タル=アヴァリスの炎
――鉄と声が入り混じる、乾いた空気の中で剣は振るわれていた。
太陽はすでに高く昇り、断崖に築かれた砦の石壁を黄金に染めている。
煙が上がるのは、敵が投げつけた油壺に火が回った証。地に転がる骸の横を駆け抜け、ムラトは叫んだ。
「押せ!壁際まで追い込め!敵は数を失った、陣形を崩すな!」
前列の騎兵が槍を突き立てるたび、敵兵が悲鳴を上げて石畳に崩れた。
その隙間から盾を構えて押し上がるのは歩兵たち。
ジャリールの部隊は右の小路から回り込み、砦の副門に向かって攻勢をかけている。
「ムラト!左から抜ける!崩れかけの倉庫の裏手に抜け道があるはずだ!」
叫びながら駆け寄ってくるその男――ジャリール・イブン・ハミードは、血に染まった鎖帷子の隙間から陽光を跳ね返していた。
頬に傷を負いながらも、その眼光はまったく揺らいでいない。
ムラトは一瞬だけ頷き、肩越しに背後へ命じる。
「第四隊、ジャリール殿に続け!第二陣、門前で弓を構えろ、奴らの頭を上げさせるな!」
返事の代わりに、短く鋭い号令とともに盾が鳴り、兵たちは動き始める。
――砦の扉はまだ閉ざされている。だが、すでに勝敗は決していた。
敵は逃げ場を砦の中にしか見いだしていない。退却と防御の動きは明らかに乱れている。
ここで踏み込めば終わる。そう、帝国の旗がこの断崖の上に翻るのは時間の問題だ。
ムラトは泥にまみれた剣を振り払いながら、目を細めた。
砦の高み、見張り塔のひとつ――その頂から、ひとりの男がこちらを見下ろしている。
金の縁取りが施された白い外套、槍を携えたまま微動だにしない。
最後の敵将。かつて、帝国に抗い続けた“沈黙の騎士団”の生き残り――
「……行くぞ。すべて、終わらせる」
ムラトは静かに呟き、駆け出した。戦の終わりは近い。
○ ○ ○
砦の門が閉ざされる音が、遠く断崖の石壁に反響して消えた。
戦場には、ひとまずの静けさが訪れていた。
高台に立つ小さな聖堂跡――崩れかけた石段の上に、二騎の馬が並ぶ。
一人は帝国軍司令ムラト・イブン・サルフ。
もう一人はその盟友、ジャリール・イブン・ハミード。
彼らの鎧は血に染まり、剣には未だ泥がこびりついていたが、どこか誇らしげな余熱をまとっていた。
「……随分と粘るな。あの砦、牙を抜かれた獣かと思っていたが」
ジャリールが口の端をゆがめて言う。
青銅色の盾を背に、片腕を槍に預けながら、砦の壁を遠く眺めていた。
ムラトは短く息を吐き、手綱を緩めて答える。
「牙は抜けても、信仰は残る。あの者たちにとって、この砦は祈りの最後の灯火なのだろう」
彼の目に映るのは、煙の立ち上る塔――
塔の上に掲げられた、褪せた赤の旗。それは旧帝国の象徴だった。
「“沈黙の騎士団”か。まるで伝説のような名だ。……剣を取るだけの信仰に、いったい何が残る?」
「何も残らぬさ。だが、信じきった者ほど厄介な敵はいない」
ムラトはそう言って、鞍から片足を下ろした。
風が吹き、丘の枯れ草がざわめいた。
「だが、この戦が終われば――ようやく帝都に帰れる」
「そうだな。俺たちの名は、帝国の記録に刻まれるだろう」
ジャリールは、遠くマル=ハディールの方向を見やった。
それは彼の生まれ故郷、そして、のちに災厄が訪れる地でもある。
「……あの港にも、春風は届いているだろうか。あの冷たい風さえ、今日は穏やかに吹いているかもしれん」
ムラトはその言葉に目を細めた。
「帰ったら、酒場で一晩語ろうか。火の前で剣を下ろして」
「火の前で――それは贅沢だな、司令殿」
互いの視線が重なり、笑みがこぼれた。
だが、次の瞬間、砦の中から聞こえてきた――鈍い音が、空気を裂く。
鉄が打ち合う音。断続的な叫び声。
ムラトの顔から笑みが消える。
「……早すぎる。籠城の備えを捨ててまで、奴らは何を企んでいる?」
「……出る気か?この状況で?」
門が軋み、砦の内側から数十名の兵がなだれ出た。
それは正規軍の隊列ではなかった。盾も鎧も捨て、剣と信仰だけを握った男たち。
