異形の私と顔の見えない男
昔から、皆とは違う自分が大嫌いだった。
生まれた時からある猫のような長い尻尾。
成長するにつれて背骨に反って生える鬣。
切っても切っても直ぐに伸びて鋭くとがってゆく硬い爪。
口を開ければ明らかに人のそれとは違う鋭い犬歯。
まるで獣と人が歪に混ざったかのような姿をした私を人々は一様に気味悪がり、恐れながらも玩具のように面白がった。
唯人とは違う私には気付いた時には親は居らず、守ってくれる存在は誰一人としていなかった。
廃れた孤児院の片隅で蹲りながら同じ孤児院にいる子供達が外を駆けずり回り遊ぶ様子を眺めて過ごす日々は寂しく虚しくはあったが、『人』として生きた記憶の中ではそれが1番穏やかで幸せなものであった。
◇
6歳の時、私は孤児院を出た。
否、正確には孤児院の園長が私を何処かへと売り飛ばしたのだ。今の世の中、人身売買何てものは認められていないはずだが…彼らにとって私は人ではなく犬や猫のような獣だったのだろう。人であって人では無い、半端な存在の私にとってその扱いは当たり前の事だったけれど…それでもその時は自分だけは『私は人間だ』と信じ込んでいた。
だからこそ私を買い取ったであろう男に無理矢理小さな檻へと詰め込まれ首輪と鎖をつけられた時は絶望した。
まだ、孤児院にいた時は人から遠巻きにされつつ、時に石を投げられ罵倒されいても…
それでも『人』として生きていたのだから。
◇
最初に私を買った男は、幼い私に暴力を振るった。
『気持ち悪いお前なんかを買ってやったんだから俺様に感謝しろよ!この化け物め!!』
そう言っては殴る蹴るの繰り返し。
時に鞭で背中を打たれ、
時に熱湯をかけられ、
時に熱した鉄で体に焼印をつけられた。
痛くて痛くて、それでも泣き叫ぶことはしなかった。
怖くて辛くて苦しかったけれど、それでも耐えて耐えて…
何をしてもろくに反応を示さない私に男が飽きるのは早かった。恐らく1年ちょっとで私はまた誰かに売られていった。
ボロボロで傷だらけの私が次に売られたのはどこだったか…?
どこへ行っても同じような扱いしかされなかったから、よく覚えていない。
時にペットのように扱われ、
時に見世物にされ、
時に暴力を振られ、
気付いた時には、どこかの会場で競りにかけられていた。
ボロボロの布切れのような服を剥ぎ取られ裸にされた私は不釣り合いなほど大きな首輪と鎖だけを身につけて檻の中からぼんやりと外を眺めていた。
そこは見たことの無い大きなステージの上で、眩しいスポットライトが私を照らしている。
ザワザワと取り巻く喧騒が全て人の声なのだと知った時、同時に全身に突き刺さる視線はどこへ行っても慣れることは出来ず気持ち悪くて吐き気がした。
興奮した人々の声は鼓膜を突き刺し、軽蔑と嫌悪の視線は私の体をベタベタと這いずり回ってゆく。ドロドロとした欲望渦巻く会場の中で、私ができることなんて何も無い。
段々とつり上がってゆく値段に、普段チラとも動かない口元にふと初めて笑みを刻んだ気がした。
その時何故私は笑ったのか…自分でも分からない。
そもそもそれは笑みだったのかすら分からない。
ーーただ、何かが壊れる音だけが嫌に耳に残った。
そもそも、そんなにも私は価値ある存在だったろうか?
彼らは私に何を求めているのだろう?
人と違う見た目と言うだけで、こんなにも痛い思いをしなければならないのは何故?
私は、そもそも何なんだろう?人か?獣か…?
ーーもう、どちらでもいいか。
ただ…痛いのはもう嫌だな、なんて叶わない望みを願う。
逃げることも助けを求める事すら知らない私には、ただその日もいつまで経っても慣れない視線と痛みだけを感じてボンヤリと檻の外を眺めたのだった。
◇
「顔を上げて、よく見せてごらん」
いつの間にか私を取り囲んでいた喧騒も視線もなく。
どこか小綺麗な部屋の中にいた…と言っても相変わらず私は檻の中だったけれど。
低い男の声に視線を向ければそこには大きくて綺麗な靴があった。パリッとしたシミひとつない服に従って視線を上げていけばそこには顔を隠した男がたっていた。
「ふむ、汚いな。髪はボサボサだし体はガリガリで骨と皮しかないのに傷だらけだ…おい、食事はちゃんと与えていたのか?」
「は、はい!ですが一切手をつけず…」
「何を与えていた?ドックフードか?それともキャットフードか?」
それはまんま犬猫の餌ではないか?
