伝播するもの
カシム・バサルは、松明一本と地図を携えて、森の奥へと消えていった。
誰もが無言で、背を見送るしかなかった。
月の明かりが木々に遮られ、黒い縞模様となって道を覆う。
風が吹いた。
それは、遠雷にも似た微かな音だった。
そして――
「ア゛ァッ――!!」
森の奥から、喉を裂くような悲鳴が響いた。
兵の誰かが叫ぶ。
「カ、カシム!? 今のは――!」
「嘘だろ……! 今、出たばかりじゃ……!」
恐怖が、爆ぜた。
立ち上がる者。
周囲を見渡しながら剣を抜く者。
震えながら火にすがる者――
森の陰が、まるで“動いている”ように見えた。
混乱が始まる――その直前。
「全員、盾を構えろ!!」
ムラトの怒声が、夜を裂いた。
その響きは、軍律のように兵の身体を動かす。
副官バヒーラが即座に反応し、斥候兵たちの配置を整える。
「三重に構え! 第一列は前方、第二列は側面、第三列は後背!」
盾の音が一斉に鳴り、火の周囲に防御陣形が築かれていく。
ムラトは剣を抜き、焚火の中心に立った。
「いいか。恐怖は、奴らの武器でもある。
声がした場所に行くな。音に釣られるな。
我々は“音の兵”ではない。光の兵だ。」
火がゆらめく。
だが、その中でも兵たちは徐々に動きを整え、呼吸を戻していった。
そして――
森の彼方で、また何かが笑った。
声ではない。
それは、風に乗って流れる“嘲り”だった。
○ ○ ○
「……やはり、“本国へ報せる”など、もう夢物語なのかもしれんな……」
ハッサンが呟いた。
夜が明けきらぬ森の中、焚火の熱も冷めきらぬまま、ムラトは立ち上がった。
「――移動する。目指すは村の中心、ジャリールの館だ」
兵たちはどよめいた。
「ま、待ってください。あそこは……村の中心ですよ。
今戻れば、また……“奴ら”の懐に飛び込むことになる」
「そうだ、無謀だ……!」
だがムラトは、火のそばに倒れていた地図を拾い上げた。
「無謀は承知の上だ。だが、森でジリジリと死を待つよりはマシだ」
地図の中央に印された、二階建ての石造りの建物。
それが、ジャリールの居館だった。
「水路が通っており、背後には石垣。入口は一つ、裏手には給仕路と台所口。
我々の手で“守り”に転じられる場所は、ここ以外にない」
ハッサンが低く呟いた。
「本国に報せる手段が絶たれた今、我々が生き残る術は……持ち堪えることしかない」
ムラトが頷く。
「そうだ。たとえ報せが届かずとも、遅れを不審に思った本国は必ず動く。
そのとき、我々が“生きていた”ことが、何よりの証になる」
バヒーラが口を開いた。
「……すでにこの地は“戦場”ではなくなっている。
籠城の支度、始めよう」
十数名の生存兵たちは無言で頷き、焚火を消して装備を整えはじめた。
松明、銃、食糧、薬草、火打石――
ありったけの物資を背に、再び村へと向かう。
死地へ、希望を賭けて。
○ ○ ○
朝霧が、すべてを覆っていた。
月の光が薄れ、陽が昇りかけたというのに、村はまるで水底に沈んだように静まり返っている。
靄が足元にまとわりつき、息をするのも躊躇われるほどだった。
ムラトは先頭に立ち、手で合図を送る。
剣を鞘に収めたまま、音を立てるな。
それが唯一の掟だった。
バヒーラとハッサンがそれぞれ小隊を率い、左右から続く。
兵たちは松明を捨て、霧に目を凝らしていた。
そして――
村の路地に、一つ、二つ、三つ――“骸”が転がっていた。