「アド=ナイ!アド=ナイ・エル=ルハーム!」
彼らは叫びながら駆けてくる。
火に焦げた布をまとい、胸元に古の印章を刻みつけ、目には涙とも熱病ともつかぬ光が宿っていた。
「主よ、われらを照らしたまえ――!」
その声は、戦場というよりも祭壇に近かった。
命を捧げることが赦しだとでもいうように、彼らは自ら突撃してくる。
ムラトはその様子を、馬上から静かに見下ろしていた。
「……狂信か。あるいは、祈りの果てに残されたものか」
彼は槍を持たなかった。剣にも手をかけず、ただ見ていた。
彼らが帝国軍の盾に叩き伏せられ、槍に貫かれていくさまを。
ジャリールが歯を食いしばるように問う。
「ムラト、お前はそれをただ見ているのか?」
「……あれは、終わった時代の幻影だ。
無残に死ぬのが、神の望みだというなら――その神が滅ぶのも時間の問題だ」
ムラトの声には怒りも憐れみもなかった。ただ風のように冷たい響きが残る。
「死者は語らず。だが、その血は語る」
突撃は止まった。地には祈りが倒れ、血に染まった布が風に翻る。
やがて、砦の上部――塔の窓に影が見えた。
敵の将か、あるいは神官か。
ムラトは目を細め、無言のまま手綱を握り直す。
戦は終わっていない。それは、いまだ沈黙の中に火種を宿していた。
○ ○ ○
夜が明け、霧が晴れるよりも早く、太鼓の音が戦場に鳴り響いた。
乾いた鼓膜の振動が、断崖の砦に向けて進軍の意思を告げる。
帝国軍の工兵たちが、大木の幹から削り出した攻城梯子を数本、壁際へと担ぎ上げていた。
それは前夜のうちに準備されていたもの。突撃の合図とともに、兵がそれを肩に走り出す。
「壁へ! 一番隊、援護を!」
ジャリールの号令が飛ぶ。
兵たちは声を張り上げ、盾を構え、砦の傍らへと雪崩れ込むように進んだ。
梯子が立てかけられ、重装の歩兵が先頭を駆け上がる。
その瞬間――砦の上段から鋭い弦音が響いた。
「伏せろ!」
ムラトの声が響くよりも早く、空を裂いたのは数十本の矢ではなく弩の一斉射だった。
高台に並ぶ射手たちは、狙撃の構えを崩さぬまま、兵の動きに合わせて正確に矢を撃ち込んでくる。
「連弩か……。技術は古いが、運用は見事だな」
ムラトは馬を降り、指揮台の帆幕の影から戦況を見つめていた。
ひとつ、またひとつ――梯子の上で叫びがあがる。
味方の兵が、登攀の途中で身体を貫かれ、次々と地に叩き落とされていった。
「斜面が狭すぎる!梯子を運ぶにも時間がかかるぞ!」
副官が叫ぶ。
「――いや、奴らは動きを読んでいる。梯子では無理だ」
ムラトはそれだけ言うと、布地の地図を指で押さえた。
「この断崖の東側。あそこに岩棚がある。夜明けには影になり、砦から死角になるはずだ。
そこへ小規模の部隊を回せ。ロープと鉤縄で静かに登らせろ。囮の梯子部隊は陽動とする」
「ですが、あそこは岩が崩れやすく――」
「……だからこそ、奴らは見ていない。登れるのは兵十名が限界。だが、奴らの頭上を取れれば、砦の扉は開く」
副官は一瞬息を飲み、やがて低く頷いた。
「ムラト将軍、我らの神は貴殿のような男をお創りになったのですな」
「神など知らん。俺はただ――勝ちにきた」
○ ○ ○
岩棚に立つ風は、砦のそれよりも冷たかった。
東の空が紫に染まり始めたころ、岩場の影に身を潜めた十余名の兵士が、静かに鉤縄を放った。
「……あの将が、俺たちと来るとはな」
小声で呟いたのは、若い弓兵。
ムラトの背中を見上げながら、何かを呑み込むように息を吐く。
鎧を脱ぎ、軽装に身を包んだムラトは、鉤縄が岩を噛んだ音にも一切振り返らなかった。
「言葉は後にしろ。戦場では沈黙が命を繋ぐ」
声は低く、しかし岩壁に染みこむような重さがあった。
月の残光を背に、ムラトはロープを掴み、一気に岩肌を駆け登った。
老練な将の動きではない。まるで獣のように、迷いなく、力強く。
他の兵たちも続いた。
風が吹き抜け、遠く砦の鐘が鳴ったとき――彼らの足元は、すでに砦の外縁に達していた。
石壁の外。足を踏み外せば谷底。