男の声を聞きつつそんなことを思う。
まぁ、確かにそんなような餌を与えられたことはあるし、空腹に耐えきれず手をつけたことはあるがその後酷い腹痛に襲われ死にそうになったことがある。
それからは流石に食べようとも思わず手をつけたことは無いが…猫缶は案外美味しかった。
「何を食べるか分からなかったので両方ですね、あとは生肉など与えてみましたが手をつけることはありませんでした」
「お前は馬鹿か」
「え」
「それは『食事』ではなく『餌』だ」
…この人は何が言いたいのだろう?
そもそも初めに私を犬猫扱いしたのあなたでは??
「は、はい…ですから、」
「この子は人だろう?なぜ獣のように扱うのだ」
声を荒らげることも無く、酷く静かな声だった。
けれどずしりと体にのしかかってくる様な重い圧のある、恐ろしい声だった…なのに、私はその言葉に酷く動揺した。
この人は、今なんて言っただろうか…?
「え、で、ですが…」
「…もういい、早くこの子を檻から出してくれ。それと服の用意を」
「え?!危険です!こんな所で貴方に何かあったら!!」
「この子は誰かを襲ったことが1度でもあるのか?」
「い、いえ…ですが何をするか分かりませんし、」
「クズが…もういい、鍵だけよこしてさっさと消えてくれ」
「で、ですが」
「早く出ていけ!」
「は、はいっ!!」
ここの支配人だろうか?アセアセと言い募る小太りな男に、私を買取ったであろう彼はついに怒鳴りつけた。
慌てて部屋を出ていった男からぶんどった鍵で彼はさっさと檻を開けていた。
「さぁ、出ておいで」
先程とは全く違う、落ち着いた声と共に差し出された大きな手。顔は見えないが、確実にこちらを見ているだろう男に…私の体は条件反射のように体が震えていた。
ーー大きな手が私は怖い。
何度も何度も殴られ首を絞められてきたから。
男の人の手が、私には恐ろしく見える。
ーー顔が見えなくてよかった。
人の顔が…特に人の目が私は怖い。
その顔に乗る表情が例えニコニコと微笑んで優しげだったとしても、私を見るその瞳だけは誰も彼も同じ侮蔑の色を纏っていたから。
「…大丈夫だ、怖くないから出ておいで」
その言葉すらも何度も聞いた。
そして、何度も裏切られてきた。
『大丈夫、怖くない』
その言葉は、私にとっては痛いことの前触れだ。
けれど、従わなければもっと酷いことになる事も私は知っている。だから、どんなに怖くても『命令』に背くことは私には許されていない。
分かってはいるが、体は震えてしまう。止めなくてはいけないのに、慣れることの無い痛みを思い出しては震えが走る。
それでもなんとか体を動かして檻の外へと這い出れば、こちらに伸ばされていた手がグッと私に近付いてきた。
…ほら、やっぱり。
いつものように目を瞑り、体の力を抜いた。
襲ってくるであろう痛みと衝撃は…何故かいつまで経っても訪れることは無かった。
代わりにゴトリ、と音を立てて首と手が軽くなる。
フワリと体に何か掛けられると今度はグッと体を持ち上げられる感覚に思わず目を開けた。
どうやら私は抱き上げられているらしい。
もしかして投げられるのか、それとも落とされるのか…。
「そう怖がるな…と言っても無理か。まぁ、おいおい慣れていこうな。服は大きいが取り敢えず私の上着で我慢してくれ」
そう言うと、彼は私を抱いたままスタスタとどこかへと歩いてゆく。正直、何が起こってるのか理解できない。
ただ、嫌に軽い手に視線を向ければそこにはあったはずの手枷も鎖もなく…思わず首に触れれば当たり前にあったはずの首輪は無くなっていた。慣れない感覚に正直違和感しかない。
「…?」
「あれは君には必要の無いものだから外したよ…もしかして大事な物だったかい?だとしたらごめんね、後で届けさせるように伝えておこう。だか、もう付ける必要はないからね」
別に、大事なものでは無いけれど。
そもそも、大事なものが何なのかもよく分からないし。
ただ、首に何も着いていないのはなんだか落ち着かなくて…
首が締めやすそうだな、と思った。
「取り敢えず家に帰ろう、これからは私の家が君の家だよ。
…まずは風呂に入って、汚れを落としたらご飯を食べよう。
私の家のシェフはとても腕が良くてね、暖かくてとても美味しい食事を用意してくれるんだ」
お風呂…?