夜の戦いで離散した自軍の兵たち。
手足が引き裂かれ、内臓を抜かれ、目を抉られたその亡骸は、
まるで“誰かの意図で”置かれたかのような配置だった。
吐き気をこらえながら歩を進めるムラト。
そのとき、霧の奥から奇妙な“くぐもった音”が聞こえた。
――ぬちゅ、ぐちゃ、じゅる……
音の主は、気づいていない。
“奴ら”は、死体を喰らっていた。
爪の先で肉を裂き、舌を引きずり出し、骨を舐め、
何かの儀式のように内臓を並べていた。
兵の一人が口を塞ぎ、震えだす。
だがバヒーラが無言で背を押し、前へと進ませる。
彼らは決して、“戦ってはいけなかった”。
ムラトは剣の柄に手を掛けつつ、あえて抜かない。
視線はただ、ひとつ――
村の中央に聳える、ジャリールの館へと向けられていた。
あそこにたどり着ければ……あるいは、“地獄”に扉を閉ざせる。
霧の中、ようやく目の前に見えた石壁。
それは村の中心、ジャリールの館を囲う防壁だった。
「ここまで来た……!」
兵たちの目に、初めて希望の色が宿る。
ムラトが小声で指示を出す。
「上れ。順にだ。滑るな、音を立てるな――急げ」
石壁には、何度も補修を重ねた跡があった。
細かい割れ目と苔を踏みしめながら、兵たちは無言で登っていく。
だが――
「あっ……!」
誰かの足が滑り、ガラリィィン!という音とともに、腰の水筒が地面に叩きつけられた。
それは、確かに“音”だった。
霧の向こう、村のあちこちで――ぞりっ、ぞりっ、ぞりっ……
何かが歩き出す音が響いた。
「急げ!! 上れッ!!」
ムラトの怒号が、戦場に戻った。
だが兵士たちの中には、焦りから手を滑らせる者もいた。
一人、また一人、足場を掴み損ね、もたつく。
その背後から、霧の中を抜けて――“奴ら”がやって来る。
人とも獣ともつかぬ“歪んだ者たち”が、沈黙のまま這い寄る。
「おい、手を貸してやれ!!」
バヒーラが声を張るが、もう遅かった。
「アッ、嫌だ……やめろ!! 誰か!! 助け――ッ!!」
断末魔と肉の潰れる音が、霧に響いた。
残された兵士は悲鳴を上げ、手足をもがれるようにしてその場に沈む。
剣を振るう暇もなく、ただ“数”に飲まれた。
ムラトは振り返らず、最後に壁を乗り越える。
「……閉じろッ!! 扉を塞げ!!」
中に飛び込んだ兵たちが、すぐさま門を内側から木材と石で塞ぐ。
大きな音が立つが、もう構う余地はなかった。
「……死んだ者を悼むな。今は生き残ることだけを考えろ」
ムラトの言葉に、誰も反論しなかった。
――その扉をくぐった瞬間、彼らは“世界の裏側”を踏んだ。
かつての応接間は、もはや家ではなかった。
壁も床も天井も、生きていた。
ねちゃり、ぬちゅ、じゅる――
光の届かぬ屋敷の奥から、脈打つ音が響く。
松明の灯りが照らした壁には、人の顔に似た肉塊がいくつも張り付き、眼窩のない目を蠢かせていた。
兵士のひとりが呻いた。
「これが……屋敷の中、なのか……?」
天井から垂れる肉の繊維、壁に絡みついた繭のような物体。
その中に、まだ人の形を保った何かが“眠って”いるのが見えた。
ムラトは、思わず一歩後ずさった。
「……これは、もはや“人間の領域”ではない」
彼は顔を伏せ、短く命じた。
「焼け。館を崩すな――だが、この汚辱を焼き払え」
兵士たちは言葉もなく、松明をかざす。
火が、肉に触れる。