だがムラトの目は、一点を見据えていた。
「……あの見張り塔の裏手だ。梯子は無用、斬って入る」
合図は要らなかった。
ムラトが剣を抜いた瞬間、他の者たちも同時に身を起こし、壁を越えた。
砦の裏手に設けられた小門。
その前で火を焚いていた二名の見張り兵が、異変に気づく前に切り伏せられる。
鉄が鳴る。血が撒かれる。
短い悲鳴を最後に、砦の一角に静寂が戻った。
「門は開くか?」
「はい、将軍。この先の滑車を落とせば――」
兵の手が鉄の輪にかかる。
ムラトはその横を通り過ぎながら、すでに耳を澄ませていた。
――沈黙の騎士たちが、音を聞いたはずだ。
敵は来る。
だがこちらには、先に剣を振るう者がいる。
「城門を開け。陽が登る前に決着をつける」
城門が、きしみを上げて内へと押し開かれた。
それはまるで砦が口を開け、地獄の呼気を吐き出したようだった。
「総攻撃、開始!」
ジャリールの怒声とともに、帝国軍の本隊が突入する。
朝日が、門を越えた刃に閃きを落とす。
弩兵が倒れ、盾を捨てた敵兵が火を灯す。
油の匂い、血の匂い、灰の匂い――混ざり合った戦場に、ムラトは剣を抜いた。
湾曲したその刃は、太陽にきらりと光る。
――“サルフの鉤月”とあだ名された、彼の愛剣だ。
敵兵が一人、悲鳴をあげて斬りかかってくる。
まっすぐに、勢いだけで突き出された槍。
ムラトは横に踏み出す。
刃の根元を回し込むように槍を絡め、ぐ、と手首をひねる。
ギィン、と金属がきしむ音。
次の瞬間、ムラトの剣が槍の柄を切り裂き、敵兵の喉元を一閃した。
返す刃。斜めに切り上げたその軌跡が、続けて背後の敵の腹部を斬り裂く。
回転、踏み出し、膝裏を薙ぎ払うように、刀身が地をなめた。
敵兵が三人、同時に崩れ落ちる。
「ムラト将軍……!」
部下が息を呑む間もなく、ムラトはさらに一歩踏み出していた。
刃は常に流れるように、止まらない。
斬るのではない。断ち切る“線”を見極めて流す。
相手の力の流れを受け流し、逆にそこに自分の刃を置くように――
敵の剣が斜めに振り下ろされる。
ムラトは体を一拍だけ遅らせてから動く。
刃先が肩にかかる寸前、半歩沈み込んで、脇腹から刃を滑らせるように突き入れる。
敵の息が止まった。
「……遅い」
低く呟いて、刃を引き抜く。
敵はまだ、目を見開いたまま倒れた。
砦の中庭には、瓦礫と血、火の音と叫び声。
煙が巻き上がるなかで、ムラトの剣だけが、静かに月のように舞っていた。
火の粉が舞い、瓦礫の上に黒煙が巻く。
中庭の奥――塔の手前、石畳の広場に、それは立っていた。
甲冑は青鉄と金の装飾で形づくられていた。
肩当には双頭の鷲が浮き彫りとなり、胸板には古の聖句と家紋が絡む金の意匠が施されている。
その威容は、まるで神殿の像が歩き出したかのようだった。
男の名は知らない。
だが、その姿だけでわかった――
これは旧帝国、ビザンツの残された“誇り”。
ムラトは、煙の向こうで剣を握り直す。
「帝国の犬にしては、なかなか着飾っているな」
男は何も答えず、頭部の兜を持ち上げる。
――顔は壮年、鋭い鷲鼻と深く刻まれた眉間。だが目は澄んでいた。
まるで、神の座から見下ろすような静謐と冷笑が宿る。
「我らは滅びぬ。血が流れても、理念は剣に宿る。
貴様らの文明には、それがない。あるのは命令と計算――魂なき刃物だ」
「魂の重さで勝てるなら、お前たちはこんな砦に隠れていなかっただろう」
その瞬間、甲冑の騎士が地を蹴った。
刃が閃く。ムラトもまた、応じて踏み込む。
打ち合い。金属の衝突音が、鐘のように響いた。
重い。男の剣は両手持ちの大剣、斜めに振り下ろされるだけで石畳に亀裂が走る。
だが、ムラトは受けない。
足運びと身の旋回でかわし、曲剣の曲線を活かして鎧の関節へ刃を差し込む。
「ハッ……お前の剣には、詩がない!」
男が吠え、水平に薙ぎ払う。
ムラトは地を滑るように後退し、避けざまに肘関節を切り裂く。
「詩など、戦に要らん」
再び接近。
ムラトの剣が、相手の剣の鍔に絡みつき、刃を跳ね上げる――