孤児院の時に、何度か入ったことはあるが…
あそこを出てからはろくに入った記憶は無い。
あっても冷水を頭からかけられたり、逆に熱湯を浴びせられたり…傷口に染みるし、お風呂は痛くて苦しいから嫌いだ。
食事…は、割とまともなのが出てくるかもしれない。
さっき彼は私の食事に関して怒っていたようだし…でも、あまり期待はしない方がいいだろう。正直、食べられればなんでも良い。流石に虫はもう勘弁して欲しいけど。
「それから医者を呼んで体の治療もしよう。薬は恐らく苦いし、傷口はしみて痛いかもしれないが頑張って治そうね」
苦い薬も、痛いのも嫌いだ。
前に医者に買われたことがあったが、その時は酷いものだった。毎日毎日血を取られ、注射を刺され、何かわからない機械に入れられたり散々だった。
途中、誰かに誘拐されてまた別の人のところに売られたから解剖されたりはしなかったけど…。
「そしたら、今日はフカフカの布団で眠って起きたらまた美味しい食事をとろう…そうだ、私の家は結構広くてね。
怪我が治ったら探検してご覧、きっと楽しいよ」
…それは、絶対に逃げられないって悟らせるための手段とか言うやつだろうか?確か前にもあったのだ。
基本、私は檻か小部屋に監禁されては暴力を振られるのだが…時折部屋の外にほっぽり出されて『逃げてみろ』とかいう奴がいる。あとは『逃がしてあげるからおいで』とか言ってくる奴。よく分からなかったけれど、取り敢えず『命令』に従って見たら最終的に『これで分かったろ?お前はここから逃げることなんて出来ないんだよ』って言うんだ。
ーーそんなこと、とうの昔に知っているというのに。
「あとは、庭を散歩しつつ日向ぼっこして昼寝してみたり。
本を読んでもいいし、月が綺麗な夜は夜空を眺めてもいい。
天気のいい日にはピクニックとかしてもいいね…君は何がしてみたい?」
…この人は、さっきから何を言っているのだろう?
散歩も昼寝も、本を読んだり夜空を眺めたり…私にさせてどうしたいのだろう?そんなことを聞いてどうするのだろう?
どうせ、この人もそのうち痛いことをいっぱいしてくるのだろうし、飽きたら私を捨てるのだろう。それまでは好きなように扱えばいいのだ、今までの人と同じように…。
でも、もし…叶うならば。
少しでも痛いことは少なければいい。
「…今は見つからなくとも、少しずつ探していこう。これからは私が君を守るから、君は君らしく生きていいんだよ」
守る?
私らしく生きろ?
そんなの…出来るわけないのに。
相変わらず、彼の顔は見えない。
声は今まで聞いた中では1番穏やかで優しくて、体から思わず力が抜けてしまうくらいには耳に心地よい。
いつの間にか震えは止まっていた。
きっと、彼は優しい人なのだろう。
けれど、その事が私には恐ろしい。
普段とても優しい人を装って、本性は酷く醜く恐ろしい人を私は知っているから。
寧ろそういう人ほど残虐的だったりする。
彼がそうかはまだ分からないけれど…
油断は出来ないと思った。
◇
「君は、今まで痛いことも辛いことも沢山あったのだろう。したいことも出来ず、いいように扱われてきたのだろうね。
…君は確かに人とは違う。けれど、それは本当に見た目だけだ。君はちゃんと『人』なんだよ」
彼はしきりに私は獣ではなく『人』なのだと語りかけてくる。たしかに普通の人とは違うが、それでも人として生きても良いのだと伝えてくる。
「君には私を信用して欲しいけれど、それはまだ無理だろうし。私自身出会ってまもない人にいきなり信じてくれなんて言われても無理だ。だから、これからは君に少しでも信用して貰えるように私は努力しよう」
彼の言葉はいつも優しげに私に語り掛けてくる。
信用するも何も、私を買ったのはあなたなのだから好きにすればいいのに。
「安心しておやすみ。もう、痛いことも苦しいこともない。
絶対に私はそんなことしないし、誰にもさせないからね」
ふかふかの暖かい布団をかけられて、私はすぐさま眠りに落ちた。こんなに心地よい布団も深い眠りも初めてだった。
「ありがとう、生きていてくれて。君に会えて、本当に嬉しいんだ。だから、どうか…これからは私と共に生きよう」
なんでお礼を言われたのか分からない。何が嬉しいのかも…。
彼の言葉は何時も穏やかで、穏やかすぎて。
見えない顔と合わさってそれが本心からなのか偽りの言葉なのか判断が難しい。
「君が好きなんだ、愛している…どうか、その事だけは覚えていてね」
いつしか、そんな言葉を言われるようになった。
好きも、愛してるも…私には難しい。
けれど、最近はその言葉を聞くと胸がドキドキと高鳴りなんだか落ち着かない気分になる。
この気持ちは、何なのだろう…?
