赫き終焉
剣と剣がぶつかり合うたび、空気が震える。
石床には亀裂が走り、積み上げられた書や装飾品が次々と散らばっていく。
だが、ムラトは怯まない。
戦いの中に生まれるかすかな律動を感じていた。
「――今だッ!」
踊るように身を翻す。
剣先が曲線を描き、脇腹へと斬り込む!
刃が肉を裂いた。
金属のような甲殻が砕け、そこから――
白濁した液体が飛び散った。
赤ではない。
どろりと重く、油のように照りつく、不気味な白。
まるで命の熱を持たぬままに、
ただ「機械的に漏れ出す」だけのそれは、血とは呼べぬ何かだった。
「……お前……」
ムラトが息を呑む。
剣を引き、後退しながら目を見開いた。
斬られた側のジャリールは、痛みを訴えなかった。
代わりに、口元が僅かに吊り上がる。
それはかつての微笑とは違う、人の顔を真似た“表情”だった。
「見たか、ムラト。
この身がもはや、人の法則から解き放たれたという証を」
傷口から垂れ落ちる白濁の液は、床に触れるとじわじわと煙を上げて腐蝕していく。
その下から現れたのは――黒い“根”のような模様。
まるで何かを“下から這い上がらせる”かのような、禍々しい痕跡だった。
だが、ジャリールは倒れなかった。
むしろ、それを悦ぶように笑みを浮かべた。
「……祝福だよ、これは。かつて私が見た夢と同じ。
紫の海で子羊が三度跳ね、
空は垂れ下がる舌となって我を嘗めた……」
声は確かに、ジャリールのそれだった。
だが――意味が、繋がっていない。
言葉は整っているのに、思考の道筋が無い。
「君はまだ円卓の外にいる。
塩に沈んだ頭蓋を穿ち、十字の目で見よ。
指は増え、音楽は骨の笛で奏でられる……それが、始まりだ」
ムラトは息を呑んだ。
その“言葉”は、耳ではなく内臓で聞こえるような錯覚を伴う。
「我々は、まだまだ“人”に包まれている。
それを剥がして、脱皮しなければ……。
君もそうだろう? あの陽光の下で、臍の緒を引きずっていたのだから……」
顔面が崩れ、複眼と繊毛が露出する。
舌は三つに割れ、口から歯が逆さに生えてくる。
「ジャリール……」
ムラトが名を呼ぶ。
「……ああ、懐かしい名だ。
けれど今の私は、もっと広い名前を持っている。
君には言えないよ。言ったら、君が壊れてしまうから……」
それでも語り続けるジャリールの“言葉”は、もはや宗教の詩篇にも似ていた。
「光の孔雀が火を孕み、
骨の花が口づけを与える
罪なき者が囁くとき、水は時間に沈むだろう……」
――理解できない。
けれど、その言葉は魂に触れてくる。
ムラトは、刃の冷たさで自らを保つように曲刀を構えた。
骨が軋む音とともに、ジャリールは膨張を始めた。
人間としての構造は、皮を剥ぐように解体され、
その内奥から──何かが、生まれた。
それは蟲のようで、そうではなかった。
羽毛のような鱗、内側から歯の生えた翅、軟体の足が百足のように地を這い、
その中心には、溶けかけた人面を思わせる“仮面”が浮かんでいた。
「……ッッ」
ムラトが息を呑むと、
“それ”が語りかけてきた。
言葉ではなかった。
空気が震え、骨が軋み、胃がねじれる。
声帯ではなく、“存在そのもの”が語っていた。
それでもムラトには、「聞こえて」いた。
いや、「理解しようとしてしまった」のかもしれない。
脳が焼けるような錯覚とともに、意識の奥底に──“意味”が押し込まれてくる。
「グ=イラルフの岸辺に立ち、血のない月を仰げ。
そのとき、君の名前の音は“網”となり、
我が触腕を釣り上げるだろう……」
理解不能。
だが、どこかで「自分が何を言われたのか」を察している自分がいる。
それが──恐ろしい。
“それ”は変わり続ける。
繭を脱ぎ、何度でも姿を変える。