そこに突き刺さる、膝蹴り。
甲冑の腹部に沈んだ瞬間、空気が抜けるような呻きが漏れた。
「……っ、神の名において――」
「もう神はおらん」
ムラトの刃が、相手の兜の隙間へと滑り込む。
一瞬、黄金が弾け、血が飛び散った。
男は、膝をつき、静かに前のめりに崩れ落ちた。
その姿を、ムラトは黙して見下ろしていた。
「……誇りは、剣で語るべきだったな」
残る兵たちが、ムラトの後ろに集まってくる。
砦の塔へと、最後の突入が始まった。
塔は、砦の中央にそびえていた。
天へ向けて張り詰めた石の塊――まるで神の意志を模したかのような無言の構築物。
その内部に、残敵が立てこもっていた。
数は三十余。弩兵、衛兵、老人の司祭――
皆が皆、信仰と運命の名のもとにこの塔に骨を埋める覚悟でいた。
「門を焼き落とせ。水は使うな。煙で炙れ」
ムラトは命じた。
兵たちが塔の正面扉に火矢を打ち込み、油を撒く。
扉の内側からは弓矢と叫びが返ってくるが、すでに射線は散っていた。
石段を駆け上がろうとした兵の一人が、矢に眉間を射抜かれ、音もなく崩れた。
それを見ても、誰も止まらなかった。
「砦の外へは道はない。生きるか、死ぬか、それだけだ」
ジャリールが吠える。兵たちが続く。
塔の入口が黒く焦げ、ついに崩れた。
突入――
内部は狭く、暗い。
階段は狭く螺旋状。壁には油と煤が染みついていた。
突撃する兵たちに、上から石壺や火油が叩き落とされる。
一人が炎に包まれ、喉を焼かれながら階段を転がり落ちる。
ムラトは言葉を発さない。
ただ、前へと歩いた。
敵の足場を奪いながら、剣で火を払うように切り開いていく。
火油を浴びた盾兵が咆哮し、先陣を切って突っ込んだ。
続けて、ジャリールと数名の護衛が階段を駆け上がる。
敵兵の一人が振り下ろした棍棒を、ムラトは剣で受け流す。
流す。絡める。断ち切る。
ひとつ、またひとつ、階段を登るたびに、抵抗の音が途切れていく。
そして――塔の最上階にたどり着いたとき、そこにあったのは、
火と血の香りにまみれた崩れた祭壇だった。
神の像は首が折れ、血塗れの幕が揺れていた。
司祭と思しき老人が、剣を前に両手を広げる。
「貴様らの勝利は偽りだ……神は見ている……この血はすべて……地に祟るぞ……!」
「神か――」
ムラトは刃を振るう。
音もなく、首が転がる。
煙はようやく晴れつつあり、塔の上階には朝の光が差し込み始めていた。
火薬と血の匂いの混じった空気の中で、ムラトは剣を鞘に収める。
彼の前には、崩れた神像の残骸。
折れた石の顔面は、今もなお天を見上げるように転がっていた。
「……終わったな」
背後から、厚い鎧の音が鳴る。
階段を上ってきたジャリールが、満身創痍の様子で肩を回していた。
「ようやく、だ。長かった……この砦を崩すまで、三度も血を流した」
ムラトは振り返らず、崩れた祭壇を見つめながら静かに答える。
「崩したのは砦ではない。
ここに住まう“過去”そのものだ。……ようやく、帝国の地図が一枚、塗り替わった」
「勝利だ、ムラト。あの高慢な鷲どもが、自ら血を吐いた」
ジャリールは笑い、肩を組むようにしてムラトの隣に立つ。
二人の視線の先には、石の窓の向こうに広がる光。
その先に、地中海がきらめいていた。
赤く燃える砦の瓦礫が、風に吹かれて崩れ落ちていく。
死と勝利の入り交じる静寂のなかで、ムラトは言った。
「……この勝利が、いつか我らに報いをもたらすとしても。
それはまだ、今日ではない」
「報いか。お前は昔からそういうことを言う。
だが今日ぐらいは祝え、ムラト。
俺たちは生きている――それだけでもう、充分すぎる」
しばしの沈黙。
ムラトはわずかに目を細め、初めてわずかに笑ったように見えた。
「……ならば、酒と火と太鼓だな。兵どもに振る舞ってやれ。
今日だけは、刃を下ろしてもいい」
「命令として、喜んで受け取ろう」
二人は、燃え落ちる砦を背にして石段を降りていく。
勝利と、ほんのわずかな疲労感を纏って――