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マル=ハディールの風は冷たく  作者: ユフランティー
4/7

伝播するもの

 カシム・バサルは、松明一本と地図を携えて、森の奥へと消えていった。


 誰もが無言で、背を見送るしかなかった。

 月の明かりが木々に遮られ、黒い縞模様となって道を覆う。


 風が吹いた。


 それは、遠雷にも似た微かな音だった。


 そして――


 「ア゛ァッ――!!」


 森の奥から、喉を裂くような悲鳴が響いた。


 兵の誰かが叫ぶ。


 「カ、カシム!? 今のは――!」


 「嘘だろ……! 今、出たばかりじゃ……!」


 恐怖が、爆ぜた。


 立ち上がる者。

 周囲を見渡しながら剣を抜く者。

 震えながら火にすがる者――


 森の陰が、まるで“動いている”ように見えた。


 混乱が始まる――その直前。


 「全員、盾を構えろ!!」


 ムラトの怒声が、夜を裂いた。


 その響きは、軍律のように兵の身体を動かす。

 副官バヒーラが即座に反応し、斥候兵たちの配置を整える。


 「三重に構え! 第一列は前方、第二列は側面、第三列は後背!」


 盾の音が一斉に鳴り、火の周囲に防御陣形が築かれていく。


 ムラトは剣を抜き、焚火の中心に立った。


 「いいか。恐怖は、奴らの武器でもある。

  声がした場所に行くな。音に釣られるな。

  我々は“音の兵”ではない。光の兵だ。」


 火がゆらめく。

 だが、その中でも兵たちは徐々に動きを整え、呼吸を戻していった。


 そして――


 森の彼方で、また何かが笑った。


 声ではない。

 それは、風に乗って流れる“嘲り”だった。




○ ○ ○




 「……やはり、“本国へ報せる”など、もう夢物語なのかもしれんな……」


 ハッサンが呟いた。


 夜が明けきらぬ森の中、焚火の熱も冷めきらぬまま、ムラトは立ち上がった。


 「――移動する。目指すは村の中心、ジャリールの館だ」


 兵たちはどよめいた。


 「ま、待ってください。あそこは……村の中心ですよ。

  今戻れば、また……“奴ら”の懐に飛び込むことになる」


 「そうだ、無謀だ……!」


 だがムラトは、火のそばに倒れていた地図を拾い上げた。


 「無謀は承知の上だ。だが、森でジリジリと死を待つよりはマシだ」


 地図の中央に印された、二階建ての石造りの建物。

 それが、ジャリールの居館だった。


 「水路が通っており、背後には石垣。入口は一つ、裏手には給仕路と台所口。

  我々の手で“守り”に転じられる場所は、ここ以外にない」


 ハッサンが低く呟いた。


 「本国に報せる手段が絶たれた今、我々が生き残る術は……持ち堪えることしかない」


 ムラトが頷く。


 「そうだ。たとえ報せが届かずとも、遅れを不審に思った本国は必ず動く。

  そのとき、我々が“生きていた”ことが、何よりの証になる」


 バヒーラが口を開いた。


 「……すでにこの地は“戦場”ではなくなっている。

  籠城の支度、始めよう」


 十数名の生存兵たちは無言で頷き、焚火を消して装備を整えはじめた。


 松明、銃、食糧、薬草、火打石――

 ありったけの物資を背に、再び村へと向かう。


 死地へ、希望を賭けて。




○ ○ ○





 朝霧が、すべてを覆っていた。


 月の光が薄れ、陽が昇りかけたというのに、村はまるで水底に沈んだように静まり返っている。

 靄が足元にまとわりつき、息をするのも躊躇われるほどだった。


 ムラトは先頭に立ち、手で合図を送る。

 剣を鞘に収めたまま、音を立てるな。

 それが唯一の掟だった。


