風のない朝
風の音がしない――それはこの土地に春が来た証だった。
山を背に、穏やかな陽が差し込む小さな谷間の村。
オリーブの木立が揺れ、白い石垣のあいだから花の匂いが滲み出る。
麦の穂はふっくらと膨らみ、朝露の中でさやさやと音を立てていた。
その村を一望できる高台の屋敷に、ひとりの男が座している。
ムラト・イブン・サルフ。
かつて帝国を揺るがす戦で数千の兵を率い、旧文明の砦を落とした将軍。
だが今、彼の前にあるのは剣ではなく、山積みの帳簿と村人の陳情書だった。
「……水車の羽根がまた壊れた? そこの川は去年補強したばかりだろう。
おい、お前ら、あれほど言っただろう。刃物を磨く暇があるなら、木組みを見ろと」
報告に来た若い村役人たちが、気まずそうに頭を下げた。
ムラトはため息をつきながら、軋む椅子に背を預けた。
刀は壁に掛けられたまま、埃をかぶって久しい。
鎧は納屋の奥、油紙に包まれて封じられている。
剣も、戦も、この地には不要。
帝国から与えられたこの土地は、平和で、肥沃で、あまりに静かだった。
外の庭では、老兵が子供たちに木刀の振り方を教えている。
かつてムラトと共に戦った男だが、今では村の護衛と大工仕事を兼ねる。
「将軍さま、昼食には川魚が届いております。
奥方がお戻りでしたら、今日は鍋にするとのことで」
侍女が静かに言ってくる。ムラトは小さく頷いた。
陽の光は穏やかで、遠くに見えるのは、
銀のように光る小川と、鳥たちの群れ。
あまりに平和だ――まるで、戦場が夢だったかのように。
窓の外で、小鳥がさえずる。
帳簿の墨は乾き、昼の日差しが室内の埃を照らしていた。
扉が、控えめにノックされた。
「父上ー!」
返事を待たず、元気な声とともに小さな影が駆け込んでくる。
艶のある黒髪と、日焼けした頬。
年端もいかない少年――ムラトの息子、ファリードだった。
「また帳簿? もう退屈じゃない? 今日は、騎士ごっこしようよ!」
少年は背中に木の剣を背負い、手製の小さな盾を腕に嵌めている。
机の上の紙束に眉をひそめるその顔には、父に似た輪郭があった。
「……ああ、ちょうど良い。敵将の報告書が多すぎて、目が潰れそうだったところだ」
ムラトは椅子から立ち上がり、腰を軽く伸ばす。
重々しい剣を抜くような仕草で、ペンを鞘に納めると、
背後の棚から一本の木剣を取り出した。
「殿下の申し出、喜んで受けよう」
「やったー!」
ファリードは満面の笑みを浮かべ、部屋の中に作られた簡易な訓練場に走っていく。
母親が用意した木の柵と、袋を詰めた人形――
城の中での訓練遊びだが、彼にとっては本物の戦場。
ムラトはゆるく笑いながら、木剣を片手に向かい合った。
「さあ、騎士殿。敵はどこにいる?」
「門を破った! お父……いや、陛下、私が防ぎます!」
力強く構えるその姿に、ムラトはかつての自分の影を見る。
だが、その手は柔らかく、剣の先もまだ遊びの軌跡を描いている。
木剣がかすかに打ち合い、笑い声が部屋に響く。
帳簿の山も、帝国の地図も、このひとときは忘れられていた。
「わあっ! やった!勝った!」
ファリードが木剣を高々と掲げる。
ムラトは大袈裟にうつ伏せになり、呻くふりをした。
「……うう、まさかこの老将が、こんな若き騎士に討たれるとは」
「えへへ、父上はもう、僕の敵じゃないな!」
小さな胸を張る息子に、ムラトは目尻を緩める。
そのとき、控えめな足音が扉の前で止まった。
「そろそろお昼にしましょう、二人とも」
柔らかく澄んだ声。
振り向くと、そこに立っていたのは、ムラトの妻――リアーナだった。
淡い紺の布を頭にかぶり、金糸の縁飾りが揺れる。
素朴な衣の上には、手ずから摘んだハーブの香りが漂っていた。
「今日の鍋には、あなたの好きなヒヨコ豆と魚を入れたわ。
でも、もし“戦争ごっこ”がまだ続くなら、冷めても構いませんよ?」
小さな微笑みを浮かべながら言うその顔に、
ムラトは苦笑いを返しつつ、木剣を壁に立てかけた。
「いや、撤退しよう。敵将が思ったより手強かったんでな」
「……父上、僕、ちゃんと強くなった?」
ファリードが恥ずかしげに問いかける。
ムラトはそっと頭に手を置き、髪をくしゃりと撫でた。
