#10 人間の証明
女は、俺の右手を両手で包むように握る。
……「信じる」、だと?浄忍を目指した俺が、怨魔を?
……俺が、この女を見逃したい気持ち。それは、死者の気持ちを妄想する、安いセンチメンタルに過ぎない。自分でもわかっている。浄忍としては、この怨鬼は、今ここで、殺すべきだ。殺さなくてはならない。
俺は、臆病風に吹かれて、浄忍としての使命より、自分の人間性を失うことを避けただけだ。そんな自分に軽蔑すら覚えている。
………………。
………………けれど、
俺の本心は、きっと、求めていたのかもしれない。
あの邪悪な口裂け女すら、一応俺は話を聞いた。仇かどうかの確認をしようとした。
なぜ?
……「言葉が通じる」からだ。
言葉は、人が愛や友誼を結ぶ前提だ。
同時に、他者を騙し、脅し、保身を図り、貶め、辱め、優越感に浸る。そうした、ろくでもない使い方だってされる。
甲種の怨魔が……怨鬼が、果たして「人」なのか。俺は知りたかった。やむにやまれぬ事情があるのか、理解し合い、刀を収めることは出来ないのか。
無意識のうちに、そうした純情な期待を持っていたからこそ、問答無用で不意打ちで殺しに行くことを、俺は避けていた。
そんな甘い話なんて、ない。人間だって、他者と争い、殺し、辱める。二十年前の戦争で、世界はそのことを、いやと言うほど知っただろう。
殺していった敵国の者にも、殺しにきた兵士たちにも、その多くは愛する家族がいたことだろう。だが、お互いの握りしめた銃は、そんな「話せばわかる」相手ですら、凄惨な殺し合いを強要した。
……人間ですらそうなんだ。怨みの鬼の言葉に、何の重みがある。
でも、それでも、もし、俺が知らない誰かが、救いを求め、声を出していたのなら。それが本心からの求めであれば。
きっと俺は、鬼の姿をしていても、手を差し伸べたいと思っただろう。
――まったく、馬鹿な男だよ。俺は。
* * *
「ひとつ、答えろ」
俺は、彼女の目をまっすぐ見つめた。
「お前は……自分を『人間』だって、胸を張って、言えるか?」
「……っ!!」
「……人間だってロクなもんじゃねぇ。先の大戦だって、戦後の混乱だって、現実はクソみてぇなことばかりだ。殺戮も、強盗も、強姦も、全部人間のやること。それでなお人間扱いされてぇってんだから、怨魔よりタチが悪いかもな」
俺は、彼女から目を逸らさない。彼女も、俺の目を、真っすぐに見返す。
「それでも、それでもだよ。俺は、人間の味方でありたいんだ。殺して、犯して、奪って……そんなもの、人間の本質だなんて思いたくないんだ。人間には、もっと、何かあるはずなんだよ。救われたっていいはずなんだよ」
俺は、握った手に力を籠める。これまで生きてきた中での怒りが、悔しさが、悲しみが……、そして、それらですら奪いきれなかった「未来への期待」が……胸に去来する。
「俺は、人間に、人間として生きて欲しい。ふざけた理不尽に飲み込まれるところなんて見たくないんだよ。俺は、自分が人間だって、胸を張って言いたいんだ」
俺は、声を絞り出すように、彼女に問いかけた。彼女は、俺の手を、強く、握り返す。
「……答えてくれ。お前は、怨鬼か、それとも人間なのか……?」
それは、祈りのように。願いのように。ただ彼女から「その一言」を聞かせてくれと、懇願するように。俺は、彼女の目を見つめる。
「私は――」
俺の願いを聞き届け、彼女は口を開いた。
「私は……、貴方と同じ……『人間』です……っ!!」
そう、それこそが、俺の求めていた「答」に他ならなかった。
――今、腹をくくった。俺は「人間」の味方だ。
口裂け女は、もう、すぐそこまで迫っている。「怨鬼」が。「俺たち」の敵が――
「頼む、力を……貸してくれ」
「はいっ!!」
――俺は、何年かぶりに、歯をむき出しにした笑顔を見せた。
――彼女も、子供みたいに、あどけない顔で笑っていた。
「剋因沌法『標』――」
彼女の瞳が、赤く輝く。それと同時に俺の右手に、あたたかく、それでいて小川のせせらぎのような、柔らかな「流れ」が、注ぎこまれる。
それは、春、夏、秋、冬……巡る季節が幾重にも連なり、一本の河に集約されたような、膨大な時の流れを、血流に乗せて、俺の全身に巡らせるような。
―――ただただ心地よい。俺は、今「世界」そのものになっている。俺の求める「人間」という概念。その目指す極致が、ここにあるような。そんな感覚。
「百月奥伝 大悟『順魂流転』」
凡てが、繋がっていく。
古代日本のアニミズムに始まり、現代浄忍衆に至るまでの「巫」の系譜が。
俺の体内を巡る、巫力の系譜が、ひとつの輪を描き――繋がった。全てが、確信に変わる。今の俺になら、出来る。
「血因遁法」――ではない。たった今、俺の魂に刻まれた、新たな力。
屋上を渡り切った口裂け女が、跳躍した。そして、全身から刃物を展開し、その中でも最も巨大な右腕の大刀で、俺の胴を両断すべく、大きく振りかぶる。
「剋因遁法『灼』――」
俺が求めてやまなかった「力」。劣等感と無力感に押しつぶされる日々で諦めた、怨魔を屠り、人々に安寧をもたらす超常の力。
俺の足が赤熱する。先の鉄板越しのそれの比ではない。俺の足が「熱」その物となり、コンクリートを溶解させるほどの熱量が、集約する。
「明松流 蹴撃殺法『烙跡』――!!」
俺の足が、怨魔の右腕に繋がった、巨大な刀に延びる。
赤熱した俺の足が、口裂け女の刀を溶かす。コートの袖を消し炭に変える。怨魔の腕の骨肉を、手首から、肘、上腕まで、膨大な熱量で蒸発させる。
皮膚の表面を焼くばかりだった、俺の「熱」の蹴撃は、もはやあの時とは比較にならない威力に変わっていた。俺はそのまま、右足を蹴り抜き、敵の肩を蒸発させた。
――この日、俺は浄忍の道を、自身の選択で諦めた。
そして、ようやく、一人の「人間」として、産声を上げられたように感じた。
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