祈りの声、肉の響き
焼け焦げたアフマドの死体がまだ熱を放つ中、部屋には恐怖の沈黙が満ちていた。
祈りの声は止んでいない。
壁の向こうで、肉の舌が絡むような低音が、なお続いていた。
「もう無理だ……」「ここにいたら、全員やられる……」「あんなもの、人じゃない……!」
兵士たちが、叫び始めた。
誰かが泣き声を漏らし、誰かが口の中で祈りを呟く。
それは軍の規律ではない。人の理性が壊れていく音だった。
ムラトが立ち上がる。「落ち着け!誰も動くな、扉に手をかけるな!」
だが、遅かった。
若い兵士の一人が悲鳴混じりに立ち上がった。
「俺は帰る!ここにいたら死ぬだけだ!」
そして――バリケードの机と書棚を乱暴に蹴り飛ばし、扉の掛け木を外す。
「やめろ!!」
バヒーラが叫ぶ。ムラトが駆ける。
だが――扉は開いた。
外からの風が部屋に流れ込む。“それ”の匂いを運んできた。
そして、黒い影が滑り込む。
白くうねる芋虫のような腕を持つ者が、扉の隙間から這い寄ってきた。
彼は反応すらできなかった。
首に巻き付いた腕が肉を裂き、頭蓋を締め上げ、潰した。
「銃を構えろ!火を!」
ムラトが叫び、ハッサンが松明を投げつけた。
“それ”は火にのたうち回りながらも、なお口の端で祈りのような呻きを続けていた。
「全部入ってくるぞ!塞げ!塞げぇ!!」
だがすでに三体、四体と――白い“祈る者たち”が部屋に侵入していた。
バヒーラの剣が一体の首を斬る。
ハッサンは火薬瓶を投げつけ、壁を黒く焼いた。
だが、ムラトは理解していた。
これは信仰や規律を貪る“敵”だと。
そして、一つの真理が胸に浮かぶ。
扉は、すでに開かれていたのだ。奴らの中ではずっと以前から。
狂乱は、瞬く間に広がった。
火を嫌う“祈る者たち”は、それでも怯むことなく、狭い部屋へと身を滑り込ませる。
白い芋虫のような四肢は滑り、跳ね、掴み、引き裂く。
「ヒッ……や、やめろォオォオ――ッ!」
小柄な兵士が壁際で転倒した。
手にしていた剣を取り落とし、足元に迫る“それ”から這い逃れようとするも――
獣のような口吻が首に噛みつき、喉笛を引き裂いた。
溢れた血が床に広がり、祈りの音に同調するように、脈動する粘液がそこへ絡みついていく。
「神よ……許しを……!」
別の兵士が火薬の壺を取り出し、床へと投げる――
だが火がつかない。焦り、震える手で再び火打ち石を叩いた瞬間、背後から腕が伸びた。
肉のように肥大化した手が彼の頭部を握り潰す。
骨の砕ける音とともに、ヘルメットがへしゃげた。
「退け!下がれ、まとまれッ――!」
バヒーラが叫ぶが、声は乱戦の中で霧散していく。
誰も“将”の声を聞いてなどいなかった。誰もが自分の死の瞬間しか見ていない。
老兵は祈るように剣を振り回す。
彼の前に現れた“それ”は、上半身が裂け、骨の隙間から別の顔が生えていた。
「見るなああっ!」
叫びながら斬りかかるが、剣は肉の中に沈み、抜けない。
返しに掴まれた手首を関節ごと逆側に折られ、胴を引き裂かれた。
肉塊が囁く。
「われらに戻れ……ともに在れ……ひとつとなれ……」
その言葉に、膝をつく者がいた。
瞳に涙を浮かべ、両腕を広げて――
その胸へと、祈る者の顎が突き立った。
――惨劇。
それ以外に言葉はなかった。
狂気は蔓延し、祈りは増殖し、兵士たちは個々の死を迎えていく。
ムラトは剣を振るう。血と肉が視界を染める。
それでもかつての将の意志を手放さず、声を張り上げた。
「まだだ、まだ終わっていない!全て焼け!声を殺せ!耳を塞げ!!」
――崩れる音。
別の部屋の扉が、湿った音を立てて剥がれ落ちた。
「……!」
ムラトは振り返る。
だが見る間もなく、肉に覆われた者たちが、再び這いずり出てくる。
蠢く群れ、祈り、歪んだ言葉。
「もうダメだ!」
バヒーラの叫びが響いた。
血まみれの甲冑、破れかけた肩布。その顔には諦念ではなく、戦う者の決断が刻まれていた。