「ああ。きっと、将来は立派な将軍になるさ。俺よりな」
リアーナはそれを見て、少しだけ目を細めた。
かつては幾千の兵を率いた将が、今では小さな命に剣を渡し、笑っている。
「それじゃあ、冷めないうちに。ほら、手を洗ってから来るのよ、ファリード」
「はーい!」
元気よく駆けていく息子を見送ると、ムラトはふと、リアーナの方へ目を向けた。
「平和ってのは、こういうものかね」
「ええ。でも……あなたは、少し退屈そうにも見えるわ」
茶化すような口調に、ムラトは肩を竦めた。
「戦よりは、ずっといい」
石造りの屋敷の食堂。
長い木のテーブルに、香ばしく焼かれた魚と、ハーブを浮かべた豆の煮込み、焼き立ての平パンが並ぶ。
テラスから差し込む光が、器の縁に反射して踊っていた。
ムラトは着席し、ファリードはもうスプーンを手に握っている。
リアーナは落ち着いた仕草で、湯気の立つ皿を一つひとつ配っていく。
そのとき――扉が勢いよく開かれた。
「どうも戦の声がすると思ったら……木剣で討たれたか、兄上?」
肩に剣を背負い、鎧の一部を外したままの女が、ブーツを鳴らして入ってくる。
ムラトの義妹にして副官――バヒーラ・アル=ナディーム。
彼女は信仰深く、常に剣帯を外さず、
戦においては忠実で有能な補佐だが、兄に対しては容赦がない。
「この屋敷の警備が甘すぎるわ。小鬼に討たれた将軍がいるくらいだもの」
「うるさい。あいつは奇襲が得意なんだ。訓練の成果だよ」
ムラトが皿をひとつ滑らせてやると、バヒーラは腰を下ろし、
無造作にパンをちぎって豆のスープに浸す。
「ありがたく頂く。……リアーナ姉さま、今日の香草、いつもより香るわね」
「森の奥の泉近くで採ったの。少し風味が強いかしら」
「いや、こういうのが軍務帰りの身体に沁みるのよ」
ふと、バヒーラは横目でムラトを見る。
「で? 最近の『戦場』はどう? 畑と帳簿の征服っぷりは?」
「静かだ。あまりに静かすぎて、いっそ狼でも襲ってこないかと願ってる」
「冗談にならないわよ。あなたが退屈してるときは、たいてい戦の前触れだもの」
その一言に、リアーナとムラトは一瞬だけ目を合わせ、微かに笑った。
笑いの絶えない昼食だった。
パンの香り、煮込みの湯気、遠くから響く村の子供たちの声――
バヒーラが最後のパンを口に運んだ頃、
屋敷の門前に馬の蹄の音が響いた。
その音は――戦場で幾度も聞いた“軍の駆け足”そのものだった。
やがて、侍従が慌ただしく駆け込み、
ムラトの耳元で囁く。
「使者が参っております。……帝都よりの使者です」
リアーナがそっと立ち上がり、ファリードを促して奥へ下がらせる。
バヒーラは無言で席を立ち、剣を手にして扉の方へ向かう。
ムラトは一つ深く息を吐き、椅子を押して立ち上がった。
広間に通されたのは、砂色の外套を纏った軍使だった。
胸にはスルタンの紋章、手には封蝋の施された巻物。
剃り上げた頭に影を落とし、顔を上げぬまま、跪く。
「ムラト・イブン・サルフ将軍殿……」
「もう将軍ではない。だが、要件は聞こう」
使者は巻物を差し出した。
「御前よりの布令にございます。
南方の地、地中海沿岸部に“異教徒の乱”が起きました。
これを平定するため、各地方領主の中より選ばれし指揮官に再召集がかかっております」
巻物には、黒い墨で命令が記されていた。
──汝、ムラト・イブン・サルフ。
汝が討ち果たしたる東の砦に勝るとも劣らぬ、
新たなる聖戦を遂行せよ。
神と帝国の名において、再び剣を取れ。
「地名は……?」
ムラトが低く問う。
「“マル=ハディール”――海辺の村にて異変が起こっております。
旧神の信仰が芽吹いたとの報があり、地の者は変節し、交易も断絶……。
その地を治めるのは、将軍と旧知の間柄である、ジャリール・イブン・ハミード殿と聞き及びます」
沈黙が落ちた。
バヒーラの眉が動き、リアーナは静かに視線を落とす。
ムラトはしばらく口を開かず、
手の中の巻物を、無言のまま見つめていた。
「――馬を整えよ。三日で出立する」
○ ○ ○
屋敷の一角、寝室の燭台に小さな火が揺れていた。
窓の外では虫の声と、遠く海から吹き込む夜風が、カーテンを優しく揺らしている。
