表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

「勇気」

あなたへの音楽

作者: 六福亭(中澤敬)


 音楽をやることはもう二度とないと思っていた。

 若い頃に必死で働いてせっかく買った楽器も今はただ埃をかぶって、部屋を圧迫するばかりである。家にいれば嫌でも目につくその楽器は私の後ろめたさを刺激したが、それでもケースを開く気にはなれなかった。


 あれほど聞き漁っていたクラシック曲のCDは、全て売り飛ばした。喫茶店や保留音で聞き覚えのある曲が流れるたびに少しだけ不愉快な気分になった。演奏会のポスターを街中で見かけると即座に目をそらしたが、その後しばらく胸の奥にしこりが残った。


 音楽をやめた理由はまだ語れない。私の中で整理がつけられていないからだ。自分は嫌なことばかりよく覚えている性分らしい。長い年月が経っても、昔の出来事を鮮明に思い出せてしまう。


 新しい趣味を始めようとしたことは何度もあった。だが、どれも今ひとつ身が入らなかった。最近は諦めて、ただ職場と自宅を往復するだけの中年になった。


 そんなつまらない日々の中で、私はあの人に出会った。

 

 彼女を一目見た時、これほど美しい女性は他にいないと確信した。身につけるものは品が良く、立ち居振る舞いも凜としていた。しっとりと優しい声を聞いていると幸せな気分になった。仕事中だったのに。自分が恋をしていると気がつくのにそう時間はかからなかった。

 

 彼女には夫がいる。だからこの恋は成就するはずがない。それでも、仕事の間彼女と会うことができるのが嬉しい。彼女に自分の名前を呼ばれる瞬間を心待ちにしている自分がいる。無表情を装っていても、覚えず顔が真っ赤になっているのではないかといつも恐れている。

 

 家に帰っても休みの日も、ずっとあの人のことを考えてしまう。外出する時、あの人に出会わないかと期待してしまう。だが彼女はきっと夫と仲睦まじく過ごしているはずだと思い出し、悔しくなる。一体家ではどんなことを話しているのだろう。何が好きなのだろう__。


 その日も、悶々とした気分を抱えながら職場から帰宅した。ふと横倒しに放置された楽器ケースが目に留まった。

 その時一体何を考えていたのか__後になってどうしても思い出せない。だがとにかく私は二十数年ぶりにケースを開いた。木の匂いが鼻をついた。昔相棒同然に向き合った楽器は、変わらぬ姿で私を待っていた。

 弓に松脂を何度も塗り、調弦した。ペグを回す力加減が分からなくて、手が震えた。それでも、不思議と以前のような嫌な気分にはならないようだった。


 楽器を弾いた時、何かが私の元に戻ってきた気がした。昔退屈だと侮っていた音階が楽しい。辛うじて覚えていた曲を楽譜もなしに夢中で弾いた。隣の部屋の住人から苦情が入るまで、私は一度も弓を止めなかった。


 その日以来楽器を弾くことが日課になった。時にはあの人を思って弾き、またある時は無心で弾いた。練習曲の楽譜を捨ててしまっていたので、買い直した。重い楽器を抱えて近くのカラオケボックスに通い詰めた。

 何故今更音楽を再開したのだろう。私は時折自問する。そして、いつも違った答えを出す。頭の中いっぱいに詰まった彼女への思いを追い出すため。いつか彼女に聞かせるため。どれも本当の答えじゃない。実のところ、楽器を弾いていれば、彼女の前に出ても平静でいられると錯覚し続けているのだ。

 

 私が楽器をまた弾き始めたことを、昔の音楽仲間が知った。比較的近くに住んでいる彼はアマチュアオーケストラを主宰していて、団員不足に悩んでいた。だから私にわざわざ会いに来て、定期演奏会に出ないかと熱心に誘った。

 私はすぐに断った。自分一人で弾くのと、人前で弾くのは全く違う。自信もなければ、交響曲を完遂する体力もない。自分にとってもそのオーケストラにとっても良い結果にはならないと分かっていた。

 すると友人は、では何のために音楽をしているのかと聞いた。あの人のことは当然話さなかった。だが、何となく感づかれた気がした。その日から彼が頻繁に連絡してくるようになったからだ。

 そしてある日とうとう、演奏会でやる曲の譜面がPDFで届いた。無視してもいいはずだ。だが、私はいつしかそれを印刷していた。譜面を眺めているうちに、久しぶりにその曲を聴きたくなった。__それで、きまりだった。いつもいくカラオケボックスに、楽器と、その楽譜を抱えて行くようになった。


 合奏に参加するのはかなり不安だったが、知り合いがその友人しかいないせいか、気兼ねなく練習することができた。同じパートの人達はあまり干渉しない性格らしく、演奏上の打ち合わせと軽い世間話だけで話は済んだ。

 練習を重ねる傍ら、相変わらず仕事で彼女と会う。彼女の輝くような魅力が、私の練習を邪魔することがある。それでも、私は楽器を弾く。その先に何があるでもなく、ただ自分のためだけに音楽と向き合っている。

