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マル=ハディールの風は冷たく  作者: ユフランティー
7/7

昏き時代の学び舎

 ビーフシチューを平らげ、バゲットの最後の一切れでソースを拭い取ったエルドリックは、満足げに息をついた。


 木製の椅子に深く腰を沈めると、隣の古新聞の束から適当に一紙を引き抜く。

 その紙面には黒ずんだインクが滲み、角は軽くちぎれかけていた。


 ――『時代遅れの無法者、縛り首になる』

 そんな見出しが、皺の寄った一面の隅に大きく刷られている。


 記事によれば、かつて西部の果てで列車強盗や保安官殺しを繰り返していた男が、

 とうとう長年の逃亡生活の末に逮捕され、今朝、カンザック準州にて絞首刑に処されたという。


「開拓の夢も、もう随分と昔の話ってことか……」


 エルドリックはそう呟きながら、タバコに火をつけ、立ち上る煙を見つめた。

 紙面の写真には、捕えられた男の険しい顔が映っているが、既に歴史の余白に沈んでいくような虚ろさがあった。


 文明が進み、鉄道が内陸を貫き、空を飛ぶ機械すら語られるこの時代――

 もはや“無法者”などという存在が新聞の片隅を飾ることすら、珍しいことになってきていた。


 背後のテーブルでは、ミラトワ人の客たちがグラスを鳴らしながら陽気に談笑している。

 流れるミラトワ語のアクセントが、どこか自分とは別の時代に属しているようで、エルドリックは微かに笑った。


 かつては西部が、夢と恐怖と野望の坩堝であった。

 だが今や、歴史の主役は変わりつつある。いや、もう変わったのだ。


 彼は新聞を畳み、カウンターの上にそっと置いた。

 グラスの水を一口含んだあと、ふと遠くを見るような目をして、こう呟いた。


 店を出ると、街はすっかり夜の帳に包まれていた。

 レンガ造りの建物が連なる通りにはガス灯が灯り、ぼんやりとした橙の光が石畳を滲ませている。


 肌寒い風が通りを撫で、エルドリックはコートの襟を立てた。

 くわえたタバコの火が、小さく赤く瞬いて、消えそうに揺れる。


 この街も、かつては木造の酒場と荷馬車ばかりだったという。

 今では電気の灯りと路面鉄道が通りを貫き、馬の蹄の音よりもブレーキの軋む音の方が馴染みになっている。


 舗道を歩く足元に、新聞紙が一枚、風に吹かれて舞い踊った。

 さきほど読んだ“無法者”の顔が一瞬だけ目に入り、彼はふっと笑う。


 ――ああいう男も、帰る家があったのかもしれない。


 角を曲がると、ちょうど路面列車がレールの上を軋らせて近づいてきた。

 ボディの緑色は煤けているが、窓から漏れる灯りはどこか安心感を与える。


 エルドリックは停車するのを待ち、ステップに足をかける。

 中にはミラトワ訛りの老婦人が毛糸編みに集中し、学生服の若者たちが小声で議論を交わしていた。


 彼は空いた席に腰を下ろし、額の汗をぬぐってため息をひとつ。


 列車が再び動き出し、車輪がレールの継ぎ目を踏むたびに、一定のリズムが夜を刻んでいく。

 街灯が過ぎ、赤いポストが過ぎ、やがて彼の住む静かな地区へと、列車は向かっていった。


 鍵をひねる音と共に、エルドリックは玄関の扉を開けた。

 昼の陽射しの名残もない静まり返った家が、彼を無言で迎える。


 玄関脇のポストには数枚の手紙が押し込まれていた。

 彼はそれを無造作に抜き取り、玄関ホールの壁にかけられたランプに火をともす。ほのかに揺れる光が手紙の封を照らす。


 一枚、二枚。どれも見慣れた筆跡だ。

 ――母親からだ。


「またか……」


 そう呟くと、彼は溜息をついて封を切った。

 中にはいつものように、農場の様子と“お前が家を継ぐべきだ”という淡い脅迫じみた言葉が並んでいる。

 だがエルドリックの表情に変化はない。


 まるで新聞の天気欄でも読むかのように一読し、彼は手紙を握ったまま奥の居間へと進んだ。


 ランプを各部屋にともして歩きながら、靴を脱ぎ、コートを壁のフックに掛ける。

 居間の中心に据えられた暖炉に薪をくべ、火を点けると、静かに焚き木が爆ぜる音が部屋を満たした。


