第25章 ― 名もなき街
> 「じゃあ、目覚める前に見つけないといけませんね」
「いいえ」
「思い出す前に――その存在を消さなければならない」
ジョアナのその言葉が、イーリアスの胸に残っていた。
彼らは石の小道を進み、目的地へと向かっていた。
前方には、旗もなく、名も刻まれていない街。
地図によっては、既にその名は消されていた。
もしくは、こう書き換えられていた——
「危険区域」
街の門はひび割れ、崩れかけていた。
上部には、木炭で刻まれた文字。
> 「許される前に、我らは忘れられた」
ジョアナは立ち止まることなく門をくぐる。
イーリアスも無言で続いた。
中は、飢えと諦めが根付いた世界だった。
肉の代わりに石のような干し物を売る露店。
子供はボロ布をネズミと分け合い、
水は壺に保管され、魔除けの印が刻まれていた。
——祈りではなく、独占のために。
「また一つの街か」
ジョアナがつぶやいた。
「全部……こんな感じなんですか?」
イーリアスの声は弱かった。
「いいえ」
「中には、まだ"沈んでいない"ふりをしている街もある」
市場を抜けても、誰一人として声をかけてこない。
通常なら聖騎士の姿は希望を呼ぶ。
だがここでは、沈黙しか返ってこなかった。
広場の中央にある古井戸は板で塞がれていた。
ナイフで刻まれた注意書きがあった。
> 「飲むな。祈るな。ここにはもう、何も応えない。」
ジョアナとイーリアスは街の中心にある崩れた大聖堂へ向かった。
扉は壊れ、ステンドグラスは割れ落ち、
祭壇には神像の代わりに錆びた鎖が組まれていた。
ジョアナは床に手を置く。
——灰だった。
「ここにも……“刻まれし者”が通ったのね」
イーリアスもひざをつく。
「でも……血は見えない」
「“刻まれし者”は殺さずとも、壊すのよ。
ただ存在するだけで」
彼女は立ち上がった。
「聖十字が確認しているのは十体。
いずれも名を持たず、形も違い、
共通しているのは“世界を蝕む”ことだけ」
「……それが、この任務が急を要する理由?」
「そう。
もし十一体目が存在するなら、
古の封印や魔術的条約が破られる可能性がある。
そしてもし、それが……十体目よりも強ければ」
ジョアナは言葉を濁す。
だが、イーリアスは理解した。
「……彼がまだ自覚していないなら、今が……」
「そう。目覚める前に」
彼女は祭壇に、自らの聖印を刻んだ破片を置く。
> 「信仰が残るなら、それは廃墟の中でも燃え続ける」
その様子を遠くから見ていた一人の女がいた。
声は出さず、ただ指で空に印を描いた。
それは「灰を纏う者たち」の印。
“刻まれし者”を神の予兆と信じる、危うい信徒たちの教えだ。
ジョアナはそれを見た。
だが、無反応のまま歩き去った。
人の信仰は脆く、
都市が残すのは、日に日にそれよりも少なくなっていた。
---
翌朝。彼らは街を離れた。
旅の途中、イーリアスのグリモアが淡く光り、
ページに刻まれたルーンが震え始めた。
「……何かが目覚めた」
イーリアスが言う。
ジョアナは騎乗したまま槍を握る。
「——行くわよ」




