#3 虚栄の勲章
「将校さん」は、店員の案内を待たず、椅子にドカッと腰掛け、低い声で「ん」とだけ声を出し店員を呼びつけた。
……これに応じないと、彼は機嫌を損ね、声を荒げてしまう。そのため、私たちは彼を刺激しないよう、機嫌を窺う接客をしている。
あだ名に反し、彼は現役時代は将校だったわけではない。店長の見通しとしては、曹長などの下士官だったのではないかという。
本当に将校であった者なら、東京裁判で裁かれているか、警察予備隊……今でいうところの自衛隊に幹部待遇として迎えられているだろう、という話だ。
ではなぜ「将校さん」と呼ばれているのか……それは「偉そうな時代錯誤の軍国主義者」という彼の振る舞いを見た近隣住民が、それを揶揄して「将校さん」と呼んでいるのだ。
とは言え、彼も進駐軍が日本にいた頃はそれほど横暴な振る舞いをしていたわけではないという。
店長の話によると、戦後しばらくは彼も金鵄勲章を着けて外を歩くこともなく、大人しく過ごしていたという。町の人々からも、そう敬遠されていたわけではなかった。
しかし、進駐軍の撤退後、彼は今のような横暴な一面を露わにしていった。それは、周辺住民からすれば「臆病な内弁慶」に映ったらしい。
それは一面では正しいのかもしれない。……けれど、店長によると「そうとばかりも言い切れない」という。
聞くところによると、彼は戦前、上官に連れられて、この純喫茶の前身となるカフェー(女性給仕の接待をともなう、風俗営業的な喫茶店)に度々訪れてたらしい。
戦前、店長はその店で小間使いや用心棒をやっており、客であった彼とも多少面識があったという。しかし、風紀規制と物資の不足で、そのカフェーは大戦開始前夜に店じまいとなった。
時は流れ、店長は軍に志願し、激戦を乗り越えた後に、終戦を迎えた。彼が送られていた満州から復員してしばらく後のこと。
かつてのオーナーから店を引き継ぐ形で「純喫茶ピオニィ」は開店した。そこで店長は、かつての客であった「将校さん」と再会した。
二人は、お互いの無事を喜びあったという。直接の上官部下の関係というわけではないが、同じ地獄を生き延びたことに、素直に喜びあったそうだ。
……けれど、「将校さん」にとって、今なお米国は「敵」のままだった。
彼は、戦後も熱心な軍国主義者だったこともあって、自衛隊への再就職の声はかからなかった。自身の軍人としての矜持は傷つけられ、彼の愛した日本のレトロな街並みも、かつての「敵性文化」に侵食されていく。
だからこそ彼は、自分のよりどころを求め、「軍人であった自分」という過去に拘泥していった。そして、青年の頃に上官に連れられてやってきた「カフェー」は、青春の華やかな記憶であり続けている。
……一度、店内の雰囲気を変えてみようと、「ピオニィ」で流行りのロックのレコードをかけたことがある。そこに訪れた彼は、客の前で店長に激昂した。お前はこんな軟弱な男だったのか、見損なった、と、店長を叱責した。
店長も、まったく思うところが無かったわけではなかったようで、以後レコードプレイヤーが店の物置から出されたことはない。朱弘さんの営業が実を結ばなかった理由は、こういった所にもあるのだろう。
……この一件で毅然とした対応を取らなかったことが、結果的に彼を増長させてしまったのかもしれない、と店長は語る。
彼の振る舞いについては店長も快く思っていない。だが、それでも戦友である彼に対し、店長は強く出られずにいて、店の営業にも影を落としている。
彼の言行が一層過激になっていく今、店長も戦友である彼を不用意に傷つけないよう、どうにかしようと頭を悩ませている。そんな状況だった。
* * *
アルバイトさんを助けに行こうとした私を、店長は制止した。
「行かなくていい。彼を放置して増長させた、私の責任だ」
店長の頭に血管が浮いていた。拳を握り、かつてないほどに怒りに震えている。私も、普段見ることの無いその形相に、一瞬怯んでしまった。
今日の「将校さん」は、珍しく酒を飲んで来店したようだ。言動はいつにも増して支離滅裂であり、その行動も抑制が効いていないように思える。
加えて、今日彼に注文を伺ったのは、最近入った高校生の若い女性のアルバイトさんであった。こちらに漏れ聞こえてくる声からは、体に触った触らないの話をしているようだ。
経緯を見ていないので、真偽のほどは定かではないが、彼は年端もいかない女学生を強く叱責し、彼女は瞳に涙を浮かべていた。
店長は、学生のアルバイト労働の増えた昨今、従業員の労働環境や福利厚生にはとても気を使っている。「御両親から大事な御子息を預かるのだから」、ということだ。
店長曰く、戦争を知らない子供は平和の象徴であり、国の宝だという。それは、戦争を知らない子供を未熟で軟弱とする「将校さん」の価値観とは真逆のそれだった。
……いくら彼が戦友であったと言えど、越えてはならない一線が、そこには存在していた。店長は食器をその場に置き、カウンターに手をかけた。
これから起こる事態を考え、私はただただ気が滅入るばかりだった。
店長が彼を叱責し追い出せば、この場では賞賛されるだろう。しかし、彼の怒りが記憶に刻まれた客は、この店への安心が損なわれる。正当な理由があっても、怒りの結末が報われることは少ない。
それにきっと、店長は旧友を追い返したことを内心では深く落ち込むだろう。「将校さん」にどれだけ非があったとしても、人の気持ちとはそういうものだ。……世の中は、往々にして誰かにしわ寄せを集め、損をさせることで理不尽に回っている。
ふと、店長の後ろ姿が脚を止めた。彼の視線の先、「将校さん」のテーブル。先程までいなかった誰かがいる。
……朱弘さん?
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