第26章 ― 名もなき影
北から風が吹いていた。
そして風は、滅びの匂いを運んでいた。
ジョアナとイーリアスは、アーヴォルンの乾いた丘を進んでいた。
その土地は呼吸しているように見えた——
まるで、何かが地中に潜み、目覚めを待っているかのように。
空は晴れていたが、太陽の光すらこの地を避けているようだった。
「魔力の濃度……限界を超えています」
イーリアスはグリモアを確認しながら言った。
「空気が裂けているみたいだ。何かが存在しないはずの空間を……押し広げてる」
ジョアナは頷いた。
それは当然だった。
世界が変わる時、そこには常に——
“刻まれし者”の存在がある。
「今まで確認されたのは十体。
十の名なき存在。十の生ける裂け目。
彼らは神にすら裁かれず、ただ歩くだけで均衡を壊す」
「けど、どうして? 何のために……?」
ジョアナは静かに言った。
「目的などない。
彼らはただ**“在る”**だけ。
それだけで世界は悲鳴を上げる」
「……じゃあ、これは一体何なんですか?」
「恐らく、“何か大きなものの残響”……
あるいは、世界が忘れようとしない罪の残骸」
イーリアスは唇を噛んだ。
「もし本当に十一体目が存在するなら……」
「それは、封印が弱まり始めた証。
世界と世界の間の契約が裂け始めているのよ」
彼女の声は冷たくも明確だった。
「そしてそれが、もし十体目よりも強ければ……
我らの持つ全ての力でも抑えきれないかもしれない」
丘の上に馬を止めた。
眼下には濃い霧に包まれた谷が広がっていた。
——谷は、沈んでいた。
「彼を……見つけなければ」
イーリアスの声には決意があった。
「いいえ」
「見つけ出す前に、“それ”が自分を思い出す前に、消さなければならない」
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彼らは、ねじれた木々の中に野営を張った。
その夜、ジョアナは夢を見た。
鎖が千切れる音。
そして、霧の向こうに赤い瞳。
それは人間のように見えた。だが、同時に“生者”とは思えない目だった。
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夜が明けると、彼らは追跡用の聖印を地面に埋めた。
聖十字の紋章が白く光り出したが、
すぐにその輪郭が内側から裂かれ、闇に飲まれた。
空気の中に、確かな“存在”があった。
それはまだ弱い。けれど、確実に近づいていた。
「近い……」
イーリアスの手が震えた。
ジョアナはすでに槍を手にしていた。
「他の“刻まれし者”とは違う」
「これは……構造がある。沈黙がある」
「まるで、“見つかりたくない”かのように……」
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遠く、岩山の上に一人の影が立っていた。
黒い髪。
腰には鎖。
背には焦げた棺。
その瞳は、疲れ切っているようでいて、静かだった。
彼は彼らを見ていた。
そして、静かに背を向け、別の道へと歩き出した。
まるで、誰にも見つからぬように。
あるいは——
見つかったとき、世界が変わることを知っている者のように。
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