 あの人に、楽器を弾いていることを打ち明けたらどんな顔をするだろう? そんな馬鹿なことを考えたことも何度かある。感心してくれるだろうか。音楽に興味はあるだろうか。もしかしたら、彼女も楽器をやったことがあるかもしれない。彼女にはオーボエがきっとよく似合う。

 だがいざ彼女と会うと、そんな話をする勇気はなくなってしまう。ノルマとして配られた無料チケットを渡すなんて夢のまた夢だ。同僚にさえ演奏会のえの字も話題にできないのだから。


 本番一週間前の指揮者練は終わり、ゲネプロも過ぎ、とうとう本番の時間がやってきた。久しぶりに締めた蝶ネクタイは何度やっても少し曲がっていた。楽屋にいる間は、まだ余裕があった。


 だが、舞台袖に来た時、私は凍ってしまった。ホールには沢山の客がいる。無理だ。大勢の前で弾けるわけがない。舞台袖の真ん中で立ち止まった私を訝しみ、何人もの団員が声をかけてくれた。それでも私はその場から動けなかった。どうしたんだろう。昨日まであんなにすらすらと指が、腕が動いたのに、今は肩から先が鉛のように重い。体中を駆け巡っていた音楽は、全部流れ出してなくなってしまった。

 あの時の呪いだ__そう思った。学生時代最後の演奏会。担当楽器での参加に加え、学生指揮者をしていた私は、オープニング曲の指揮をすることになっていた。ところが、私が指揮棒を振り上げた時、誰も楽器を構えなかった。気まずい沈黙が長い時間流れ、客席が嫌な感じに騒ぎ始めた。

 単純な話だ。ストライキを起こされるほど、私は部員達にとって嫌な指揮者だったのだ。ただ、割り当てられた職分を全うしようと音楽に向き合っただけなのに。土壇場で裏切った部員達を恨めば恨むほど、自分自身が惨めになった。

 今こそ昨日のように思い出す、自分に前から後ろから向けられる冷ややかな視線。自分以外誰も動かない恐怖。きっと今も、あの日と同じだ。自分は失敗する。せっかく呼んでもらったこの演奏会を台無しにしてしまう。

 同じパートの人達は先に移動してしまった。まだ舞台袖にいる自分を、皆が待っている。いっそ、逃げ出してしまえばいいんじゃないか? 自分抜きで演奏を始めてもらえば、舞台上で失態を犯すことはなくなる。__そして、もう私は二度と楽器を弾かない。

 

 その時、あの人のことを思い出した。あの人は私の今日の惨めな姿をきっと知らない。だが、今逃げ出してしまえば、私はもう恥ずかしくてあの人の前に決して出て行かれない。私に勇気と呼べるものがわずかでも残っているのならば、今ここで全て使い果たしてでも、本番に出なくてはならない。


 一ベルが鳴った。もう迷っている時間はあまりない。私はその場で楽器を持ち上げた。足を一歩ずつ動かした。とてものろのろとした動きで、自分でもじれったい。進め。逃げろ。正反対の命令を脳が出す。怖い。それでも、私は舞台に出なければならない。あの人のために。いや、あの人を密かに想う自分自身のために。

 舞台はすでにライトで照らされており、チューニングが始まっていた。管楽器のチューニングはすぐに終わる。オーボエの最後の一音が消える前に、私はそっと上手から舞台に滑り込んだ。パートリーダーと、こちらを窺っていた友人が安堵の表情を見せた。


 だが、まだだ。まだ弾けるか分からない。どうせ一人だけ弾き真似していても分からないだろうと、弱い自分に負けてしまうかもしれない。弓を構える手は震えている。楽譜を開くのを忘れていて、隣の人がそっと注意してくれた。

 指揮者が出てきた。大きな拍手を浴びて、彼は誇らしげにお辞儀をした。それを見ていると、悲しい気分になった。だが同時に気がついたことがある。今そこにいる指揮者をあの日の自分と同じ目に遭わせないためにも、私は弾かなければならない。


 指揮者が構えた。オーケストラ全体が動く。私もその中にいる。始まるまでの時間は永遠であり、一瞬だった。


 

 全ての音が終わった後、至高の沈黙が訪れ、それからすぐに拍手がわき起こった。指揮者がソリストを立たせ、パートごとに立たせ、何度も讃えさせた。観客もそれに応じて何度も拍手を送った。


 私は茫然としていた。弾けた。観客の前で、最後まで音楽の一部であり続けることができた。

 

 その時始めて、今まで全く目に入らなかった客席を見る余裕ができた。席はほとんど埋まっており、皆顔を輝かせて舞台を見上げている。


 その中に__それも上手側の前から2列目の席に、あの人がいた。

 彼女も力強く手を打ち鳴らしていた。美しいその顔は、笑みで彩られていた。

 彼女と私の目が合う。疲労と驚きで何も考えられないけれど、視界が滲む。

 ここに私がいて、彼女もいるというただそれだけの事実を、私は噛み締めた。











評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] オケの個々の演奏者さんが、悩みもあり事情もあり、もしかしたらお腹の調子が悪いかもしれないのに、ひとときの夢に浸らせてくださるコンサートってやっぱりすごいと改めて思いました。 集合体でしか認…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