そのたびに、語られる“詩”もまた、形を変えた。
「焔の旋律を噛みしめよ。
光は苦しみ、黒は産声を上げる。
君の骨が私を産むのだ──
さあ、ムラト……我に還れ。」
“それ”は、膨張を止めなかった。
肉の繭を一つ、また一つと吸収しながら、
元・ジャリールの肉体は、広間全体に満ちていく。
天井を突き破り、壁を飲み込み、
ぬるりと這う肉の波が、根を張るように空間を支配する。
その中には、ハッサンだったものの面影もあった。
瞳の形、頬の骨格、呪詛のような微笑み──
だがそれは、すでに「人間」の文法で記述できるものではなかった。
“それ”はなおも語りかけていた。
「ウ=リュク・イェン・フォル=ザフ……
……タル=サマフ、クナフ・ムラト……
……アア、帰還ノ時──、イザナワレ、ヲ我ガヌメリヘ」
通じない。通じたくない。
ムラトは、理解を放棄した。
意味を探ることは、心を差し出すことだ。
それは、彼の生きてきた全てを否定することになる。
だから彼は、ただ一つの言語で応じた。
「……ジャリール。お前がどう変わろうと……」
「俺は人間として、お前にケリをつける」
ムラトは腰の革袋を開き、
中から取り出したのは、黒い火薬を詰めた手製の陶器玉。
爆薬──火と煙をもって“語る”人間の言葉だ。
そして床に転がっていた松明。
まだくすぶっていたその炎を、
彼は祈るように──いや、呪うように投げ放った。
火薬玉が巨大な肉塊にめり込む。
一拍遅れて──
ドォン!という衝撃が石床を震わせ、
火柱が、異形の胸腔を焼いた。
肉が爆ぜ、脂が飛び散り、
天井からは焦げた繭が降り注ぐ。
“それ”は、咆哮した。
「――ウ、ア、ァアアアアアアア!!」
それは言葉ではなかった。
だが確かに、「痛み」だった。
人ではない何かが、確かに痛みを感じ、叫んでいた。
そのことが──なぜか、ムラトの胸を締め付けた。
爆炎の中に立っていた“それ”は、なおも燃え続けていた。
肉は黒く炭化し、煙を上げながらも、
その内側から、新たな皮膜が蠢き、次の形態が芽吹いていた。
もはや止まらない。
──これが「至る」ということか。
ムラトの目に映ったのは、
もはやジャリールの面影を完全に失った、“肉の塔”だった。
ズズ……ッ!!
音を立てて天井を突き破り、
“それ”は空へと腕を伸ばす。腕なのか、角なのかも分からない。
その全身から、響いた。祈りの言葉が──
「ユウ・ナザハ・リシュ……!
アリフ・バ・ティフ=ザフラ……!
アア……シャンヤ=シャク! 来タレ、来タレ!」
声は肉を通してではなかった。
空気が震え、骨が共鳴し、魂が押し潰されるような音だった。
その瞬間だった。
まだ昼であるはずの空に、“星々”が瞬いた。
だがそれは星ではない。
光だった。近づいてくる光。
無数の、神秘の尾を引く光球たちが、
大空からまるで雪のように、静かに降ってきていた。
それは美しかった。
あまりにも静謐で、尊く、そして──
破壊的だった。
最初の一つが、“それ”の肩に触れた瞬間。
光は音もなく皮膚を剥ぎ取り、そこにあった全てを蒸発させた。
「グ、ア……ァ……」
呻くような咆哮が、崩れた喉から漏れ出す。
だが祈りは止まらない。
“それ”は、なおも天を仰ぎ、手を伸ばし続ける。
「……タル=アザフ……ザハラ……!
イザナヘ、我を、我を……!」
星々は答えなかった。
ただ淡々と、次から次へと降り注ぎ、
“それ”の体を削り取り、祈りを否定していく。
皮膚が裂け、骨が露わになり、
その骨さえも、金の粉のように消えていく。
そしてムラトは、そこに見た。
ジャリールの「顔」だったものが、
かすかに微笑みを浮かべながら、星に消えていくのを──
ズゥゥ……ッ……グォオオ……!!