ムラトは片肘をつき、衣を脱ぎかけたまま、机に置かれた地図をじっと見ていた。
その視線の先には、地中海沿いに赤い点が打たれている――“マル=ハディール”。
そこへ、リアーナが静かに近づく。
長い髪を緩く結い、夜着のまま、彼の隣に座った。
「……もう、行くと決めたのね」
その声に、ムラトは目を閉じて応えた。
「俺の名が、まだ“呼ばれる”ということは……
まだこの身が、戦のためにあるということだ」
「でも、もう十分に戦ってきたじゃない……」
リアーナの手が、そっと彼の腕に触れる。
「砦を落とし、将軍となり、領地を治めて……今は、父としてここにいる。
もう、剣は……いらないと思ってた」
ムラトは手を伸ばし、彼女の指に触れる。
その手は温かく、けれど少し震えていた。
「……俺も、そう思っていたよ。だが、ジャリールが危うい。
かつて同じ火の中をくぐり抜けた男が、今も戦っているというなら……」
「分かってる。あなたが“行くしかない”ってことも……でも……」
リアーナの声が、かすかに揺れる。
「ファリードはまだ小さい。父の背を、もっと見ていたいはずなのに……」
ムラトは苦しげに息を吐き、彼女の額に唇を寄せた。
「戻る。必ず。……この地と、お前と、あいつのもとへ」
「うそつき」
リアーナが小さく呟き、顔を伏せる。
「あなたは、そうやって何度も私を置いて出ていった。
でも――それでも、無事に戻ってきたから、私は今ここにいる。
だからまた信じるわ。……でも、私は、もうあなたの剣が嫌いよ」
その言葉に、ムラトは返す言葉を持たなかった。
ただ、夜の静けさの中で、二人の影が重なっていた。
○ ○ ○
夜明けの空は鈍い藍色に染まり、雲が東へと薄く裂けていた。
屋敷の前庭には、馬と荷駄、鎧をまとった兵たちが整然と並び、武具が風に鈍く鳴っている。
数は六十――
少数だが、すべてムラトが信を置く者たち。
その中心に、バヒーラもいた。剣を腰に下げ、口元に微かな緊張を宿している。
ムラトは最後に、自らの馬に鞍を置くと、
家の門に目をやる。
そこには、リアーナとファリードの姿があった。
「……ちゃんと、帰ってくるのよ」
リアーナは強くそう言った。
泣くこともなく、ただ真っ直ぐに彼を見ていた。
ファリードは、昨日の木剣を大事そうに握っている。
「父上、あの剣、忘れたらだめだよ。ぼくが作ったんだから」
「……ああ。お前の剣があれば、どんな敵も退けられる」
ムラトはしゃがみ、息子の額に口づけを落とす。
それから、馬へとよじ登った。
バヒーラが合図を送ると、兵たちは一斉に動き出す。
馬の蹄が土を蹴り、鉄の音が地を打つ。
日常の香りは、もう背中に過ぎ去っていた。
リアーナは、遠ざかる軍勢をただ静かに見送っていた。
その手に握られていたのは、ムラトが最後に外した指輪―
彼が再び家へ戻るときの“証”だった。
○ ○ ○
陽光はやわらかく、風は心地よい潮の香りを運んでいた。
地中海沿いの古道はよく整備され、歩を進める馬蹄と靴音が、一定のリズムを刻んでいた。
ムラトの一行――およそ六十名の遠征軍は、海岸とオリーブ畑を左手に、内陸からマル=ハディールを目指していた。
「将軍! このあたりの羊乳酒は絶品だと聞きましたぜ」
騎兵長のタリクが馬上でにやりと笑う。
「村の様子が落ち着いたら、一杯やらせてくださいよ。あんたの祝勝会と洒落込みましょうや」
「戦が片付いた後の話をするとは、随分と楽観的だな」
ムラトが言うと、バヒーラが少し眉をひそめながら口を挟んだ。
「けれど、敵の姿も見えないまま進軍するのも妙な話。
本当に“乱”が起きているのなら、何かしらの抵抗があってもおかしくないはず」
「それほど静かなのさ、副官殿」
後方を進む軍医ハッサンが笑う。
「“敵が声を潜める”のは、時としてこちらの士気を削る。……が、今のところはまだ、我らの方が勝っている」
兵士たちは冗談を交わし、馬の背で口笛を吹く者もいた。
時折、小川に水を汲みに降りた若い兵たちは、顔を濡らして笑い合っていた。
補給も順調、疲弊も少ない。
昼には松の木陰で野営し、夜は交代で火を焚いて見張りを立てる。
ムラトは、隊列の前方を進みながら、時折背後に目をやる。