肉は悲鳴のような音を立てて焼け、繭の中のものが蠢き、叫びとも呻きともつかぬ音が屋敷中にこだました。
その声が、村の外へ、空へ、地の底へ――どこへともなく広がっていく。
ムラトは、その全てを睨みつけたまま、唇を噛み締めていた。
この館が、かつての盟友ジャリールのものだったという現実が、彼の胸を締めつけていた。
炎が繭を焼いた。
中にあったものが、目を開いた。
「やめろ……やめろやめろやめろ……」
一人の兵士が錯乱し、剣を取り落とす。
繭が裂けた。
そこから這い出てきたものは、人の形をしていた。
だが――
その皮膚には白く太い芋虫のようなものが無数に生えていた。
背中から、肩から、肘から、脇腹から、指の隙間から――
それらはねっとりと蠢きながら外気を貪り、空へと顔をもたげる。
顔だけは、かろうじて人の輪郭を留めていた。
だが、口は開いたまま閉じず、言葉を垂れ流している。
「……シュム=サリム・ナーザク……ザフラの……恩寵が……来たりて……」
祈りの言葉だった。
だが、それはこの地の言語ではなかった。
兵士たちは意味もわからぬその“音”を聞くうちに、額に汗を浮かべ、歯を食いしばって耳を塞いだ。
「ムラト、あれは……!」
バヒーラが剣を抜いた瞬間、芋虫の一匹が空中へと伸び、兵士の顔に飛びついた。
「ッぐ、ああああああ!!」
顔に噛みついたそれは、頭蓋に潜り込もうとするかのように蠢く。
兵士は絶叫し、仲間がとっさに斬りかかってそれを叩き落とす。
ムラトは、剣を抜いた。
「祈るな……その神を呼ぶな」
そして、その変質者の喉を、まっすぐに断ち切った。
祈りは止まった。
だが、芋虫たちはなおも動いていた。
死体の中で、生まれ続けているように。
――ぷちっ。
繭が、音を立てた。
次いで、二つ、三つ、十も――無数の繭が、一斉に蠢き始める。
「……来るぞ!!」
ムラトの叫びが火花のように弾ける。
兵士たちは即座に動いた。
近くにあった食堂の長机、棚、転がった椅子――
あらゆる家具を掴み、出入り口に押し付け、バリケードとする。
「弾を込めろ!! 撃て、撃ちまくれ!!」
バリバリバリッッ!!
銃声が咆哮のように響く。
火薬の匂い、跳ね返る硝煙、そして――肉の裂ける音。
繭から這い出してきた異形どもが、“生まれる前”に撃ち抜かれていく。
芋虫に覆われた身体が砕け、呻き声をあげながら床に崩れる。
「祈るな祈るな祈るな……」
一人の兵士が半狂乱で叫ぶ。
だが――まだ終わらない。
弾の音が途切れると同時に、奥の部屋から別の囁き声が漏れ出す。
「ザフラ……ザフラ……書に記されし母の名を……」
ドン、ドンッ……!
何かが中からぶつかっている。
まるで、まだ生まれていない“何か”が、今まさに殻を破ろうとしているかのように――。
最後の一体が呻きをあげながら崩れ落ちた。
ズドン……!
硝煙と血の匂いに包まれながら、兵たちは一様に肩を落とし、銃を下ろした。
だが、それは静寂ではなかった。
“祈りの余韻”だけが、部屋に残っていた。
「……終わったのか……?」
一人がそう呟いた時だった。
「焼け!! 今すぐに全部焼くんだ!!」
叫んだのはハッサンだった。
軍医であり記録者である彼は、剣を抜いたまま、震える声で叫ぶ。
「まだだ……! こいつらは死んでも、中で生きている!!」
バヒーラがすぐに反応し、火打石を取り出す。
「松明を! 全員、手分けして死体を焼け!!」
ゴウッ……!!