◇
彼に買われてからどれだけだったろう?
ボサボサだった髪は長く艶やかに光り輝き、ガリガリだったからだは暖かく美味しい食事でふっくらと年相応の体つきになってきた。
ここに来てから暴力を振るわれることは無くなった。
お陰で新しい傷が増えることはなく、寧ろ怪我は全て治療されて痕は残るもののすっかり治ってしまった。
暖かくて清潔な布団で眠り、広い屋敷内を自由に散策する。
文字を教わったおかげで読書もできるようになった。
星が綺麗な夜は、ホットミルクを片手に彼と共に夜空を眺める。季節によって色とりどりに咲きほこる花は美しく、芝生の上での昼寝は酷く心地よい。
たまにピクニックと称して近くの花畑や景色のいい場所へと連れていかれる。
いつしか、彼の手も声も恐ろしいはと思わなくなった。
寧ろもっと触れて欲しいし、もっとそばに居たい。
その腕の中は酷く心地よくて、胸がポカポカとするのだ。
これが『安心』という気持ちだろうか?
彼はいつも優しい。いつも私を気遣ってくれる。
欲しいものはないか?
辛いことは無いか?
何が食べたい?何がしたい?
いつも私に聞いてくれる。
でも、私はいつもそれに答えられない。
私の喉は焼かれていて、声が上手く出せないというのもあるが…長年の習慣だろうか?
未だ自分の意見を言う事に慣れないのだ。
それに、未だ顔を見せてくれない彼の事が…私はまだ最後まで信じきれないのだと思う。
彼は優しい、とてもいい人だと思う。
でも、何か言って彼に嫌われたらどうしよう?
我儘を言ってこの関係が壊れたらどうしよう?
それならいっそ彼の言う通りに、彼のしたいことをすればいい。そうすればきっと大丈夫。私はまだ傍に置いてもらえる
まだ、大丈夫。
まだ、私は上手くやれる。
多分、私は彼が好きだ。
これが愛おしいと言うやつかもしれない。
彼がそばにいると安心するし、ドキドキする。
でも、この気持ちは伝えられない。
言ったら何かが変わってしまう、そんな予感があった。
変わってしまったその先で、私は彼に捨てられるかもしれない。そんな事を考えただけで胸が痛くて苦しくて仕方なかった。
もう、暴力を振るわれることは無いのに。
もう、怪我なんてないのに。
もう、彼のいない生活は私には考えられないのだ。
優しくて、暖かくて、彼はいい匂いがする。
ここでの生活が心地よすぎて…彼に今捨てられたら私はきっと心も体も何もかも死んでしまうのだろう。
◇
「おはよう、今日もいい天気だね」
「…」
「今日は私は外の仕事があるから、出掛けてくるよ。夕方には戻るからね、またお留守番しててくれるかい?」
「…」
「ありがとう。いい子だね、それじゃあ行ってきます」
「…」
会話という会話は無い。
彼女はここに来る前、喉を焼かれたようで声が出せないから、こちらからの一方的な語りかけが基本になる。
それでも最近は反応を返してくれるようになったから、それが嬉しくてたまらない。
先程も私の目をじっと見つめて、こくりと頷き返事をしていたし、見送りをする際は小さく手を振ってくれた。
