#8 不浄
拝殿の影から、明松さんが現れ、私の方に歩み寄ってきた。
「……心配かけたな、広子ちゃん。化け物はもういないよ」
気付けば、歪んでいた周囲の景色も、元通りになっている。先程と比べて、空は若干暗くなり、私たちの足元に落ちる影も薄く感じるようになっていた。
明松さんは、その場でへたり込んだ私の前に、片膝をついた。
「怪我は……してないか?」
「はっ……はい!!」
現実味の無い状況に戸惑っていた私だったが、明松さんの革靴にしわが寄っているのに気が付き、急いで立ち上がった。
その勢いでずり落ちそうになるコートを、慌てて手で支えた。
「大丈夫……なにも、その、されてません!!」
「そうか、良かった……」
明松さんは、安心したように優しい笑みを浮かべた。私のこと、心配して、助けに来てくれたんだ……。
「あの、さっきの、妖怪みたいなのは……」
私は、彼に問いかけた。
「ああ、こっくりさんで子供を拐かそうとした、化け物さ。これからは、あまり怪しいものに近づいちゃだめだぞ」
「…………」
こっくりさん――ピオニィで、葉子と万美にちょっかいかけられた時、話に出たぐらいだ。
それを、明松さんは聞いていた?心配して、私を守りに来てくれた?私を……見てくれていたの?
胸が、どきどきと高鳴る。明松さんが、どうしてあんな身のこなしで、怪物を退治できたのか、私にはわからない。
けど確かなことがひとつだけある。この人は……私にとって、やっぱり、ヒーローなんだ。
「広子ちゃん」
「はいっ!?」
自分の世界に入っていた私だったが、明松さんに呼びかけられ、声が裏返ってしまった。
彼は、私の目をじっと見つめる。胸が高鳴る。目を逸らしたい気持ちと、ずっと見つめていたい気持ちが、ぶつかり合う。
顔が熱い、視界がぼやける。きっと、今の私は、恥ずかしいぐらい顔を赤くしている。でも――
「少し、目をつむっててもらえるか?」
「!!」
これって、まさか――?
――いや、明松さんは立派な大人だから!!
私みたいな子供を相手に、そんなこと、そんなこと、するはずがない。でも――
私は不安と期待を胸に、言われるがままに目をつむった。そして――
「……手荒で、ごめんな」
一瞬、首元に走った衝撃とともに、意識を失った――
* * *
「……綾夏、広子ちゃんの忘却措置を頼む」
広子ちゃんの肩を支えながら、朱弘さんはゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。
「事前に話した通り、『順魂流転』の応用なら、簡易的な記憶操作は出来るはずだ。怨鬼と会った所から、俺とのやり取りまで、認識阻害をかけてやってくれ」
「ええ、多分出来るはずですが……」
広子ちゃんの肩を支えていた彼は、私に彼女を預け、立ち上がった。
私の沌法は巫力の……「魂の劣化と再生」。彼女の記憶に関しても、完全な改竄は難しいが、一連の出来事をうやむやにする程度なら問題なく出来る。あと、ついでにはじけ飛んだ服のボタンの補修程度も可能だ。
事前の打ち合わせ通りではある。けれど――
「……随分と鮮やかな手並みですね」
正直、私は彼の「演技」に、軽く引いていた。営業の時や鳴嶋さんの時のそれとはまったく違う。あまりにも自然な立ち振る舞いだった。
広子ちゃんの行動言動は、完全に恋する乙女のそれだった。彼は、広子ちゃんに「目をつむれ」と言った。
「――あの時の広子ちゃん、朱弘さんにキスされるって、期待してましたよ」
「……そうだな」
……わかってやってたのか。彼は、広子ちゃんにかけたトレンチコートを回収し、自分の腕にかけた。
全体的な立ち振る舞いとして、女性の扱いがあまりに自然過ぎる。普段の演技力の低さと裏腹に、女性を「期待させる」演技が、あまりにも上手過ぎる。
私は、思わずため息をついた。
「まったく、これまでどれだけ女性を泣かせてきたんですか。いくら忘れ去られる事だっていっても、あまり若い子の純情な気持ちを弄ぶようなことは――」
……彼女の安全を思えば合理的な行動だけど、広子ちゃんの気持ちを想うとムッとする所はあったし、強い言葉の物言いになった。とはいえ、私にとっては普段の軽口の延長のつもりだった。
しかし、私の方を振り向いた彼の眼は、いつものように、おちゃらけた苦笑いを浮かべる皮肉屋のそれではなかった。
かすかに潤んだ彼の瞳に浮かぶ、言葉に出来ない感情。……これは、「悲しみ」?
彼の見せた普段とは別の表情に、私は言葉を噤んだ。
……彼の「踏み込んではいけない」領域に、私は土足で踏み入ってしまった。その実感が、押し寄せてくる。
「……まったくだ。反省したいから、一人にして欲しい」
彼は、私に背を向ける。彼は、広子ちゃんに預けていたコートを羽織り、参道を歩き出した。
「……広子ちゃんが目を覚ましたら、綾夏と店長で送ってあげてくれ。俺のことは何も言わないでいい」
「朱弘さん……?」
彼はマッチに火をつける。しかし、強くなってきた風は火をかき消した。彼はため息をつき、マッチの燃えがらをポケットにしまった。
「……俺みたいなのが、こんな良い子から『ヒーロー』扱いなんて、されるべきじゃねぇんだ」
参道を吹き抜ける風が、彼のコートをはためかせる。私は、朱弘さんに一声をかけることもできなかった。
彼はただ一人、鳥居をくぐり、石の階段の向こうへと姿を消した。
* * *
――その晩、俺は夢を見た。
俺が、一番見たくない、過去の記憶。
俺よりも体格の大きい、裸の女が俺に跨っている。欲にまみれた気味の悪い笑顔で、動物みたいに鳴いている。
俺は、「やめてくれ」と懇願した。だが、女は決して「それ」を止めることはない。情けなく涙を流す俺に、嗜虐心が刺激されたのか、女はじめっとした肢体を絡め、なめくじのように俺にまとわりつく。
気持ち悪い。けれど、俺の力では抵抗もできない。女は、獣のようにただ快を貪る。
木々に囲まれた仄暗い実家の離れ。「そのため」だけに作られた一室。
曾祖母が、接待として招待したその女に、大家の誇る浄忍に、ガキを慰み者にする変態に、俺の尊厳は砕かれ、悔しさに震えていた。
――――俺は、そんな「演技」だけが、無意味に得意になっていた。
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