 バヒーラとハッサンがそれぞれ小隊を率い、左右から続く。

 兵たちは松明を捨て、霧に目を凝らしていた。


 そして――


 村の路地に、一つ、二つ、三つ――“骸”が転がっていた。


 夜の戦いで離散した自軍の兵たち。

 手足が引き裂かれ、内臓を抜かれ、目を抉られたその亡骸は、

 まるで“誰かの意図で”置かれたかのような配置だった。


 吐き気をこらえながら歩を進めるムラト。

 そのとき、霧の奥から奇妙な“くぐもった音”が聞こえた。


 ――ぬちゅ、ぐちゃ、じゅる……


 音の主は、気づいていない。


 “奴ら”は、死体を喰らっていた。


 爪の先で肉を裂き、舌を引きずり出し、骨を舐め、

 何かの儀式のように内臓を並べていた。


 兵の一人が口を塞ぎ、震えだす。

 だがバヒーラが無言で背を押し、前へと進ませる。


 彼らは決して、“戦ってはいけなかった”。


 ムラトは剣の柄に手を掛けつつ、あえて抜かない。


 視線はただ、ひとつ――

 村の中央に聳える、ジャリールの館へと向けられていた。


 あそこにたどり着ければ……あるいは、“地獄”に扉を閉ざせる。


 霧の中、ようやく目の前に見えた石壁。

 それは村の中心、ジャリールの館を囲う防壁だった。


 「ここまで来た……!」


 兵たちの目に、初めて希望の色が宿る。

 ムラトが小声で指示を出す。


 「上れ。順にだ。滑るな、音を立てるな――急げ」


 石壁には、何度も補修を重ねた跡があった。

 細かい割れ目と苔を踏みしめながら、兵たちは無言で登っていく。


 だが――


 「あっ……!」


 誰かの足が滑り、ガラリィィン!という音とともに、腰の水筒が地面に叩きつけられた。


 それは、確かに“音”だった。


 霧の向こう、村のあちこちで――ぞりっ、ぞりっ、ぞりっ……


 何かが歩き出す音が響いた。


 「急げ!! 上れッ!!」


 ムラトの怒号が、戦場に戻った。


 だが兵士たちの中には、焦りから手を滑らせる者もいた。

 一人、また一人、足場を掴み損ね、もたつく。


 その背後から、霧の中を抜けて――“奴ら”がやって来る。


 人とも獣ともつかぬ“歪んだ者たち”が、沈黙のまま這い寄る。


 「おい、手を貸してやれ!!」


 バヒーラが声を張るが、もう遅かった。


 「アッ、嫌だ……やめろ!! 誰か!! 助け――ッ!!」


 断末魔と肉の潰れる音が、霧に響いた。


 残された兵士は悲鳴を上げ、手足をもがれるようにしてその場に沈む。

 剣を振るう暇もなく、ただ“数”に飲まれた。


 ムラトは振り返らず、最後に壁を乗り越える。


 「……閉じろッ!! 扉を塞げ!!」


 中に飛び込んだ兵たちが、すぐさま門を内側から木材と石で塞ぐ。

 大きな音が立つが、もう構う余地はなかった。


 「……死んだ者を悼むな。今は生き残ることだけを考えろ」


 ムラトの言葉に、誰も反論しなかった。


 ――その扉をくぐった瞬間、彼らは“世界の裏側”を踏んだ。


 かつての応接間は、もはや家ではなかった。

 壁も床も天井も、生きていた。


 ねちゃり、ぬちゅ、じゅる――


 光の届かぬ屋敷の奥から、脈打つ音が響く。

 松明の灯りが照らした壁には、人の顔に似た肉塊がいくつも張り付き、眼窩のない目を蠢かせていた。


 兵士のひとりが呻いた。


 「これが……屋敷の中、なのか……?」


 天井から垂れる肉の繊維、壁に絡みついた繭のような物体。

 その中に、まだ人の形を保った何かが“眠って”いるのが見えた。


 ムラトは、思わず一歩後ずさった。


 「……これは、もはや“人間の領域”ではない」


 彼は顔を伏せ、短く命じた。


 「焼け。館を崩すな――だが、この汚辱を焼き払え」


 兵士たちは言葉もなく、松明をかざす。