何より、去り際に彼女の尻尾がサラリと私の手を一瞬名残惜しそうに絡めてくれるのが可愛くてトキメキが止まらない。
彼女を買ってから、私の生活は一変した。
正直、彼女を見つけたのはたまたまだ。
私の家は昔から裏も表の顔も広く酷く有名だ。
私自身、広く浅く友人関係も豊富で私には方々から色んな誘いがやってくる。その時行ったのは、闇取引も多く行われる違法なある大規模なオークション会場。
何となく、気まぐれで訪れたそこで私は彼女に出会った。
大きなステージの上で、スポットライトに照らされた彼女は人であって人には無い姿をしていた。
背骨に反って生える獣のような鬣に、猫のような長い尻尾。
ザンバラに切られた髪の隙間から除く瞳は満月のような黄金色、小さな口から生えた牙と長く伸びた爪は鋭く尖っている。人と獣が歪に混ざりあったかのような存在の彼女が、私には酷く魅力的に見えた。
しかし、よく見れば小柄で…否、小さすぎる体は痛々しく傷が多い。今まで随分と酷い仕打ちを受け出来たのだろう。
不釣り合いなほど大きな首輪に手枷は鎖で繋がっている。
不思議な姿をした彼女を欲しがるものは多かった。
周りがドンドンと値段を釣り上げてゆく中、彼女はどこかボンヤリと檻の外…こちら側を眺めていた。
ふと、その時に彼女と目が合った気がした。
それは本当にただの私の思い込みかもしれなかったけれども
…こちらを見た彼女がフッと一瞬微笑んだのだ。
本当に、ほんの少しだけ口元が上がっただけの下手くそなどこか歪な笑みに…私の心臓はドクンと酷く高鳴った。
もう、ダメだった。
その瞬間私は彼女しか見えなくなっていた。
問答無用で競り落とし、すぐさま彼女の元へと向かった。
間近で見る彼女は会場で見るよりもずっとずっと小さくて、無表情ながらもこちらを警戒する様子は子猫のようで愛らしい。まともな食事も与えられず、暴力を振るわれ、いいように扱われてきたのだろう事は見ただけで理解出来た。
彼女こんなにも傷だらけにしてきた奴らにはキッチリと後ほど報復するとしよう。まずは彼女を人とも思わないクズなここの支配人から消してしまおうか…。
そんな物騒なことを考えつつも、彼女にはことさら優しく接する。怯えられてもいい、これから慣れていけばいいのだ。
まずは風呂に入れて、食事をさせよう。
怪我もちゃんと治療して…その前に服を買わなければ。
彼女は可愛いからなんでも似合うだろう。
何色がいいだろう?どんな服が好きだろう?
これからは彼女の好きな事だけさせてあげたいが…まずは安心出来る環境を作ってあげなければ。
片腕で抱き上げられるほど軽い彼女をしっかりと抱き寄せて、私は嬉しくて楽しくて弾みそうになる声と足を理性で何とか押さえつけて帰路に着くのだった。
◇
風呂に入れて綺麗になった彼女に暖かくて栄養満点の食事を与え、しっかりと睡眠を取らせ治療も施して大切に大切に育てれば彼女はすぐさま美しく成長した。
彼女の歳は18、名前はあるが私が新たに付けようと思う。
どんな名前にすれば彼女は喜ぶだろうか?