この旅にいる者の中で、自分だけが“戦を知る”者ではない。
皆、かつて共に剣を振るい、火の中を進んだ者たちだ。
彼らの顔に今、恐れはない。
あるのは――「かつての栄光の続き」が待つと信じる目だけだった。
正午を少し回った頃だった。
一行が小さな丘を越えると、風に乗って、焦げた木の臭いが微かに漂ってきた。
ムラトが馬を止め、手を挙げる。
部隊も次々と歩を止め、斥候の数人が左右の森へ散る。
やがて、林の縁で火を使った形跡が見つかる。
焼け跡の中央にあったのは、完全に黒焦げになった木造の小屋だった。
梁は崩れ、壁は炭と化し、屋根は落ちていた。
タリクが鼻をつまみながら呟く。
「焼き討ちか……いや、これは“中から”燃えたように見えますな」
ムラトは言葉を返さず、足で焼けた扉を押し退けた。
煙の残り香と、焦げた肉の匂いがぶわりと立ちのぼる。
「中に……」
バヒーラの声が低く沈んだ。
焼け落ちた床の隅に、形をとどめない炭の塊がいくつか転がっていた。
明らかにそれは人間だった。いや、“人間だったもの”と言うべきか。
頭部らしき部分のいくつかには、焼けた骨が露出し、
腕や脚の骨が、奇妙な角度で折れたまま残っていた。
ムラトはしゃがみ込み、そのうち一つをじっと観察した。
「……ここを焼いたのは“火”だけではない」
彼は黒く炭化した胴体の脇、焼け落ちた衣の隙間に――
鋭い刃による切り裂きの跡を見つけた。
「誰かが、火を放つ前に斬った」
「それも……一人や二人ではないな」
バヒーラが手にした鉄片を見せた。血のこびりついた、短剣の柄だった。
ハッサンが眉をひそめながら囁く。
「争いにしては妙です。防戦の痕跡もなく、まるで……屠殺に近い。
火をつけて焼き払うなど、通常の村の抗争ではまず起こりえません」
辺りに他の足跡は見つからなかった。
動物の襲撃ではない。ならば……。
「この辺りの農民がやったにしては、手口が洗練されすぎてる」
タリクの口調も、さすがに軽くはなかった。
沈黙の中で、ムラトはひとつ立ち上がった。
「埋葬の余地もない。ここはこのままにしておこう。
……このことは、村へ入る前に知っておくべきものたちだけに伝えろ」
その言葉に、バヒーラも頷いた。
兵たちの士気を保つためには、“異常”の種を撒いてはならない。
馬の蹄が再び動き出す。
しかし、彼らの背に乗った空気は、先ほどまでの軽やかさを失っていた。
太陽が西の海へと沈む頃、ムラトの軍は小高い丘に陣を敷いた。
丘の下には、乾いた麦畑の残骸と、遠くに見えるマル=ハディールの尖塔がかすかに映っている。
兵たちは慣れた手つきで布を張り、火を起こし、荷から食糧袋を取り出していた。
松の枝を燃やした香ばしい煙が、静かな夜空へと昇っていく。
「……海風がずいぶん生温いな。もうすぐ嵐でも来るか」
タリクが火に手をかざしながら言う。
「風は正直よ。何かが変わると、真っ先に感じ取るものだもの」
副官バヒーラは静かに答え、視線をマル=ハディールの方角へ向けた。
「……音がないわ。鳥も、虫も、夜の犬さえ」
その言葉に、兵のいくつかがそっと耳を澄ませる。
確かに、風が吹いているにもかかわらず、木々のざわめきのほか、音という音がない。
村から漂ってくるはずの、羊や井戸の音、鍋の匂い、暮らしの気配――それらがすっぽりと抜け落ちているようだった。
ムラトは少し離れた岩の上に腰を下ろしていた。
視線はずっと、暗く沈んだ村の輪郭に注がれている。
そこへ軍医ハッサンが近づき、温めた蜂蜜入りの乳を差し出す。
「喉を潤しておかれよ。明日には、村へ入るのですからな」
ムラトは受け取った椀を手に、火にかざしながら言った。
「……明日、何が出迎えてくれるだろうな。人か、亡霊か」
「人であれば、我らの声に応じましょう。亡霊であれば……きっと沈黙で答える」
その言葉に、ムラトはかすかに笑い、乳を一口啜った。
兵たちはそれぞれの小隊ごとに野営を整え、交代で見張りにつく準備をしている。
食事は干し肉と平たいパン、香草入りの豆粥。
どこか寂しげな味だったが、疲れた体には心地よかった。
月はまだ昇らず、海と空の境は曖昧なまま、ただ風だけが丘を通り抜けていった。