 火が、肉に触れる。


 肉は悲鳴のような音を立てて焼け、繭の中のものが蠢き、叫びとも呻きともつかぬ音が屋敷中にこだました。


 その声が、村の外へ、空へ、地の底へ――どこへともなく広がっていく。


 ムラトは、その全てを睨みつけたまま、唇を噛み締めていた。


 この館が、かつての盟友ジャリールのものだったという現実が、彼の胸を締めつけていた。


 炎が繭を焼いた。

 中にあったものが、目を開いた。


 「やめろ……やめろやめろやめろ……」


 一人の兵士が錯乱し、剣を取り落とす。


 繭が裂けた。

 そこから這い出てきたものは、人の形をしていた。


 だが――


 その皮膚には白く太い芋虫のようなものが無数に生えていた。

 背中から、肩から、肘から、脇腹から、指の隙間から――

 それらはねっとりと蠢きながら外気を貪り、空へと顔をもたげる。


 顔だけは、かろうじて人の輪郭を留めていた。

 だが、口は開いたまま閉じず、言葉を垂れ流している。


 「……シュム=サリム・ナーザク……ザフラの……恩寵が……来たりて……」


 祈りの言葉だった。


 だが、それはこの地の言語ではなかった。

 兵士たちは意味もわからぬその“音”を聞くうちに、額に汗を浮かべ、歯を食いしばって耳を塞いだ。


 「ムラト、あれは……!」


 バヒーラが剣を抜いた瞬間、芋虫の一匹が空中へと伸び、兵士の顔に飛びついた。


 「ッぐ、ああああああ!!」


 顔に噛みついたそれは、頭蓋に潜り込もうとするかのように蠢く。

 兵士は絶叫し、仲間がとっさに斬りかかってそれを叩き落とす。


 ムラトは、剣を抜いた。


 「祈るな……その神を呼ぶな」


 そして、その変質者の喉を、まっすぐに断ち切った。


 祈りは止まった。

 だが、芋虫たちはなおも動いていた。

 死体の中で、生まれ続けているように。


 ――ぷちっ。


 繭が、音を立てた。


 次いで、二つ、三つ、十も――無数の繭が、一斉に蠢き始める。


 「……来るぞ!!」


 ムラトの叫びが火花のように弾ける。


 兵士たちは即座に動いた。

 近くにあった食堂の長机、棚、転がった椅子――

 あらゆる家具を掴み、出入り口に押し付け、バリケードとする。


 「弾を込めろ!! 撃て、撃ちまくれ!!」


 バリバリバリッッ!!


 銃声が咆哮のように響く。

 火薬の匂い、跳ね返る硝煙、そして――肉の裂ける音。


 繭から這い出してきた異形どもが、“生まれる前”に撃ち抜かれていく。

 芋虫に覆われた身体が砕け、呻き声をあげながら床に崩れる。


 「祈るな祈るな祈るな……」


 一人の兵士が半狂乱で叫ぶ。


 だが――まだ終わらない。


 弾の音が途切れると同時に、奥の部屋から別の囁き声が漏れ出す。


 「ザフラ……ザフラ……書に記されし母の名を……」


 ドン、ドンッ……!

 何かが中からぶつかっている。


 まるで、まだ生まれていない“何か”が、今まさに殻を破ろうとしているかのように――。


 最後の一体が呻きをあげながら崩れ落ちた。


 ズドン……!


 硝煙と血の匂いに包まれながら、兵たちは一様に肩を落とし、銃を下ろした。

 だが、それは静寂ではなかった。


 “祈りの余韻”だけが、部屋に残っていた。


 「……終わったのか……?」


 一人がそう呟いた時だった。


 「焼け!! 今すぐに全部焼くんだ!!」


 叫んだのはハッサンだった。

 軍医であり記録者である彼は、剣を抜いたまま、震える声で叫ぶ。


 「まだだ……! こいつらは死んでも、中で生きている!!」


 バヒーラがすぐに反応し、火打石を取り出す。


 「松明を! 全員、手分けして死体を焼け!!」


 ゴウッ……!!