「このままでは全員死ぬ。残っているのはあなただけよ、兄上。あなただけは、生き延びて次を導かなくては――!」
ムラトは歯を食いしばる。
「だが、他の兵たちは……!」
「もういない!」
今度はハッサンの声。
かつての冷静な語り口ではなかった。
声が震えていた。怒りでも恐怖でもない、悲しみと理性の限界に縋る震えだった。
「見たでしょう。もう誰もいません。壁の一つ一つが呻いています……ここは、既に“人間の場所”じゃない!」
部屋の端で、再び祈りの声が響く。
崩れたバリケードの隙間から、巨大な芋虫の胴をした異形が、這い出してくる。
「行くぞッ!」
ムラトは叫んだ。
剣を一閃し、すれ違いざまに一体の祈る者の首を斬り落とす。
そして二人に叫ぶ。
「ハッサン!バヒーラ!俺から離れるな――突っ切る!」
三人は残骸を踏み、燃えた家具を飛び越え、血濡れの床を蹴った。
館の奥、奥――
ムラトたちは炎と血をくぐり抜け、なお生き延びた。
破壊された階段を登り、崩れかけた天井をくぐる。
最後の扉を開けると、そこは――静寂だった。
だが、ただの静けさではなかった。
空気は濃く、重く、どこか湿った胎内のような閉塞感。
石の壁はもう石ではなかった。
全てが脈動する肉の繭で覆われ、ひとつひとつがうねり、時折、中の何かが蠢く。
その中央に、椅子があった。
いや、それは椅子ではなかった。
肉と骨が融合した玉座。
背もたれは背骨のように湾曲し、肘掛けには無数の指が蠢き、座面には血がしみこんでいる。
そして、そこに座る男――ジャリール。
かつての盟友。
かつての忠義。
かつての人間。
だが、その顔は。
「よく来たな、ムラト。」
微笑んでいた。
声は穏やかだった。
まるでかつての砦の戦場で、戦後の酒を酌み交わした夜のように――。
ムラトは剣を構えたまま、動けなかった。
ハッサンもバヒーラも言葉を失っている。
ジャリールの身体には皮膚の裂け目があった。
そこから薄く白い触手が、静かに椅子の肉と繋がっていた。
彼はそれを意識していないように、いや――むしろ誇らしげに座していた。
「歓迎しよう。友よ。
この祝福された地に。
我らが真なる安息の礎に。」
彼の背後で、一際大きな繭が蠢いた。
ムラトの瞳に、その奥で脈打つ“まだ生まれていないもの”の影が映った。
ジャリールは静かに、右手を上げた。
それだけだった。
だが次の瞬間、部屋の入り口にいた“祈る者たち”が、ピタリと動きを止めた。
異形の頭部を下げ、呻くように祈りの声を続けていた彼らが、
まるで見えない命令を受けたかのようにその声を切り、ゆっくりと身を翻す。
そして、何の音も立てずに部屋を後にしていった。
重い肉の足音。
骨を引きずる音。
それらは不思議なことに、脅威ではなく“撤収”の響きだった。
「……どういうことだ……」
ハッサンが思わず呟く。
その声はかすれ、言葉の形を成すまでに時間がかかった。
ジャリールは笑った。
「彼らはね、我らが同胞だよ、ムラト。
祈りと苦しみの果てに、ようやく得たこの形……」
「“彼ら”? “我ら”?」
ムラトの声には怒りが滲んでいた。
だがそれ以上に、理解が追いつかないという拒絶が、全身を震わせていた。
「君にも、やがて分かる。
これは“病”ではない、ムラト。
これは救済だ。
この地に降りた、真なる恩寵なのだ。」
その言葉に、バヒーラが剣を抜こうとした。
が、ムラトが無言で手を挙げてそれを制す。
まだ、この場では斬れない。
ジャリールは、“何かを語るため”に彼らを通したのだ。
それが罠か否か――
それすらもまだ、分からないままに。
ジャリールは、ゆっくりと椅子にもたれた。
肉でできたそれは、今や彼の背中に吸い付き、まるで呼吸を共にするように波打っている。
彼は目を閉じると、語り始めた。
「ある夜だった。
空に、星の並びが変わったことに気づいたのは――まさしく偶然だったよ。
