第16章 — 静かなる契約の影
街は眠らなかった。
ただ、まぶたをゆっくりと閉じただけ——
油断した獣のように。
アリアは眠れなかった。
窓辺に座り、青白い月光の中で屋根の連なりを見つめていた。
空気には静けさが漂っていたが、それはまるで傷口にかけられた白い布のようだった。
彼は壁にもたれ、目を閉じていたが、眠ってはいなかった。
外の気配すべてを感じ取っていた。
遠くの足音、鉄の擦れる音、そして部屋に属さぬ囁き。
朝になると、ふたりは再び呼び出された。
セルヴァが待っていたのは、装飾の多い会議室。
壁には剣と紋章が並び、舞台装置のような空間だった。
「バーンは今、新たな交易の契約を結ぼうとしています」
セルヴァの声は穏やかだったが、冷たく響いた。
「国境の外、かつての敵…ルフテンとの裏の取引です」
アリアは眉をひそめた。
「でも…公には断絶しているはずでは?」
セルヴァは静かに微笑んだ。
「表向きはね。でも、空腹になれば、誇り高い者でも敵のパン屑を拾うものです」
主人公は一言も発さず、ただその場に立っていた。
だが、彼の封印された右目がかすかに光った。
「その初回輸送に、あなた方の護衛を依頼したいのです」
「道は単純、敵もいない…はず」
アリアは少しの間、黙ってから訊いた。
「もし襲撃されたら?」
セルヴァは少しだけ目を細め、主人公の方を見た。
「…それは、誰かが中身を知っていた場合のみ」
窓の外では、風見鶏がゆっくりと揺れていた。
街は笑っていた。だが、その笑みはすべて仮面だった。
宿に戻ると、アリアは彼を見つめた。
「…あなたも気づいてるのね。何か、おかしい」
彼は答えず、壁に指を伸ばして、音もなく封のルーンを描いた。
その符号は、こう告げていた。
——聞かれている。ここには目がある。
アリアは震えた。
優しかった街の笑顔の裏に、冷たい刃が潜んでいると、初めて実感した。