 火が再び灯り、繭に覆われた死体に振りかけられる。


 すると――


 じゅぅ……じゅぅぅ……っ


 焦げた肉の間から、なおも蠢く芋虫の残骸たちが、断末魔のように身をよじった。


 「見ろ……! 死んでいても、“内側”ではまだ動いていた……!」


 ハッサンの顔には、医師としての理性と、それを突き崩す狂気の入口がにじんでいた。


 ムラトは黙って頷き、周囲の者たちに声を上げた。


 「火を絶やすな。焼き尽くせ。

 この神に冒された館を、人の手に戻すために。」


 燃えた。


 肉の壁も、繭も、変質した死体も――

 焼き尽くされた。


 熱気が静かに部屋を支配し、蒸し返すような臭気が立ち込める。

 脈動は止まり、囁きも消えた。


 その場にいた者たちは、誰も言葉を発さなかった。

 勝利の後の静寂は、あまりにも重かった。


 「……終わったのか?」


 誰かがそう呟いた時、一人の兵士が、崩れるように膝をついた。


 「……だめだ……俺はもう無理だ……目を閉じても、あの祈りが……」


 歯を食いしばり、耳を塞ぎ、ぶつぶつと何かを呟き続ける。

 顔色は青白く、瞳は焦点を失い、虚空を見ていた。


 「…狂気に飲まれかけてる……!」


 バヒーラが駆け寄るが、言葉は届かない。


 他の兵たちも動揺する。

 “あの祈り”は、まだ心に根を残していた。


 その時――ムラトが立ち上がった。

 静かに、しかし全員に届く声で言う。


 「……剣を持て。手に汗を感じろ。重さを、痛みを、思い出せ。」


 彼は狂いかけた兵士の肩に手を置いた。


 「目を逸らすな。恐れるな。俺たちは、剣を持っている。心にも剣を持て。」


 兵士の瞳に、一瞬だけ光が戻った。


 「神に奪われるな。己を捧げるな。まだ終わっちゃいない。

 お前はここで死なない。俺がそう命じる。」


 沈黙が支配する中、他の兵たちもゆっくりと、顔を上げた。


 ムラトの声が彼らの盾となり、剣となる。


 火の気配がまだ石壁に残るなか、ムラトは立ち尽くすハッサンに問いかけた。


 「……ハッサン。これは、何なのだ。あの祈り、あの形……」


 軍医は手にしていた記録帳を閉じ、わずかに眉間に皺を寄せる。


 「――殿下。私の知る限りでは、あれは“業病”ではございません。

 四体液の乱れとも思えません。むしろ、魂の層そのものが、異界の理に触れたものかと」


 「異界の理、だと?」


 「ええ。これはあくまで仮説に過ぎませぬが……」


 ハッサンは一歩、炎から目を逸らしながら言った。


 「地脈あるいは“天の印”が、この地に禍を刻んだ可能性がございます。

 特に満ち欠けを超えた月の歪み、あるいは星の巡りにおいて、かつてこの地が“捧げられた”のではないかと」


 「神にか?」


 「いいえ……」


 彼は僅かに躊躇した後、言葉を続けた。


 「……神の名を騙る何かに、でございます。

 人々が口にする祈りは、もはや信仰とは呼べぬ“模倣”――。

 古き時より、名を持たぬ“主”を崇める小集団が、各地に存在したと聞きます。

 この地も、そうした見えぬ信仰の残滓に触れた可能性があるのではと」


 「つまり、連中は……呪われた信仰に呑まれたと?」


 「そのように考えるのが、今のところ最も道理が立ちます。

 実在する神の恩寵ではなく、別なるものに身体も魂も削がれ、蝕まれたのではないかと」


 ムラトはしばし黙し、かすかに呻くように言った。


 「それで終わりか?お前の“学”は、それ以上の答えを持たぬのか?」


 ハッサンはまっすぐに顔を上げ、冷静に告げた。


 「私の学は、あくまで人間の範囲にあるものでございます、殿下。

 ……ですが、それを越えるものに触れたならば――それはもはや、

 “知らぬまま死ぬ”か、“知って死ぬ”かの二つしかございません」


 ハッサンの言葉が静かに空間に落ちる。

 燃えかすとなった肉の繭は、すでに形を失い、ただ湿った灰と油煙だけが残されていた。


 ムラトはゆっくりと息を吐いた。


 「……なるほどな。星が、天が、何かを示した、か」


 言葉の端に、薄く棘が刺さる。

 だが彼はそれを指摘せず、ただ肩の力を抜き、短く言った。


 「お前の言うことだ、信じよう」


 それが本心かどうかは、誰にもわからない。

 だが軍の長として、目の前の“理解”に楯突く余裕は、もうないのだ。


 ムラトは手を挙げ、周囲の兵に命じた。