 手紙はそのまま火の中に放られた。

 紙がくるりと丸まり、炎に包まれて黒く崩れ落ちていくのを、彼は無言で見届けた。


 暖炉の上には古びた地図や、絵画ではなく古代文字の写しが額装されている。

 書棚にはファイルと革表紙の本が所狭しと並び、中央の机には山のような資料が積まれていた。


 エルドリックはコーヒーの入ったポットを取りに行くと、椅子に深く腰を下ろした。

 ランプの明かりに照らされながら、分厚い書物をめくる指は疲れを知らず、目は文字の奥にある何かを探しているかのようだった。


「……“マル=ハディール”……」


 静かに、そして確かにその村の名前を口にする。

 耳には夜風の唸りと焚き木の弾ける音だけが届いていた。


 ノークロス合衆国の片隅。

 誰もが眠るこの時間に、ひとりの男だけが、記録にも残らぬ村の謎に爪を立てていた。


 時計の針が夜の深さを告げるたびに、家の中は静けさを深めていく。


 エルドリックは分厚い書物のページをめくる手を止め、机の上にひとつの古びた写本を広げていた。

 それは帝国の辺境にあったという“忘れられた村”に関する断片的な記録――言語の崩れた碑文、意図の読めぬ祈祷句、位置も明確でない地図の走り書き。


 彼の目がわずかに血走っている。

 眠気ではない。むしろ理性の奥に巣くう何かが、今も彼を突き動かしていた。


「この地形……いや、川の向きが違う。……じゃあこれは、別の年代か……?」


 ぼそりと呟いた声はすぐに空気に溶けた。

 部屋の中で唯一動いているものは、ページをめくる風と、燈火の影のみ。


 そして――ふいに、彼の瞳の動きが止まった。


 ある紙片に描かれた図像。

 それは幾何学的でありながら、有機的な曲線が絡み合い、明らかに“意味のある形”を成していた。

 だが、それが何を意味するのか、エルドリックには言葉にならなかった。


「……見覚えがあるような、ないような……」


 首を傾げた彼は、机に突っ伏すようにして続きを読もうとした。

 だが、次の瞬間にはその肩が微かに上下し、長い吐息とともに動きを止めた。


 彼は眠っていた。


 積み上げられた紙の山の中。

 夜の帳は深く、外の街路には人影もない。

 ランプの灯だけが、書斎の中で細く長く、彼の顔を照らし続けていた。




● ● ●




 ――眩しさが、まぶた越しに入り込んできた。


「……ん、ああ……っ!」


 エルドリックは唐突に目を見開いた。

 頭の中で、どこか間の抜けた警鐘が鳴り響く。


 壁の時計を見やる。長針と短針は、もうすでに午前の講義開始時刻をとっくに過ぎていた。


「ま、まずい……またか……!」


 眠気と罪悪感の入り交じる声を上げながら、彼は書類の山を掻き分けて立ち上がった。

 机の上には、ぐちゃぐちゃになった資料とインクのシミ。おまけに、顔には紙の跡がくっきり残っていた。


 シャツのボタンをかけ違え、靴を左右逆に履きかけたところで、エルドリックはようやく我に返る。


「違う、こっちが右足だ……落ち着け、俺……いや落ち着いてる場合か?」


 上着を羽織り、書きかけのレポートをカバンに詰め込むと、彼は玄関のドアをバンッと開けた。

 いつもの通りに灯油ストーブの火はつけっぱなしだったが――そんなことに気づく余裕は、今の彼にはない。


 石畳の道を、靴音を鳴らしながら駆けていく。

 街の空は抜けるように晴れており、ミラトワ語を話す住民たちの姿が朝市の広場を賑わせていた。


 鼻に抜けるパン屋の香ばしい匂いと、道ばたで売られる果物の甘い香り。

 だがエルドリックには、それらを楽しむ余裕もない。


「くそっ、ああ、ハーバート教授の目の前で寝癖がバレる……」


 彼はひとりぶつぶつ言いながら、手で髪をぐしゃぐしゃと整えるフリをしつつ、路面列車の乗り場へと走る。

 列車はちょうどホームに滑り込んできたところだった。


 すんでのところで乗り込んだ彼は、満員の中でゼエゼエと息を吐きながら、窓の外に流れる街並みに視線を向けた。


 その目には、焦燥と後悔と、ほんの少しの諦めが混じっていた。


 ――どんなに“古の謎”を解く夢を見ても、現実の朝はこうしてやってくる。