天を仰げば、文字になっていた。誰の言葉でもない、だが確かに“読めた”。
それは……“呼びかけ”だった」
ムラトは拳を握りしめ、黙って聞いていた。
背後でバヒーラが静かに呼吸を整え、ハッサンは懐の小冊子に手をかけたが、書き記すことをせず固まっていた。
「初めは夢にすぎなかった。
誰かが私に語りかける――だが、その声には“形”があったんだ、ムラト。
目ではない、耳でもない、“全身”で理解する感覚。
あれは言葉ではなかった。重さだ。圧だ。
そして、我々の民の苦しみの根を見せてくれた」
「わかるかい? この地は腐っていた。
スルタンの命令も、税吏の重圧も、異教徒との境も、
すべては我々の“渇き”の上に立っていた」
ムラトの眉が僅かに動く。
この言葉には、かつて彼が共有していた不満も混じっていた。
だが、そこから――
「……あの星の声は、我らに水を与えると言った。
血ではなく、祈りによって潤すと。
そうして我々は、井戸に満ちる“水”を変えた。
すると……わかるか? 村人たちは変わり始めた。苦しみが消え、熱が満ち、
祈りの声が、空を震わせ始めたのだ」
ハッサンが声を絞り出す。
「……水が媒介だったのか……」
「いや、違う。水はただの導線だ。
あれは“形”ではなく、“思考”を通して広がるのだ。
目に映る色。見てはならぬ文字。特定の祈りの旋律――
それらを通して、我らは“彼ら”の存在に近づく」
ジャリールの目が、まるで何かを憐れむようにムラトを見る。
「ムラト、お前も知っていただろう? あの戦での空しさを。
敵を討っても、正義は空虚だった。
それは、地上の理でしかない。
だが“あれ”は……上なる理そのものだ。
我々はようやく、言葉なき神と交信する段に至ったのだよ」
バヒーラが剣の柄を握りしめたが、ムラトはまだ動かない。
ジャリールの語りは狂気に満ちていた。だが、彼は自らの正義を信じているのだ。
だからこそ――この先に何を見せようとしているのか、見極める必要があった。
ムラトはしばし無言だった。
ジャリールの言葉は狂気にまみれていた。
だが同時に、どこか論理として成立しているように聞こえてしまうのが恐ろしかった。
「……お前の言う“彼ら”とやらが、もし本当に渇きを潤す存在ならば……」
彼は声を震わせぬよう努めて続けた。
「……なぜ、村はこれほどまでに血と肉で満たされている?」
ジャリールは笑みを崩さなかった。
「それは“過程”にすぎぬ。
我々はまだ、完全に彼らと交わることができていない。
だが近い。祈りが響くたび、繭は育ち、“意志”が育つ。
やがて……肉体を超えた“光”へと至るだろう」
その瞬間、後ろからバヒーラの叫びが飛んだ。
「やめて、兄上!!」
甲高く鋭い声だった。
彼女は剣を抜き、震える手でムラトの前に立ちはだかる。
「聞いてはならない、その声は毒だ!
兄上がもし、それに従えば……あの子も、奥方も、
あなたが愛したもの全てが、肉の繭に取り込まれる!
人の姿でなくなっても、それを“進化”と呼ぶのですか!?」
ジャリールは首を傾げ、まるで教育者のように語った。
「……“人の姿”とは、誰が定めた基準か。
両眼があり、手足があり、皮膚がある者こそが“正義”なのか?
否。我々は、あまりにも形に囚われすぎている。
繭を脱ぎ、這い、変わる。それは、蝶にも似ているではないか」
ムラトの胸に、何かが冷たく流れた。
――あの男は本気だ。
自らの信仰を、理性として語っている。
正気ではない。だが、狂気にも論理がある。
バヒーラが剣を向けながら言った。
「私は……決して“神の代弁”を否定しない。
けれど、それが血と肉と死体で築かれたなら、
それは悪魔と何が違うのです!?」
ジャリールの笑みが一瞬、凍った。
だがすぐに、柔らかな声で返す。
「それを“悪”と名づけたのは人間だ。
我々の言葉で名づけられぬものに、恐れを抱く。
だがムラト……君ならわかるだろう?