 「この部屋を守る。入り口は一箇所だけだ。他の扉と窓はすべて塞げ」


 兵たちは即座に動き出す。

 椅子、棚、机。壊れた燭台や、倒れた書見台すら引き寄せて、出入り口に積み上げていく。


 「念のために火を用意しろ。松明を三本。火薬も少し」


 ムラトは扉の前に立ち、板を斜めに差し込む兵に声をかけた。


 「逃げ場ではない。だが持ち堪えるには十分な要塞にする。……いいな」


 兵は黙って頷いた。


 誰もが疲れていたが、誰もが理解していた。

 ここが、“夜を超えるための砦”であることを。


 バリケードは完成した。

 扉には厚板が打ち付けられ、窓には書棚と机が重ねられている。兵たちは壁際に座り込み、疲れた身体を押し殺すように横たわっていた。


 夜はなお深く、蝋燭の炎が小さく揺れる。

 そして、それはやってきた。


 ――祈りの声だ。


 始まりは低く、男の唸るような調子だった。

 だが、すぐに女の声が、それに重なる。

 そして子供の声が、また一つ、また一つと。


 やがてそれは、人の声を真似た何かの声となった。


 バリケードの向こう。屋敷の外。

 いや、村全体から――風のように、霧のように、音が押し寄せてくる。


 「……なんだ、これは……」


 若い兵が顔を覆う。手が震え、松明の火がかすかに揺れた。


 「耳を塞げ!」


 ムラトが叫ぶが、その声も、祈りに溶けていく。


 その言葉は意味を持たぬ。だが確かに心の奥の何かを揺さぶる言葉だった。

 母の子守唄のようであり、恋人の囁きのようでもあり、死の間際の呻きのようでもある。


 「っ……! やめろ、やめてくれ……」


 一人の兵が立ち上がり、バリケードへとよろめいた。


 「待て! 戻れ!」


 副官のバヒーラが叫ぶより早く、ムラトは男の腕を掴んで引き倒した。


 「しっかりしろ!これは声ではない、“毒”だ!耳ではなく心に侵す声だ!」


 兵の目は涙で濡れていた。

 だがその目が捉えているものは、この世のどこにも存在しないものだった。


 火が頼りだった。

 燃えさかる松明の光が、ようやく彼を現実に引き戻す。


 「……火を絶やすな。目を逸らすな。光があるうちは、奴らも完全ではない」

 ムラトは全員に言い渡した。


 部屋は静まった。

 だが、祈りの声は、今も壁の向こうで続いている。


 祈りの声が、次第に天井を震わせ始めていた。

 だがそれは耳に届くのではない。骨に、髄に、脳の皺に染み込むように響いていた。


 「……っ、う……」


 誰かの呻き声が、光の縁から漏れ出る。


 ムラトが即座に反応した。

 声の主は“噛まれた”兵士――アフマドだった。


 「アフマド……?」


 バヒーラが小声で名を呼ぶ。


 彼は壁に背をつけ、両手で耳を塞ぎながら、何かを呟いていた。


 「――ザヒル……ユフサール……ナラ……マハル……」


 それは祈りだった。だが、この村の人々が呟いていたのと同じ言葉だった。


 「アフマド、それは……お前、何を言っている?」


 ムラトが低く問いかけると、彼は頭を振り、膝を抱え込んだ。


 「ちがう……ちがう、俺は……でも、声が……あれは、呼んでいる……母の声のような……いや、もっと深い……もっと近い……」


 額には汗がにじみ、呼吸は乱れている。

 だが、目だけは冴えていた。あの、肉塊から生えた眼と、似た色をしていた。


 「下がれ、誰も近づくな!」


 ムラトが短く命じる。


 アフマドの背筋が痙攣し、口元が裂けるほど開く。

 祈りの言葉が、彼の喉を通して、まるで別の存在が語っているかのように発される。


 「……マル=ハディールは開かれた。祝福されよ……喰らう者の……名において」


 その瞬間、ハッサンが松明を握りしめて叫んだ。


 「火だ!焼け!今すぐだ!」


 バヒーラが飛び込み、ムラトの剣が一閃する。


 アフマドの身体は、もはや兵士ではなかった。

 皮膚の下でうごめく筋が幾筋も浮かび上がり、首筋から、白い芋虫のようなものが蠢いていた。


 火が、それを黒く焼いた。

 絶叫とともに、祈りは途切れた。


 しばしの沈黙。


 ムラトは、呆然とする兵士たちを見渡した。


 「……聞くな。考えるな。疑うな」

 「この声に触れた者は、すでに奴らの“内側”にいる」

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