火が再び灯り、繭に覆われた死体に振りかけられる。
すると――
じゅぅ……じゅぅぅ……っ
焦げた肉の間から、なおも蠢く芋虫の残骸たちが、断末魔のように身をよじった。
「見ろ……! 死んでいても、“内側”ではまだ動いていた……!」
ハッサンの顔には、医師としての理性と、それを突き崩す狂気の入口がにじんでいた。
ムラトは黙って頷き、周囲の者たちに声を上げた。
「火を絶やすな。焼き尽くせ。
この神に冒された館を、人の手に戻すために。」
燃えた。
肉の壁も、繭も、変質した死体も――
焼き尽くされた。
熱気が静かに部屋を支配し、蒸し返すような臭気が立ち込める。
脈動は止まり、囁きも消えた。
その場にいた者たちは、誰も言葉を発さなかった。
勝利の後の静寂は、あまりにも重かった。
「……終わったのか?」
誰かがそう呟いた時、一人の兵士が、崩れるように膝をついた。
「……だめだ……俺はもう無理だ……目を閉じても、あの祈りが……」
歯を食いしばり、耳を塞ぎ、ぶつぶつと何かを呟き続ける。
顔色は青白く、瞳は焦点を失い、虚空を見ていた。
「…狂気に飲まれかけてる……!」
バヒーラが駆け寄るが、言葉は届かない。
他の兵たちも動揺する。
“あの祈り”は、まだ心に根を残していた。
その時――ムラトが立ち上がった。
静かに、しかし全員に届く声で言う。
「……剣を持て。手に汗を感じろ。重さを、痛みを、思い出せ。」
彼は狂いかけた兵士の肩に手を置いた。
「目を逸らすな。恐れるな。俺たちは、剣を持っている。心にも剣を持て。」
兵士の瞳に、一瞬だけ光が戻った。
「神に奪われるな。己を捧げるな。まだ終わっちゃいない。
お前はここで死なない。俺がそう命じる。」
沈黙が支配する中、他の兵たちもゆっくりと、顔を上げた。
ムラトの声が彼らの盾となり、剣となる。
火の気配がまだ石壁に残るなか、ムラトは立ち尽くすハッサンに問いかけた。
「……ハッサン。これは、何なのだ。あの祈り、あの形……」
軍医は手にしていた記録帳を閉じ、わずかに眉間に皺を寄せる。
「――殿下。私の知る限りでは、あれは“業病”ではございません。
四体液の乱れとも思えません。むしろ、魂の層そのものが、異界の理に触れたものかと」
「異界の理、だと?」
「ええ。これはあくまで仮説に過ぎませぬが……」
ハッサンは一歩、炎から目を逸らしながら言った。
「地脈あるいは“天の印”が、この地に禍を刻んだ可能性がございます。
特に満ち欠けを超えた月の歪み、あるいは星の巡りにおいて、かつてこの地が“捧げられた”のではないかと」
「神にか?」
「いいえ……」
彼は僅かに躊躇した後、言葉を続けた。
「……神の名を騙る何かに、でございます。
人々が口にする祈りは、もはや信仰とは呼べぬ“模倣”――。
古き時より、名を持たぬ“主”を崇める小集団が、各地に存在したと聞きます。
この地も、そうした見えぬ信仰の残滓に触れた可能性があるのではと」
「つまり、連中は……呪われた信仰に呑まれたと?」
「そのように考えるのが、今のところ最も道理が立ちます。
実在する神の恩寵ではなく、別なるものに身体も魂も削がれ、蝕まれたのではないかと」
ムラトはしばし黙し、かすかに呻くように言った。
「それで終わりか?お前の“学”は、それ以上の答えを持たぬのか?」
ハッサンはまっすぐに顔を上げ、冷静に告げた。
「私の学は、あくまで人間の範囲にあるものでございます、殿下。
……ですが、それを越えるものに触れたならば――それはもはや、
“知らぬまま死ぬ”か、“知って死ぬ”かの二つしかございません」
ハッサンの言葉が静かに空間に落ちる。
燃えかすとなった肉の繭は、すでに形を失い、ただ湿った灰と油煙だけが残されていた。
ムラトはゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどな。星が、天が、何かを示した、か」
言葉の端に、薄く棘が刺さる。
だが彼はそれを指摘せず、ただ肩の力を抜き、短く言った。
「お前の言うことだ、信じよう」
それが本心かどうかは、誰にもわからない。