かつて我らが斬り捨てた敵も、彼らの神に祈っていた。
正義は、形ではない。意志と、祈りの強さだ」
部屋の空気は張り詰めていた。
脈打つ肉の繭が、まるで彼らの会話を聞いているかのように、静かに波を打っていた。
「……まさに、至高の結論だ」
沈黙を破ったのは、軍医ハッサンだった。
彼は静かに、ゆっくりと歩を進めながら、
脈動する肉の壁を見つめていた。
その顔には笑みとも、驚きともつかぬ――妙な穏やかさが宿っている。
「人が人でなくなること。
それを“穢れ”と呼ぶのは、我々が未熟だからですな」
ムラトが振り向く。
その横にいたバヒーラが、警戒の色を強めた。
だが、ハッサンはどこまでも穏やかだった。
「私は長く、人の肉体や精神を診てまいりました。
ですが“真に人とは何か”という問いに、答えを出せたことは一度もない」
彼の足元には、割れた繭から覗く、白く軟体めいた手。
それがこちらに向かって、ゆっくりと蠢いている。
「ここに至ってようやく理解しましたよ」
彼は肉片に膝をつく。
「人という形は、神の仮初にすぎない。
高次なる恩寵は、形を選ばない……いや、形を拒む」
「ハッサン、やめろ!」
ムラトが叫ぶ。
だが軍医は、かつての主の声にすら動じなかった。
「ムラト殿、私は今……納得しているのです。
知性の延長線に、これがあるのならば――私はそれを否定しません」
彼は、差し出されたそれに手を重ねた。
肉の腕が彼の手首を包み、
繭の奥から無数の目が開く。
「我は器、我は糧。我は道、我は書――」
ハッサンは呟きながら、その中に身を沈めていく。
その姿にバヒーラは顔を歪め、ムラトは剣の柄を握った。
だが手は動かない。
それは恐怖か、怒りか、それとも――
かつての仲間を斬れぬ、未練だったのか。
「さあ、殿下。あなたもいずれは理解されましょう」
ハッサンの声は、もう肉の奥から響いていた。
「理解は、祝福への第一歩です」
――ぐちゅり。
肉の繭が、大きく蠢いた。
咀嚼音のような湿った音が、部屋中に広がる。
ハッサンの身体は、既に半ばまで飲まれていた。
軟体の白い筋が脊柱を這い、血の通わぬ脈動を伝えている。
彼の瞳は閉じられ、口元はまだ微笑を保っていた。
それは“死”ではない。
自ら望んだ変化への安堵。
「見事だ」
ジャリールが呟いた。
声は静かに、そしてどこか――甘い。
「まこと、人は至れる。
その心が“理解”を選んだ瞬間に、道は開けるのだ」
彼は椅子から立ち上がる。
いや、それは“椅子”などではなかった。
肉塊が編まれ、呼吸する“王座”。
その足元で蠢くものたちは、彼を“中心”とするように這い寄る。
「さあ、ムラト。君も至ろうではないか。
もう君も気づいているのだろう?
我々がどれほど矮小な殻の中に生きてきたかを」
ジャリールは、かつての戦友の名を、柔らかく呼ぶ。
だがムラトは、動かない。
剣に手をかけたまま、静かに顔を上げた。
その眼差しは、かつて砦を攻め落とした時のように冷たく、
兵を導いた時のように揺るぎない。
「……お前は、“ジャリール”なのか?」
その声は、静かだった。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、確かめるように。
ジャリールが、眉を僅かに動かす。
「……なんだい、ムラト。
君こそが“私”を誰より知っているではないか。
我々は幾度も戦を共にし、同じ旗の下で血を流してきた仲だ」
「ならば、答えろ」
ムラトの声が低く響く。
「砦を落としたあの夜、火の粉の中で我々が交わした言葉を。
我々が何のために剣を振るったのかを、言ってみろ」
沈黙。
ジャリールの目に、薄い靄のようなものが浮かんだ。
それは疑問か、それとも……忘却か。
「……それは、昔のことだよ、ムラト君。
もう誰が誰であったかなど、問題ではない」
「問題だ」
ムラトは、言葉を切り捨てるように言った。
「俺の前にいるのが、“あの”ジャリールでないなら――
ここで斬る。それだけの話だ」
彼の目が細められた。
ハッサンの変わり果てた姿を見たからこそ、ムラトは正気に踏みとどまった。
堕ちた者を見て、己を引き戻す――
それは、かつての“友”を失う代償でもあった。