天を穿った“肉の塔”が、崩れ始めた。
軋む音は木造でも石でもない、
粘膜と筋肉と骨の構造物が断裂していく、不快な響きだった。
「……チッ!」
ムラトは踵を返す。
天井から垂れていた赤黒い腸のようなものが、砕けた梁と共に落ちてくる。
血とも膿ともつかぬ液体が宙を舞い、肉の雨が降った。
走れ。
足場は滑る。煙たい。
だが崩落は容赦なく迫ってくる。
背後で地響きとともに肉塊が落下する音。
それはまるで、地面を呑み込むかのような迫力だった。
ギィイ……ィィ……ゴオ……ン!
かつて“人”だったものの亡骸。
かつて“信じたもの”の塔が、その意義を失って崩れ去っていく。
ムラトは、ぎりぎりでその瓦礫の海から飛び出した。
背後を振り返ると、あの館は──
もはやただの、赤黒い肉と灰と瓦礫の山だった。
息をつく。
そして、崩れた中心で最後まで天を仰いでいた“それ”の顔を、
ほんの一瞬、幻のように見た気がした。
──笑っていた。
「……ウァァァァァアアアアアアア──ッ!!!」
それは遠く、いや、近くからも聞こえた。
村の中の至るところで“それ”は咆哮となって噴き上がった。
──神を失った祈り人たち。
繭から這い出た白濁の肉を喰む者たち。
肌に奇怪な文様を刻み、目を潰しながらも天を仰いだ者たち。
“祈り”という呪文を叫びながら、己を肉塊へと変えていった者たち。
そのすべてが、今、声をひとつに叫んだ。
「ンンン゛ァアアアア──アアルゥゥゥゥゥ──!!」
「……くそっ……!」
ムラトは血のついたマントを翻し、全速力で瓦礫と炎の村を駆け抜けた。
四方から押し寄せてくる人ならぬ者たち。
人間の形をしたもの、
人間の形を忘れたもの、
ただ眼球だけを無数に生やした塊のようなもの──
それらが一斉に、“神を喪った空”に泣き叫び、そして喰らい始めた。
何を? 誰を? それは分からない。
理性が砕けた脳にとって、すべては“食物”だった。
今は生きて、逃げることがすべてだ。
燃える廃屋の隙間、
崩れた橋の木材を飛び越え、
焼けただれた井戸の横を駆け抜ける。
背後で──“人間”の絶叫と、“神の死”を悼む嘆きが混ざり合っていた。
それはまるで、この地そのものが泣いているかのようだった。
「……ッ、はあっ……!」
脚がもつれる。肺が焼ける。
だが止まれば、すぐ背後のどこかに──
“まだ変態しきっていないなにか”が牙を剥いている。
村の外れ、森の影が見えた。
空は薄らと色づいていた。
それでも、叫び声は止まらない。
それは──祈りではなかった。
もう、祈る相手すらいない。
ただ、発狂し、飢え、壊れた喉を震わせているだけの声だった。
森が、呻いていた。
焼け落ちた村の影を抜け、ムラトが辿り着いたその先──
風が吹いているはずなのに、木々は一切揺れていなかった。
空気は重く、ぬめりを帯びた呼気のように肺に絡みつく。
「……くそ……ここまで……」
誰にともなく吐き捨てた言葉は、霧の中へと沈んでいく。
森の中は、異様な静寂に包まれていた。
だがその静寂は、生きているもののそれではなかった。
枝の隙間──
木の根元──
朽ちた倒木の陰──
そこかしこに白く腫れ上がった肉の繭が、張りついていた。
それは本来この世界には存在しない“温度”を放っていた。
ぬるく、どろりと濡れた、悪意の体温。
「……っ!」
ムラトは、思わず片膝をつく。
目の前の幹に絡みつく繭が、呼吸のように上下に波打っていた。
そして──その中から、なにかが垂れている。
それは手のようにも見えた。
いや、足かもしれない。
いや、どちらでもない。
まるで胎児の臓器だけを引きずり出して固めたような、曖昧な塊だった。
そいつは繭からこぼれ落ち、地面を這っていた。
筋肉のような構造を持ちながらも、動きは虫とも、蛇ともつかない。
「……“不完全”な……変態……」
ムラトは呟く。
あれは、まだ“完成”していない。
だが、あの“完成”とは、いったい何なのか?
