第11章 — 夜の予兆
> 空は嵐を予兆していなかった。
だが風は、世界がまだ知らぬ何かを理解しているように吹いていた。
古びた小道を進む途中で、彼らは見つけた。
倒木の根に腰を下ろし、草履の紐を直している老人。
その衣は継ぎ接ぎだらけで、杖も擦り減っていた。
だが、その目にはまだ、見るべきものを見極める光があった。
「おや……この辺りで人を見かけるのは随分久しぶりじゃ」
老人は顔を上げて言った。
アーリアは丁寧に頭を下げた。
「通りすがりです。最寄りの町を目指しています」
「バーンかの。干上がった岩を越えて三日ほどかかる」
老人は答えた。
「わしもそこへ向かっておる……この足が保てば、じゃがな」
老人は男を見た。
その視線は長くは留まらなかった。
冷たく、深く、名を持たぬものが通り抜けていった。
「あやつ……生きている匂いがせん。
かといって死でもない。
時間そのものに忘れられたようじゃ」
アーリアは一歩近づいた。
「彼は話しません。けれど、私を助けてくれました。
そして今も……沈黙のまま、導いてくれているのです」
老人は口元に微笑を浮かべた。
「言葉を持たぬ者が、最も誠実な行動を示すこともある」
老人は彼女をじっと見つめた。
「おぬしには……温かさがある。ただの優しさではない。
魂の熱じゃ。闇と共に歩むには、あまりに眩しい光だ」
だが、老人は彼らの関係を問わなかった。
棺を引きずる男と、神を持たぬ司祭が共に歩む理由など——
問うても意味はないと悟っていた。
「わしの歩みは遅いが、それでもよければ、共に行こうかの」
主人公はアーリアを見た。
彼女はうなずいた。
こうして、旅の道に初めて別の影が加わった。
老人は多くを語らなかった。
だが、その言葉は重く、静かに深く染み込んだ。
「……沈黙には、時として叫び以上の意味がある。
声なき存在が、空気を変えることもあるのじゃ」
主人公は先を歩き、変わらぬようでいて、時折焚き火の近くに彼を許した。
老人は男の右目がほのかに光るのを見た。
「おぬしの背負うものは……常人の重荷ではないな。
だが、あの娘が傍におれるのなら、まだ救いはあるのかもしれん」
誰も返事はしなかった。
だがその夜、炎は穏やかに燃えていた。
あたかも、複数の物語が静かに共存していたかのように。