――音がした。
ぶちゅりという、内側から破裂するような音。
ムラトの問いに対して、ジャリールはただ微笑んでいた。
その笑みが、歪む。
いや、笑みは笑みのままだ。
だがその目が、弾けた。
「ッ……!」
バヒーラが小さく息を呑む。
ジャリールの顔面。
その眼窩から――
極彩色の、触手とも蔓ともつかぬ“もの”が飛び出した。
赤、青、緑、金、
だがどれも見たことのない不快な彩度で、
空気を震わせながらうねっている。
「……何を驚く?」
それでもジャリールは語る。
崩れた眼窩から伸びる“触覚”を揺らしながら。
その口元だけは、先ほどと何ひとつ変わらぬ微笑を浮かべて。
「私の内なる眼が開いただけだ。
これが真の視野。
かつて我々が“神”と呼んだものすら、
この目の届かぬ彼方で蠢く低位の存在に過ぎぬ」
バヒーラは剣の柄を握りしめた。
その手が震えているのは、怒りか、恐怖か。
彼女の喉が引きつった声を漏らす。
「……お前は……ジャリールではない……!」
だがその言葉に、ジャリール――かつてジャリールと呼ばれた“何か”は、
首をかしげ、まるで慰めるような声音で応じた。
「名前など、いかようにも呼べばいい。
“私”という形に執着するから、貴様らは殻から出られぬのだ」
触覚が空中をゆるりと撫で、
まるで宙にある“見えざる文字”をなぞるように、緩やかに舞う。
「来たまえ、ムラト。
君の殻もまた、すでに軋んでいるはずだ。
さあ、共に行こう。
“名前も姿もない、真なる光”のもとへ――」
ムラトは、静かに腰の曲刀を抜いた。
金属の擦れる音が、場の空気を一刀両断にする。
血肉にまみれた館の奥、
その最奥に蠢く、かつてジャリールだった“何か”を前に、
ムラトの目に宿ったものは――沈黙と、決意。
「……バヒーラ」
静かに名を呼ぶ。
振り返ることなく、左手で懐の小箱を開いた。
そこには金銀の細工が施された、ふたつの指輪があった。
妻と共に交わした証。
そして、息子の誕生を祝って贈られたもの。
一つを抜き取り、振り返って差し出す。
「これを……渡してくれ」
彼女の手に、その小さな輝きを握らせる。
バヒーラの瞳が揺れた。
「……兄上、まさか……」
「伝えてくれ。
リアーナと、ファリードに。
――愛していると。
そして……すまないと」
バヒーラは首を横に振った。
だがその震えは止まらない。
怒りか、悲しみか、それとも――
「私も残る。戦う!」
ムラトは微かに笑んだ。
だがその顔には、すでに死地を受け入れた者の影があった。
「お前が死ねば、誰が伝える。
お前は、生き延びて、語れ。
……この地で、何が起きたのかを」
目を伏せるバヒーラの肩に、
静かに手を置くと――ムラトは背を向けた。
かつての盟友、ジャリール。
その前へと、ただ一人、進んでいく。
バヒーラが駆ける音が、石の廊下に消えていく。
その背中を見送ることはしなかった。
ムラトの目の前に立つのは、もはや盟友ジャリールではない。
触覚が脈打つその顔面は、まだ人語を紡ぐ。
だが、その姿は――
“神性”の皮を被った、肉の偶像。
「……そうか、彼女は逃がすのだな。
だが、ムラト……お前は違う。
お前は、ここに残った。歓喜だ」
言葉と共に、異形の腕が掲げられる。
骨と肉と金属の交じり合った、“曲がりし剣”。
関節が軋み、骨が伸び、刃が編まれる。
それはまるで、祈りの言葉から生まれた武器のようだった。
「戦場では、互いに剣を交えることはなかった。
だが……今、ようやく叶ったな」
ムラトは、静かに言った。
胸の奥にあった言葉――
「ずっと……お前と刃を交えたかった。
あの頃の、お前とな」
ムラトが踏み込む。
刃が唸り、疾風のごとく斬撃を放つ。
だがジャリールは、まるで未来を知るかのような動きでそれを受け流す。
骨の剣と金の刃が、轟音を伴ってぶつかり合った。
閃光のように剣が踊る。
火花のように血が散る。
床を踏み鳴らし、躰をねじる。
二人の戦いは、まるで舞踏のように錯綜する。
「見事だムラト!
やはりお前の剣は――人の中でこそ至高だ!」
「そして貴様の剣は、人を捨てた咎の象徴だ!」
互いの言葉が火花となり、刃が雷鳴となる。
旧き絆と、新しき憎悪が剣戟に刻まれていく。