第60章 — 旅立ち
朝は冷たく澄み、薄い霧が村の石畳を覆っていた。
馬の蹄の音が静かな空気を震わせる中、ギルドの前にはいくつもの馬車が並んでいた。
荷物や食料がきちんと積まれ、御者たちは無言のまま待機している。
その周囲には、村を離れようとする冒険者たちが続々と集まっていた。
その数、八十五人。
剣士、弓使い、魔法使い、傭兵の集団……多種多様な戦士たちが揃い、その中にアリアとサエルの姿もあった。
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「……こんなに多いなんて。」
アリアは周囲を見渡しながら呟いた。
戦士たちの顔には緊張と決意が入り混じっている。
それぞれの装備は使い込まれ、目には数え切れない戦いの痕跡が刻まれていた。
サエルは黙ったまま、ただ静かに馬車を見つめていた。
その時、ギルドマスターが現れた。
逞しい体格に灰色の髭を蓄えた男が、一台の馬車に上がり、大きな声で皆に語りかける。
「諸君、聖十字協会の呼びかけに応じてくれたことを、心から感謝する!」
重みのある声が広場全体に響き渡った。
「これから我々はドワーフの大地グラニスへ向かう。そこでは戦火が絶えず、多くの犠牲が出ているだろう。恐怖を抱く者もいるだろう。だが、覚えていてほしい……この村は、いつでも諸君を迎える場所だということを。」
言葉は短かったが、その誠実さは皆の胸に届いた。
アリアは胸が締めつけられるのを感じた。
――離れるのは、思った以上に辛い。
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出発の前、二人はリリスのもとへ向かった。
ギルドの受付嬢は目を潤ませながらも、いつもの明るい笑顔を崩さなかった。
「二人とも……私を心配で死なせる気? ちゃんと帰ってくるって約束して!」
「……できる限り努力するわ。」アリアはそう答えたが、声は少し震えていた。
「“努力する”じゃだめ!」リリスは両手を腰に当てて言い切った。
「私、二人の家をちゃんと掃除しておくからね! それから……あの大きな棺も! 埃まみれにさせないわ。」
「棺は……持っていく。」サエルが短く答える。
「だーめ!」リリスは首を振った。
「縁起が悪いでしょ? 旅に棺なんて持ち歩くものじゃないわ。ここに置いていって!」
サエルは目を伏せたまま黙っていたが、彼女は一歩も引かない。
「この家と棺は、二人が必ず帰ってくるための“絆”にするの。私、ここで待ってるから!」
しばらくの沈黙の後、サエルは小さく息をついた。
「……わかった。」
リリスの笑顔が、朝の曇天を吹き飛ばすように明るく輝いた。
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やがてアリアとサエルは馬車に乗り込んだ。
ギルドの前に立つリリスが、二人を見送るように大きく手を振っている。
彼女の隣には、長年サエルが離さず持ち歩いてきた棺が置かれていた。
「……本当に、置いてきちゃったのね。」
アリアが小さく呟くと、サエルは何も答えなかった。
――これは、彼がどれほどリリスを信頼しているかの証だ。
馬車が動き出し、リリスの姿が小さくなっていく。
その時、サエルが静かに片手を上げた。
淡い魔力が空気に溶け込み、目には見えない二つの印が浮かび上がる。
一つは棺に。
もう一つは、リリスの左腕に。
アリアが息を潜めて問う。
「……今の、何?」
「守りの術だ。」サエルは低く答えた。
「これで……誰もリリスや棺に手出しできない。」
印は一瞬で消え、リリス自身はその存在に気づくこともなく、遠くから笑顔で手を振り続けていた。
アリアは隣に座るサエルを見つめた。
彼は視線を前に向けたまま、何も言わなかった。
霧の向こうへと消える村を背に、馬車はグラニスへの長い道を走り出した。
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