底から、不浄が過ぎる。
店の中で、夜の街の闘いで、彼女との共闘は、叩かれる軽口は、向けられる笑顔は、間違いなく俺の救いだった。彼女を通して知り合ったピオニィの関係者との繋がりも、俺が社会に加わっていることの実感に繋がり、少しずつ、俺はこの「東京」に居場所を感じていけた。
……だからこそ、自分の本質が、妹のように感じていた少女の気持ちすら利用する、穢れ切った存在であったことは、絶望的な結論だった。綾夏から向けられた冷たい視線は、今なおハッキリと心に残っている。
大事な人の、護るべき子供の、純粋な恋心すら踏みにじる人間が、ヒーローを名乗っていい訳が無いだろう。
俺はピオニィに背を向けた。……これからも、彼女たちに危機が迫るなら、戦いの場に向かうことは変わらないだろう。
だが、今は、今だけは、全てを忘れていたかった。
* * *
「朱弘さん……?」
……気のせいではない。店の外に、一瞬、彼の姿が見えた。
昨日のことで、何か話があったのだろうか。それでも、気まずさから、この場を去ったのだろうか。
私は気がかりになりながらも、配膳の仕事を続ける。彼も大人だし、今は強力な浄忍の力もある。なにより、まだ今は昼だ。
彼を一人にしたとしても、無茶なことをしたりはしない。……しないはずだ。
………………
落ち着かない。心が波立つ。
彼は、あの時、間違いなく、私の言葉に傷ついていた。そして、この店の前を訪れた。
なぜ?……決まっている。
心が、悲鳴を上げているんだ。誰かに助けを求めて――
「……店長」
私は意を決し、カウンターで調理をする鉾田店長に声をかけた。
* * *
……戦後の東京では、下水道の整備が進んでいる。不謹慎だが、東京は一度破壊し尽くされたことで、インフラストラクチャーの整備に取り掛かることが容易になった。
復興に伴い衛生感覚は再び向上していき、それに伴い感染症の対策にも政府は注力することになる。下水道の整備はその一環だ。
今の東京は、広大な地下空間が存在する。膨大な距離の下水道が伸び、そこは暗黒の世界だ。
……そう。そこは怨魔の世界だ。靈異統制局が解体された間に予算が通り工事の開始された大下水網。これは今や「東京地下蠱毒」というに相応しい、怨魔の喰らい合う、闇の巣窟と化している。
市井の者は知らないだろうが、下水道の管理を行う職員は、その作業着に「護符」が縫い付けられている。巫術師による怨魔退散の効力を持ったものだ。これで、無知性怨魔から襲われるリスクはある程度軽減できる。
つまるところ、対症療法のみで「後回し」にされている。問題の先送りの行き着いた先が、この地下蠱毒だ。
俺は、無人の閉鎖された地下鉄駅への階段を降りていく。この先は下水道に通じる分岐がある。「怨魔の世界」だ。無茶な戦いはするつもりはない。都市伝説「下水道のワニ」について、軽い探索をして帰る。それだけだ。
それだけだが……今の俺は、ぐちゃぐちゃになった俺の心は、怨魔をぶち殺すことでしか、きっと晴らせない。
八つ当たりだな。これのどこが正義のヒーローだ。
……許せよ怨魔ども。惨めな男の憂さ晴らしに、せいぜい付き合ってくれ。
* * *
飛びついてくる怨魔の顎を、手刀で両断する。続けざまに、隣の怨魔の頭を抜き手で貫く。足元で怨霊が集積し、形を成しつつある発生過程の赤黒い肉塊を踏み砕き、受肉を阻止する。
殺す。殺す。殺し続ける。ただひたすらに、視界に入った怨魔を殺して歩く。
――晴れない。晴れるものか。殺しで気持ちが晴れるなら、最下級の丁種を殺して回ってた頃だって、俺の心は平穏だったはずだ。
あの頃に散々苦戦した丁種を簡単に殺せようと、俺の心は一向に晴れない。達成感も得られない。生まれ変わった気持ちにもなれない。ただただ、空虚な気持ちで、怨魔の死体を積み重ねていく。
* * *
ガキの頃。俺の精通を親族が察すると同時に、忍びの訓練はそこそこに、「接待」に回された。そして、実家の奥まった離れに呼び出された。
そこで待っていた女。年の頃は二十台後半から三十代だろうか。どこの家の人間かは覚えていない。実家で会うたび、なぜか菓子をくれる「親切なおばさん」ぐらいの認識だった。
俺はその離れに呼び出された時、異常な興奮状態にあった。その日の夕食の準備に俺は参加していない。おそらく、親族から下劣な秘薬でも一服盛られていたのだろう。
仄暗い蝋燭の明かりの下。俺は、その女に「犯された」。精力剤を盛られ、精通を済ませていたなどと言っても、ガキはガキだ。ロクな性知識など持っていない。
俺は、「やさしくしてくれていた」大人の女が、息を荒げてのしかかってくるその異常な行動に、抵抗の余地なく俺を押さえつける「くのいち」の膂力に、ただ怯えていた。
俺の抱いていた「くのいちに負けない、強い男忍者になる」という願いは、俺の初めての「経験」とともに、歪み、滲み、何処へともなく消えていった。
背中を預けてもらうためにと、共に技を磨いてきた「あいつ」への罪悪感とともに――
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