理解できぬまま、それでも本能だけは警鐘を鳴らしていた。
背後から聞こえる足音。
──否、人間の足音ではない。
ぬたぬたと、粘液をすり潰すような“それ”が、森全体から寄ってくる。
もはや森は、ジャリールが始めた“新しき祈り”の神殿だった。
祈る者は消え、
肉と化した神だけが這いずっていた。
ムラトは腰の曲剣を握り直した。
天より、光が降り始めた。
それは祝福の光ではなかった。
意志ある裁きのように、無数の光線が森に降り注ぐ。
夜空でも昼空でもない、
青白く透き通った空間の裂け目から、放たれる刃のような光。
「……また、あの時の──!」
ムラトは思い出す。
塔の崩壊とともに天へ逃げた“ジャリール”を喰らった、あの神秘。
あれと同じものが、今度は森を焼いていた。
光は、不完全な変態体を喰らう。
肉の繭が灼けるように裂け、中から滴る白濁した液体が蒸発する。
蠢いていた肉塊は、
静かに、だが確実に“解体”されていった。
悲鳴ではなかった。
理解されることのない何かが、否定される音。
──まるで“大いなる意志”が、それらの存在そのものを拒んでいるかのようだった。
森全体が、“否”という声で満たされている気がした。
祈りの声も止んだ。
白い繭も崩れ落ちた。
あの不完全な存在たちは、ただの“誤り”として排除されていった。
その時、ムラトの本能が告げる。
──今だ。
「走れ……!」
呟くと同時に、ムラトは足に力を込めた。
音もなく燃える森を、剣を手に駆け抜ける。
踏みつけた地面が、肉と灰の混じった感触を伝えてくる。
木々は血のような液体を滴らせ、
天の光が尚も選別を続けていた。
だがムラトは、祈らない。
ただ、走る。
逃れるためではない。
生き延びて、語るために。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
記録は、ここで途切れている。
紙の断面には焦げたような痕。
文字は、最後の一行を境に唐突に終わっていた。
読み手の指が、わずかに震えた。
時は流れ──
1900年代初頭。
蒸気と電力の光が都市を照らす。
だが辺境にはまだ、忌まわしい伝承が口伝えで残る地もある。
書庫の薄暗い一室で、男がページから目を離す。
彼の名は──エルドリック・ウォースリー
考古学者であり、異文化言語の研究者。
丸眼鏡をかけたその姿は、学者然としていながらも、
どこか“忘れられたもの”に対する執念のようなものを湛えていた。
彼の手元にあるのは、未分類のアラブ系手稿の断片。
題名もなく、著者も分からない。
だがその内容は、彼が若き日に中東の遺跡で拾い集めたものの中でも、もっとも奇妙だった。
「また“あの名”が出てきた……」
エルドリックはそう呟く。
指が、ある一節をなぞる。
そこには、異国の筆記体系でこう記されていた。
──『マル=ハディールの風は冷たく』
彼はふと窓の外を見た。
空は晴れわたり、蒸気機関の汽笛が鳴っていた。
この話は、今や現地ではただの“お伽話”とされている。
人が異形に変わり果て、神の光がそれを拒んだという、荒唐無稽な逸話。
だがエルドリックは、確信していた。
これは記録であると。
薄暗く埃っぽい部屋には、所狭しと古びた地図や皮表紙の書物が並んでいた。そこにひときわ熱のこもった視線を向けているのが――
「――よし。やっぱり“冷たい風”って表現が鍵なんだよな。位置は確かにこの辺だ……地中海東岸の沿線。ふふ、これは掘り出し物だぞ」
エルドリック・ウォースリーは、三十代半ばの若き考古学者だった。だがその評判は学内ではやや微妙である。
そのとき、扉がノックもなく開いた。
「……また変なことしてるんですね、先生」
