第58章 — 穏やかな日々の重み
静かな日常が始まった。
そして、その流れはゆっくりと大きくなっていった。
朝になると、二人はギルドの掲示板へ足を運ぶ。
壁には新しい依頼書が張られ、農家や商人、薬師の名前が並んでいる。
仕事の内容は草薬の採集や小動物の駆除、倉庫の見張りや荷物の運搬など、どれも平凡で小さなものばかりだった。
依頼を終えると町に戻り、報酬を受け取り、夜には宿で眠る。
それが繰り返されるだけの日々。
最初は心地よかった。
「……ちゃんと生きてるって感じがするわね。」
アリアはベッドの上で小さな袋から銀貨を数えながら言った。
「血や泥にまみれた夜を過ごさなくていいなんて。」
サエルは何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
彼は不満を口にすることもなく、淡々とこの生活を受け入れていた。
けれどアリアは気づいていた。
――目に見えない疲れが、彼の奥底に残っていることを。
---
町は小さかったが、確かに生きていた。
アリアは既に店主たちの顔を覚え、パンの焼ける香りや井戸のそばで眠る犬の姿も見慣れていた。
南から荷馬車が着く日にだけ賑やかになる市場の音も、もう耳馴染みになっていた。
ギルドの受付嬢ティナとも、顔を合わせるたびに少しずつ打ち解けていった。
――あの時、サエルの外見を誤魔化すために作り話をしたことを思い出すと、アリアは一人で笑ってしまう。
サエルはそのたびに無表情を装うが、最近は彼女の笑いを止めようとはしなかった。
---
五日が過ぎ、六日目、二人は野犬の群れを駆除する依頼を受けた。
南の牧場地帯で、家畜を襲うようになったという。
戦闘は短く終わった。
アリアが魔法で敵を怯ませ、サエルが一撃で仕留める。
封印は動かず、彼の瞳も穏やかだった。
報酬は銀貨五枚と銅貨二枚。
その日は静かに宿に戻り、早めに休んだ。
---
九日目の朝、アリアはまだ薄暗い中で目を覚ました。
隣を見ると、サエルはベッドに横たわったまま天井を見つめていた。
「……眠れなかったの?」
彼は首を横に振った。
「道が恋しいの?」アリアは尋ねた。
「動きが……なくなった。」
短くそう答えたサエルの声には、どこか遠い響きがあった。
アリアは静かに頷いた。
「私たちは……この穏やかな日々に甘えてるのかな。」
そう言ったが、彼は答えない。
彼女は小さく笑い、窓の外を見た。
「でも……後悔はしてないわ。」
少しの間があってから、サエルが低く言った。
「……する必要はない。」
---
ギルドの掲示板には新しい依頼が次々と貼られていく。
危険な長期任務は避け、二人は短い仕事ばかりを選んだ。
アリアは古い帳面を手に入れ、日々の出費を記録し始めた。
食料、修繕、そして市場での小さな買い物。
「この調子なら、あと二週間であなたのために新しいマントが買えるわね。」
彼は自分の裂けた服を見下ろした。
「……いらない。」
「知ってる。でも、持たせたいの。」
サエルはそれ以上何も言わなかった。
そしてアリアは、その沈黙が答えだと理解していた。
彼は少しずつ、彼女を受け入れていた。
世界の闇を全て背負いながらも、彼女の隣で一日一日を生きることを。
たとえそれが……
一時の安らぎに過ぎなかったとしても。
---