幼い頃の栄養失調が影響したのか、彼女の背はとても低い。
それでも最近は少しずつ食べられる量も増えてきて、ガリガリだった体は未だ細いながらも健康的な細さまでになった。体つきもだんだん女性らしく丸みを帯びてきている。
バサバサで短かった髪は長く腰まで伸びて常に艶やかに光り輝き天使の輪が美しい。
背中の鬣も、少し鍵尻尾な長い尾もツヤツヤだ。
彼女は覚えも早く、文字を教えてやれば直ぐに理解したようだった。近頃では私がいない時間は本を読んで過ごすことが多いらしい。読むものは様々で、専門書だったり物語だったり読めればなんでもいいと言った感じだった。なんでも知識として吸収すれば今後彼女の為にもなるし、沢山読んでこれから少しでも好みが出てくればいいと思う。
怪我が治ってからは少しずつ部屋の外にも出るようになった。私がいる時は共に家の中の案内をしている。
特にお気に入りなのはやはり図書室らしい。陽の当たる窓際に彼女の為にソファーとクッションを用意してあげればそこで日に当たりつつよく本を読んでいる。
偶にそのまま眠っていたりするのでブランケットもそばに用意した。眠っている彼女は来た時とは違って酷く穏やかな表情で、見ているこちらまで眠くなりそうだ。
彼女は何も言わない。
けれど、その瞳は意外とお喋りだと気付いた。
嬉しかったり、楽しかったりといった感情が最近ではよく出てくるようになった。それが酷く嬉しい。
けれど、時折酷く悲しげな色や困ったような色を写すからそれはどうすればいいのかと、酷く悩んでもしまう。
そういう時、言葉で表してくれたらと思ってしまう。
ーー彼女から何か望みを言ってきたことは無い。
いつも私から聞いて、それに頷くのみ。
出来れば彼女の声で、返事をして欲しいと思うが…
まだ、それは早いだろう。
もう少し、もう少し彼女が慣れるまで待とう。
ーー彼女が嫌だと何かを否定したことは無い。
我儘を言ったことも、そんな行動を取ったこともない。
私はきっとまだ彼女には信用されていないのだろう。
もっと信用してもらって、なんでも言えるようになって欲しいが…それもまだ時間がかかるようだ。
もう少し、頑張ってみよう。
彼女が安心してその身を私に預けられるように…。
◇
「ただいま、今帰ったよ」
家に帰ると、彼女は少し早足で私の元へとやってくる。
その瞳が嬉しそうにキラキラと輝いている。
恐らく無意識だろう、するりと絡んでくる尻尾が『おかえり』と私の帰宅を喜んでいる。
彼女と共に夕飯を取り、風呂に入って寝支度を済ませる。
その間もトテトテと彼女は私のあとをついて歩く。
それが可愛くて仕方がないが…少し困ってもいる。
「今日は何をしていたんだい?」
「…」
拳一個分隣に座りつつも、尻尾はしっかりと私の腕に巻きついて離れない。なんなら服の袖をキュッと掴まれている。
隣からの上目遣いが、私の胸を締め付けて殺しにかかっている。
クッ!!なんて可愛いんだっ!!!
最近、こんな感じで彼女は私のそばを離れようとしない。
寝る時ですらも自分の部屋になかなか戻ろうとはせず、モジモジとこちらを見つめることが多い。
何とか理性を働かせては、隣の彼女の部屋へ送り眠るまでそばにいてあげる。控えめにキュッと私の服の袖を掴んだまま、安心したように眠る彼女が愛らしくて何度も襲いそうになったが、その度に『いやいやいや、今そんなことをしたら今まで積上げてきた信用も何もかも無駄になる!頑張れ!!落ち着くんだ私!!』と言い聞かせて泣く泣く彼女から離れて眠るのだ。
ある意味苦行である。
しかし、そんな私の気持ちも露知らず。
私の部屋で彼女は嬉しそうに隣に座っている。
「…かわいい」
「…!」
思わず心の声が零れ落ちてしまったらしい。
彼女は珍しく顔を赤く染めてワタワタと狼狽えている。
今まで散々『好きだ』『愛してる』と言っても意味を理解していないのか頷くだけだった彼女が!!
『可愛い』の一言にこんなにも反応するなんて!!
これはチャンスだ!と畳み掛けることにした。
今ならばきっと私の言葉が、気持ちが彼女に届くと信じて。
「本当に可愛い…ねぇ、好きだよ。君に出会ったあの瞬間から私は君が愛おしくて仕方がないんだ」
「…、」
「君を愛してる」
思わず彼女の手を取ってじっくり言い聞かせるように伝えれば大きな瞳を潤ませて彼女は、頷いた。
そしてーー
「わぁ…、も」
酷く、掠れた声だった。
小さな小さなその声は、初めて聞く彼女の声。
そして、彼女の初めての“言葉”。
「え」
「ちゅ、き…?しゅー…きゅ…しき!」
発音に納得してないらしく、何度も何度も彼女は首を傾げながら私に『好き』だと言ってくる。
彼女の、初めての言葉がまさかそんな…!
「す、き」
「~~~っ!!!」
気づいたら私は彼女をこれでもかと抱き締めていた。
愛おしくて可愛くて仕方がない。なんだか嬉しすぎて涙が出てきた。いい歳こいたおっさんがなんて恥ずかしい、けれど本当に嬉しすぎて胸が張り裂けそうだ。きっと私の顔は今林檎のように真っ赤になっていることだろう。
その時、そっと背中に彼女の腕が伸びて…私を抱き締めた!