入ってきたのは、背の高い青年――エルドリックの助手であるマイケル・フェインだった。真面目で冷静、だが時折皮肉を交える癖がある。
「おや、マイケル君。丁度いいところに。君、マル=ハディールって村、聞いたことあるかい?」
「ありません。というか、どの文献にも存在しないんじゃ……前にも言いましたけど、“冷たい風の村”なんて伝承、信憑性がなさすぎますよ。地元の漁師が語る怪談って程度じゃないですか」
「うーん、だがその“程度”が実は真実ってこともあるんだよ、坊や。現にこの間手に入れた写本……いや、こっちの巻物かな。どちらも“禁じられし祈りの方角”について記してある。君、こういう記述見たらワクワクしない?」
「まったくしません」
「君は詩心がないなあ……ま、いいさ。学問に必要なのは疑いと同時に、ほんのちょっぴりの浪漫なんだよ」
そう言ってエルドリックは机に足を投げ出し、どこか芝居がかった仕草でマイケルを見上げた。
「で? 今日は何の用だい? 講義の代理でも頼みに来たのか、それとも僕の墓穴を掘る調査報告でも持ってきた?」
「……その“冷たい風の村”について、もう少しまともな調査報告が欲しいと、教授会から正式な通達がありました。正直、このままだと研究費が打ち切られます」
「……え、マジ?」
「マジです」
「……くっ、世知辛い世の中だなあ……」
肩を落としつつも、どこか楽しげなエルドリックの表情は消えない。そう、彼にとって“打ち切り”よりも興味深いのは、“風が冷たい”理由――
つまり、「なぜその村の存在が歴史から消されたのか」だった。
● ● ●
研究棟を出て、エルドリックは石段を一歩ずつ下りながら、胸元のポケットからしわくちゃになったタバコを取り出した。
唇に咥えたそれに火をつけると、ふう、と深く息を吐く。紫煙が肌寒い夕暮れの風に溶け、赤みがかった空へと消えていった。
ここはノークロス合衆国、首都から遠く離れた東部の港町にある大学都市。
それでもこのあたりはどこか異国のような空気を帯びていた。
街路を歩く男たちの多くは山高帽に口髭、女たちは高い襟のブラウスとコルセットを締め、洗練された身のこなしで石畳を渡ってゆく。
軋むような音を立てて走る路面電車、ガス灯が並ぶ歩道の先には、レンガ造りの建物が連なり、青と白の旗を掲げる酒場や雑貨店も多い。
この界隈は特にミラトワ共和国からの移民が多く暮らす地区だった。
ミラトワ語が飛び交い、パンとチーズの香りが漂う市場通りを歩いていると、まるで異国の街角に迷い込んだような錯覚に陥る。
エルドリックはコートの襟を立て、肩をすぼめるようにして歩く。
ときおりすれ違う者たちがちらとこちらを見て、声もかけずに視線だけを残していく。
「どうも歓迎されてないらしいな……合衆国人ってだけで、これだ」
軽く笑って呟く声も、すぐに靴音と電車の警鐘に掻き消された。
彼のような“合衆国生まれ”は、この混血都市ではやや浮いた存在だった。
やがて通りの一角に、ひときわ古びた看板が灯っているのが見えた。
「Le Crâne Fumé」――煤けた骸骨亭。エルドリックの行きつけの酒場だ。
木の扉をくぐると、暖かい空気とスパイスの香りが鼻をくすぐる。
店の奥には古びたピアノがあり、誰が奏でるでもなく、時折風で鳴る鍵盤の音が聞こえた。
「いつものを頼むよ」
カウンターに腰掛け、エルドリックは帽子を外してぽんと横に置いた。
無言で頷いた店主が、やがて運んできたのは――熱々のビーフシチューと、たっぷりとガーリックを塗ったバゲット。
銀のスプーンですくい、口に運ぶ。
煮込まれた肉がほろりと崩れ、赤ワインの香りとともに、舌の上で溶けていった。
「……うん、やっぱりここの味はやめられないな」
彼はタバコの代わりにバゲットを咥え、口の端に笑みを浮かべた。