 それが、変わり者考古学者の、変わらない日常だった。


 大学の構内に駆け込んだときには、すでに一限の講義は始まって久しかった。

 朝の空気は清々しいはずなのに、エルドリックにとっては汗と焦燥の匂いが勝っていた。


 石造りの廊下を足早に進むと、講義棟の角、ちょうど自分の研究室の前に――いた。


「……おはようございます、エルドリック君」


 ハーバード教授が、腕を組んで静かに立っていた。銀縁の眼鏡越しに向けられる視線が、突き刺さるように痛い。


「せ、先生、あの、ちょっと目覚ましが……いや、昨夜は資料の確認が立て込んでおりまして、その、睡眠時間が……」


 エルドリックは必死に口を動かすが、言葉はバラバラに空を切り、まるで論文になっていない。

 それどころか、ボタンはかけ違えたままだった。


「――聞き飽きたよ、その言い訳は」


 教授の声は冷たくはない。だが確かに、落胆が込められていた。

 それが、かえって胸に刺さる。


「君は優秀な研究者だ。だが、それ以前に大学人としての自覚を持たねばならんよ。

 学問はロマンだが、ロマンに溺れることは愚かだ」


「……はい」


 エルドリックが小さく頭を下げたその横で、若い助手のマイケルがぼんやりと腕を組んでいた。


「またですか、教授。これで今週三回目です。というか、この人まともに来た日ありましたっけ?」


 若者らしい口調でそう言う彼の目は、呆れと苦笑がない交ぜになっていた。


「ちょっとマイケル、それは――」


「いえ、事実ですから。あと、ベスト、裏返しですよ。……ボタンもズレてます」


 エルドリックは言葉を失った。


「……それは、アカデミックな戦闘服の乱れだ。今から整えるつもりだったんだよ」


「詭弁です。教授、僕、先に講堂行って準備してますね」


 マイケルはそう言い残し、ひらひらと手を振って先に階段を下っていった。

 背中越しに、ふっとため息が聞こえた気がする。


「……君は、君のやり方でしか動けないのだろう。だが、それならそれで、せめて成果を出してくれ」


 教授はそう言い残して、歩み去っていった。

 階段の先に背中が消えるまで、エルドリックは立ち尽くしていた。


 学問の夢と、現実の規律。

 それらが両立しないことは、彼が一番よく知っていた。


 講義室へと駆け込んだエルドリックは、まず壁際の姿見に自分の顔を映した。


 寝癖は最早アートの域に達していた。髪の一房が不自然に跳ね上がり、まるで思想そのものが物理的に飛び出してしまったかのようだ。


「……革命的だな」


 ぽつりと呟いた後、鞄の奥からポマードの小瓶を取り出す。掌にすくった艶のあるそれを、手早く髪に塗り込んでゆく。

 どうにかこうにか、横に跳ねた主義主張を抑え込み、最低限、学者然とした風貌を取り戻す。


 シャツのボタンはかけ直し、裏返しだったベストは素早く表に。

 首元にネクタイをぐるぐると巻き、鏡の前で「よし」と息を整えた。


「――完璧だ。学問に必要なのは知識と…まあ、ある程度の体裁だ」


 講義室の扉を開けると、学生たちがすでに座って彼の到着を待っていた。

 ざわついた空気が一瞬止まり、そして「ああ、今日もやっぱりギリギリだな」という安堵混じりの空気が広がる。


 エルドリックは胸を張って教壇に立ち、ノートの束をパラパラと広げた。


「諸君、おはよう。私は寝坊などしていない。これは――英気を養っていたのだ」


 学生たちの間に苦笑が広がった。もう慣れっこなのだろう。


 エルドリックは咳払いひとつ。


 チョークを手に、エルドリックは黒板の中央に大きく記した。


 「バトラム帝国:五百年の光と影」


「さて諸君、本日の講義は──現在もなお地中海世界にその威信を保つ、バトラム帝国についてだ」


 彼の声が講義室に響くと、数人の学生が姿勢を正した。

 重厚な題目のわりに、エルドリックの口ぶりはどこか軽妙だ。


「帝国とは常に“外からどう見えるか”と“中で何が起こっているか”の乖離に悩まされる存在だ。バトラム帝国も例に漏れず、その隆盛の背後には数え切れぬほどの政争、改革、そして奇妙な宗教運動が渦巻いてきた」