だが軍の長として、目の前の“理解”に楯突く余裕は、もうないのだ。
ムラトは手を挙げ、周囲の兵に命じた。
「この部屋を守る。入り口は一箇所だけだ。他の扉と窓はすべて塞げ」
兵たちは即座に動き出す。
椅子、棚、机。壊れた燭台や、倒れた書見台すら引き寄せて、出入り口に積み上げていく。
「念のために火を用意しろ。松明を三本。火薬も少し」
ムラトは扉の前に立ち、板を斜めに差し込む兵に声をかけた。
「逃げ場ではない。だが持ち堪えるには十分な要塞にする。……いいな」
兵は黙って頷いた。
誰もが疲れていたが、誰もが理解していた。
ここが、“夜を超えるための砦”であることを。
バリケードは完成した。
扉には厚板が打ち付けられ、窓には書棚と机が重ねられている。兵たちは壁際に座り込み、疲れた身体を押し殺すように横たわっていた。
夜はなお深く、蝋燭の炎が小さく揺れる。
そして、それはやってきた。
――祈りの声だ。
始まりは低く、男の唸るような調子だった。
だが、すぐに女の声が、それに重なる。
そして子供の声が、また一つ、また一つと。
やがてそれは、人の声を真似た何かの声となった。
バリケードの向こう。屋敷の外。
いや、村全体から――風のように、霧のように、音が押し寄せてくる。
「……なんだ、これは……」
若い兵が顔を覆う。手が震え、松明の火がかすかに揺れた。
「耳を塞げ!」
ムラトが叫ぶが、その声も、祈りに溶けていく。
その言葉は意味を持たぬ。だが確かに心の奥の何かを揺さぶる言葉だった。
母の子守唄のようであり、恋人の囁きのようでもあり、死の間際の呻きのようでもある。
「っ……! やめろ、やめてくれ……」
一人の兵が立ち上がり、バリケードへとよろめいた。
「待て! 戻れ!」
副官のバヒーラが叫ぶより早く、ムラトは男の腕を掴んで引き倒した。
「しっかりしろ!これは声ではない、“毒”だ!耳ではなく心に侵す声だ!」
兵の目は涙で濡れていた。
だがその目が捉えているものは、この世のどこにも存在しないものだった。
火が頼りだった。
燃えさかる松明の光が、ようやく彼を現実に引き戻す。
「……火を絶やすな。目を逸らすな。光があるうちは、奴らも完全ではない」
ムラトは全員に言い渡した。
部屋は静まった。
だが、祈りの声は、今も壁の向こうで続いている。
祈りの声が、次第に天井を震わせ始めていた。
だがそれは耳に届くのではない。骨に、髄に、脳の皺に染み込むように響いていた。
「……っ、う……」
誰かの呻き声が、光の縁から漏れ出る。
ムラトが即座に反応した。
声の主は“噛まれた”兵士――アフマドだった。
「アフマド……?」
バヒーラが小声で名を呼ぶ。
彼は壁に背をつけ、両手で耳を塞ぎながら、何かを呟いていた。
「――ザヒル……ユフサール……ナラ……マハル……」
それは祈りだった。だが、この村の人々が呟いていたのと同じ言葉だった。
「アフマド、それは……お前、何を言っている?」
ムラトが低く問いかけると、彼は頭を振り、膝を抱え込んだ。
「ちがう……ちがう、俺は……でも、声が……あれは、呼んでいる……母の声のような……いや、もっと深い……もっと近い……」
額には汗がにじみ、呼吸は乱れている。
だが、目だけは冴えていた。あの、肉塊から生えた眼と、似た色をしていた。
「下がれ、誰も近づくな!」
ムラトが短く命じる。
アフマドの背筋が痙攣し、口元が裂けるほど開く。
祈りの言葉が、彼の喉を通して、まるで別の存在が語っているかのように発される。
「……マル=ハディールは開かれた。祝福されよ……喰らう者の……名において」
その瞬間、ハッサンが松明を握りしめて叫んだ。
「火だ!焼け!今すぐだ!」
バヒーラが飛び込み、ムラトの剣が一閃する。
アフマドの身体は、もはや兵士ではなかった。
皮膚の下でうごめく筋が幾筋も浮かび上がり、首筋から、白い芋虫のようなものが蠢いていた。
火が、それを黒く焼いた。
絶叫とともに、祈りは途切れた。
しばしの沈黙。
ムラトは、呆然とする兵士たちを見渡した。
「……聞くな。考えるな。疑うな」
「この声に触れた者は、すでに奴らの“内側”にいる」