第9章 — 火のない祈り
その村には名前がなかった。
ただ、曲がった柵と傾いた屋根があった。
風に揺れる壊れた鐘。
それはもう届かない祈りのようだった。
二人が到着したのは夕暮れ時だった。
影は長く、視線はさらに長かった。
「よそ者だな…」
村の老人が呟いた。
「鎖を引きずる男に、神殿を持たぬ聖職者とはな…」
誰も彼らを歓迎しなかった。
だが、追い出す者もいなかった。
その村は沈黙を知っていた——
だが、彼のような**“深すぎる沈黙”**には慣れていなかった。
「納屋で一夜を明かしてもよろしいですか?」
アーリアが尋ねた。
老人は少しの間黙っていたが、うなずいた。
「構わん。ただし…あの棺を開けるなよ。」
夜になると、村の子供たちがこっそりと納屋に近づいた。
彼らは遠くから棺を見つめていた。
その中の一人が勇気を出して尋ねた。
「あれの中に…モンスターが入ってるの?」
アーリアはやさしく微笑んだ。
「いいえ。
でもね…人は、知らないものを“モンスター”と呼んでしまうの。」
子どもは意味が分からなかった。
けれど、恐れることなく後退った。
納屋の中で、彼は天井の梁を見つめていた。
その封印された目は微かに光り、
まるで何か古い記憶を…もしくは「何か」の接近を感じ取っているようだった。
「みんな、あなたを怖がってる…」
アーリアが言った。
「でも私にはわかる。
あなたも…怖がってるのよね。
それを見せないようにしているだけ。」
彼は何も答えなかった。
だが、その手は静かに拳を握った。
怒りではなく——抑えるために。
朝になると、村人たちが納屋の前に集まっていた。
「出て行ってくれ…」
老人が言った。
「お前たちの存在は重すぎる…この村はもう限界なんだ。」
アーリアが一歩前に出た。
「私たちはただ通りすがりです。
彼は言葉を持ちません。
でも——私を助けてくれました。
そして今も…言葉のないまま、救ってくれているんです。」
「彼は…呪われているんじゃないか?」
老人は言った。
「かもしれません。
でも、この村だって…誰もが何かしらの呪いを背負っているはずです。」
村に沈黙が訪れた。
それは祈りよりも…正直な沈黙だった。
彼は村人の間を、視線を合わせることなく通り抜けた。
棺の鎖が村の地面を擦る音が響いた。
脅しではない。
ただ——
誰も見たがらない重荷が、確かに存在しているという証。
アーリアはその背を静かに追った。
村を出るとき、彼女は静かに言った。
「あなたが話せなくてもいい。
私には——ちゃんと聞こえてるから。」