 彼は手早く年号をいくつか書き並べていく。


「建国は15世紀半ば、あの“紅い暁の年”と呼ばれる内乱を経て──そう、あの有名な“カルセイドの海戦”だね──半島南部に拠った地方軍閥が一気に帝権を掌握したのが始まりだ。…あの時代にしては珍しく、交易と法の整備が国家形成の中核になっている点が非常に興味深い」


 学生の一人が手を上げる。


「先生、それは現代のバトラム帝国が他国と比べて世俗的な統治をしている理由と関係がありますか?」


 エルドリックはにやりと笑った。


「お、君はいつもいいところに気がつくね。…関係“大あり”だ。例えば、帝都にある官僚試験制度──これは17世紀の改革家サーミルによる“世俗の学びによる神命への奉仕”という理論に基づいている。宗教と政治の住み分けは、見た目以上に哲学的な議論の産物なんだ」


 そう言いながら、彼は黒板に円を三つ描く。


「さて、ここからが私の好きな話だ。バトラム帝国と“神話的正統性”との関係だよ」


 学生たちがざわめく。


「帝国の古文書には、『最初の光は塔より降り、剣を携えし者が影を掃った』とある。あまりに詩的すぎて歴史家の多くが“例の古代神話”の再解釈だと片付けるんだが、私は違うと考えている。これは記録だ。つまり──」


 彼の目が輝き、声が少しだけ高くなる。


「この帝国には“実際に影を掃った者”がいたということだ」


 マイケルがため息交じりにノートへとペンを走らせたのを、彼は気にも留めない。


「いいかね? 歴史というのは、“ありそうな話”が真実とは限らない。“あり得ない話”こそが真実かもしれないんだよ」


 最前列の学生が手を上げた。眼鏡をかけた理知的な青年だ。


「先生、興味深い話ではありますが──」


 彼は声を抑えながらも、明確に言葉を選んでいた。


「“剣を携えし者”とか“影を掃った”といった話は、歴史というよりは神話、もしくは寓話と捉えるべきかと。

神秘的な要素が関与しているという主張は、学術的には少々……説得力に欠けると思います」


 教室の空気がふっと軽くなる。誰かが笑い声を漏らし、それが連鎖して数人の学生に広がった。


 エルドリックは口を半開きにしたまま、数秒間沈黙した。


 ──やれやれ、またか。


 そんな思いが胸をよぎる。


「……ふむ。まあ、そう言われるとは思っていたよ」


 咳払いを一つしてから、彼はチョークを黒板に置いた。

 やや苦笑気味の口元が、しかし次第に熱を帯びていく。


「確かに“影を掃った”なんて言葉は、神秘的すぎる。私の言うことが“学術的ではない”という批判は正しいとも言える。

でもね──」


 彼は黒板に描いた円の一つを指で叩く。


「過去に神秘とされていたことが、科学や考古学によって後に“史実”として認められた例は、いくらでもある。

太陽神話も、ノアの洪水も、大地の断層も、最初は“作り話”だと思われていたんだ。だが、実際には何かしらの“記憶”がそこにあった。

私が言いたいのは、歴史学者として“語られたこと”をすべて切り捨てるのは傲慢ではないか、ということだよ」


 笑っていた学生たちが、徐々に静かになっていく。


「……君たちは、まだ若い。だから現実的な枠組みで世界を理解したくなる。

だが、時に世界は、我々の理解の枠をはみ出すこともある。

“事実”というのはね、単なる数字や証拠の積み上げではない。

それが“なぜ残されたのか”“なぜ語り継がれたのか”──そこにこそ真実が宿ることもあるんだ」


 彼は深く息をつき、肩の力を抜いた。


「……まあ、伝説を真に受ける酔狂者の話だと思ってくれて構わない。だが私には、信じるに足る理由がある。それだけは、覚えておいてくれ」


 教室はしんと静まり返っていた。誰も次の言葉を投げることはなかった。


 エルドリックは一瞬だけ遠くを見るような目をしてから、淡く笑みを浮かべて言った。


「──さあ、話を戻そう。バトラム帝国の財政改革と海洋貿易網について、次は話すとしようか」


 エルドリックは、黒板に向き直り、素早くチョークで長い弧線を描いた。地中海から紅海へと至るその線は、今なお国際秩序の要とされる「ある一点」を指し示していた。


「──さて、バトラム帝国がいまだにその影響力を維持している最大の要因のひとつが、このスエズ運河の支配だ」


 彼はチョークを置き、手を後ろで組んでゆっくりと教室を見渡した。


「通商国家ノークロス合衆国をはじめ、ミラトワ共和国、イベリア連邦、東ランド商会……

あらゆる海運大国がこの細い水路に依存している。なぜか? それは簡単だ。ここが“世界の喉元”だからだ」


 エルドリックは、机の上から木製の指し棒を取り出し、世界地図に赤線を引いた。


「バトラム帝国は海軍力においては一時期衰退した。

だがこの運河の管理を民間ではなく“聖務庁”──つまり半ば宗教的機関の手に握らせたことで、単なる軍事ではなく“信仰と物流”を繋げる権力装置とした。

結果、運河を通るすべての船は、形式的にではあれ帝国の名の下に通過許可を得なければならなくなった。

この儀礼と書式が、地味に効いてくるんだよ……!」


 学生たちは徐々に前のめりになってきていた。神秘に眉をひそめていた者たちも、ここには現実の力学があると理解している。


「近代では各国が形式上この“聖なる通過証”を簡略化しようとしたが──」

 エルドリックは笑って肩をすくめた。


「──帝国は抜け目ない。“通過証を省略してもよいが、皇帝の紋章を掲げた礼砲を撃つこと”という伝統が今も残っている。

これを怠れば、運河内での優先順位を下げられ、場合によっては“検査”と称して停船させられる」


 小さくどよめきが起こる。


「国際社会はそれを“儀礼”として扱っているが、実質的には“通行税”と同義。しかも宗教的意味付けが加わることで、異教国であっても抗議しにくいんだ。

──これが、バトラム帝国が武力でなく“しきたり”と“神威”で今も大国である理由の一つさ」


 エルドリックは指し棒を畳み、机に戻した。


「覚えておいてくれ。歴史の中で、海を支配した者が時代を動かした。

だがその海の“扉”を支配する者は、時代を超えて君臨する──となると、我々はまだこの帝国の時代の中に生きているのかもしれないな」


 講義の終わりを告げる鐘が鳴った。


 学生たちは、静かにノートを閉じ、思い思いの表情で席を立った。先ほどの笑い声は、もうどこにもなかった。


 学生たちがまばらに退室していく中、マイケルは教壇の資料を手早く片付けていた。羊皮紙と綴じられた写本の山を抱えながら、彼はぼやく。


「教授、次はもうちょっと普通のテーマにしてくださいよ。バトラム帝国に“神話的構造”がどうとか、また図書館で顔しかめられますよ」


 だがエルドリックは苦笑するばかりで、返事の代わりに机の下から転がったインク壺を拾い上げた。


 と、その時。


 講義室の扉の前に、誰かが立っていた。


 それは一人の女生徒だった。学生の一団とは違う、明らかに異質な気配をまとっている。彼女の名はクレタ・ヴォロノーヴァ。ボルショイ帝国──凍てついた北の大国──の出身で、古い貴族の家柄に連なる娘だと噂されていた。


 だが、その姿は想像される“貴族の令嬢”の像からは大きく外れていた。


 肌は雪のように白く、黒髪は頭頂部でまとめられ、前髪だけが額に影を落とすように切り揃えられている。

 濃紺の長衣には襞が深く入れられ、古風な肩掛けがそれを覆っていた。背筋はまっすぐだが、どこか怯えた小動物のような静けさを漂わせていた。


 手には革の表紙に銀細工を施したノートを抱えており、その表紙の端は何度もめくられたせいで角がほつれていた。


「……教授、よろしいでしょうか?」


 小さな、しかし濁りのない声。エルドリックは驚いたように眉を上げ、それから笑った。


「おや、ミス・クレタ。君が質問に来るとは珍しい。

 君も歴史の“裏側”に興味を持つとは。何か気になることでも?」


 クレタは一瞬だけ俯いたが、やがて目を上げた。その瞳は澄んだ灰色で、どこか深淵を覗いているかのような奥行きがあった。


「……“人が海を渡ってきた”という神話について、教授はどうお考えですか?

 ボルショイの北方地方に、古い伝承があります。

 ──“北の氷海から光を連れてきた者たちが、大陸に最初の町を築いた”と。

 もちろん、きっとそれはただの民話ですけれど」


 その言葉に、マイケルが資料棚の裏から顔を出す。


「……教授、まさか変な仲間を増やしてません?」


 エルドリックは肩をすくめた。


「やれやれ。知的好奇心を“変な仲間”呼ばわりとは。僕はただ、心惹かれる物語を追っているだけさ」


 クレタは口元だけでうっすらと微笑んだ。笑っているのかどうかも判然としない表情だったが、それでもどこか温かみがあった。


「……子どもの頃、父にその話をするのを禁じられていたんです。

 “火を灯すもの”や“星を読む女たち”──そういうものは、帝国の学では“過ち”とされているから。

 でも……教授の講義で少し、勇気が出たんです」


 エルドリックは静かに頷いた。


「神話もまた、人間の残した記憶の一部だ。

 忘れられた記憶のなかに、時として真実が眠っているのかもしれないね」


 クレタは一礼し、静かにその場を辞した。マントの裾が床をかすめる音だけが、教室に残された。




● ● ●




 午後の研究室。窓の外では柔らかな日差しが差し込み、路面電車の鈍い音が遠くに響いていた。埃をかぶった書架の隅に、エルドリック・ウォースリーは座り込んでいた。


 片手に古びた文献、もう片方には包み紙を開いたベーコンとチーズのサンドイッチ。


「……食べるときくらい手を止めたらどうです?」


 助手のマイケルが肩をすくめながら声をかけ、もう一つのサンドイッチを机の上にそっと置いた。


「忘れてたでしょう? 朝から何も食べてない顔してましたよ、教授」


「ありがたい。君はまさしく天使だ。……いや、今だけね」


 エルドリックは軽く笑みを浮かべるが、視線は資料から一向に外れない。パン屑をこぼしながら鉛筆を走らせる。


「北の氷海から光を連れてきた者たち……これは旧バトラムの時代よりもさらに古い言及かもしれないな。いや、それとも、もっと象徴的な……」


「……だから、なんで教授の独り言っていつも演劇じみてるんですか……」


 マイケルが呆れたように呟いたそのとき、研究室の扉が控えめにノックされた。


「入ってるよー」とマイケルが返すと、ドアがそっと開く。


 現れたのは、清楚な印象の女性──白いブラウスに長いスカート、黒髪を丁寧に後ろでまとめた姿。その表情にはどこか控えめな優しさが漂っていた。


「マイケル、……もう少しで講義終わるって言ってたから、迎えに来たの。いい?」


「ああ、ちょうど今、教授にサンドイッチを押しつけてるところだった」


 女性はにこりと笑った。彼女の名前はアニエス・フォルティエ。心理学部の若手講師であり、マイケルの恋人だ。


 エルドリックはその光景を眺めながら、ほんのわずかに眉を上げて言った。


「……どうやら、恋人に迎えられる助手というのは、一流の証かもしれないね。君は見込みがあるよ」


「えぇ、そりゃもう、教授と違って私には人並みの生活がありますから」


 マイケルは即座に言い返しながら資料を整え始めると、アニエスが横から口を挟んだ。


「すみません、教授。マイケル、今日は一緒に映 演劇を観る約束だったよね?先に出てるからね?」


「うん、すぐ行く」


 アニエスが再び微笑み、ドアを閉じて出ていった。


 その余韻の中で、マイケルは深くため息をついた。


「……さあ、教授。私はこれで非神秘的な世界に戻ります」


「気をつけてくれ。君の非神秘的な世界のほうが、よほど奇怪だったりするんだから」


 エルドリックはサンドイッチをかじりながら、再び資料の海に沈み込んでいった。マイケルがドアを閉めると、部屋には紙の擦れる音と、古文書の匂いだけが残った。

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