その瞬間、より一層の私の動悸は激しく脈を打った。
あぁ、今日はなんていい日だろうか…こんな、夢みたいな事が起こっても良いのだろうか?はっ!まさか夢か?嘘だろ?!嘘だと誰か言ってくれ!!!
「きゅぅ…」
「はっ!ご、ごめんね!痛かったかい?苦しかった?!だ、大丈夫か?すまない、君からの言葉が嬉しすぎて…!」
「…」
慌てて腕を解き彼女を見遣れば、真っ赤に顔を染めた彼女が嬉しそうに微笑んでいた。
その笑顔に、ピシリと思考が停止する。
あー…これは、やばい。
彼女はコクリとひとつ頷くと、今度は彼女から私に抱きついてきた。スリスリと猫のように頭まで擦り付けてきて…
「っ!!い、一生大切にするから、だから!私と結婚してください!!!」
勢いでついプロポーズしてしまった。
後から振り返ってなんてダサい告白の仕方だろうかとウンザリするが、彼女の返事で一喜一憂する私は何とチョロいのか。
「!…は、ぃ」
「あ、もー!好きだ!!!」
ニコニコ笑う彼女をより一層抱き寄せて、沢山キスして、私は彼女を腕に眠りについた。
◇
こじんまりとした教会で2人だけの結婚式をあげた。
人とは違う姿に生まれてしまった私は気付いた時には周りは敵だらけで、常に疎まれ蔑まれて生きてきた。
暴力を振るわれるのは日常茶飯事で、今まで沢山痛い思いも苦しい思いもしてきて一生独りで死ぬまで辛く生きるのだろうと思っていた。
そんな私がまさかこんな幸せになれるなんて思いもしなかった。私の隣を歩く彼の顔は見えない。
私と同じようにヴェールを被っている彼の普段は決して見えないその布の下にはいつも私を気遣い暖かな瞳で見つめていることを私はもう知っている。
きっと今もかっこいい顔をデレッと崩している事だろう。
初め、その顔が見えないことに安心した。
人は怖い、特に目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので。人々の私を嘲笑する視線が怖かった。
優しい笑顔の下で人々は常に私を恐れ、蔑み、憐れみ、嫌悪した。暴力を振るうことで快感を得る人も多かった。
顔が見えないと言うことは、その瞳に乗る感情を読み取ることは難しく何も感じなくても良かったから。
でも、その分警戒もした。
彼の声は酷く穏やかで、感情が分かりずらい。
顔が隠れていれば余計に。だから、いつも優しい彼がいつかその優しさを脱ぎ捨てて暴力を奮ってくるかもしれない、罵倒を飛びしてくるかもしれないと怯えていた。
けれど、そんな事は起きることはなく。
彼はいつまでも優しくて、いつしか彼の傍は安心する場所になっていた。彼の声は耳に心地よく、その手は暖かくて胸がポカポカとするのだ。そのポカポカもいつの間にかドキドキに変わって言ったけれど嫌な気分ではなかった。
きっとその時には私は彼が好きになっていたのだ。
でも、顔を見せてくれないことだけが不満で不安で。
彼のことを最後まで信用しきれなかった。
だから、彼の言うことだけを聞いて決して私の気持ちは表には出さず一切伝えるつもりはなかった。
今の関係が変わってしまうことを恐れたから。
もし、この気持ちを彼に伝えてしまってから『飽きた』と捨てられたらどうしようかと…。
でも、次第それでもいいかもしもしれないと思い始めた。
彼もきっと、何も言わない私を信用出来なかったのだろう。
だから顔のひとつも見せてくれない。
それなら、それならいっその事…この気持ちを打ち明けてしまってもいいかもしれない。
そしたら、彼は私を信用して顔を見せてくれるかもしれない。例えそれで捨てられたとしても…こんなにも良くしてもらったのだから、この先彼のいない世界で生きていくことは出来なくても最後に良い夢が見れたと思えばそれでいい。
私は、もう幸せを沢山貰ったから。
そう決めてからは彼が居ない時間は声を出す練習に費やした。喉はとうの昔に焼かれてから出したことは無い。
それでもほんの少しだけなら、言葉とも言えないような音だけならば出せるはず。それを徐々に意味のある音に、言葉になるように必死に頑張った。
本番でも残念ながらスラスラと言葉を話せたわけではなかったけれど、練習の甲斐あってちゃんと『好き』と伝えることが出来た。その後はもう、彼にギュウギュウに抱きしめられて嬉しくて嬉しくて…初めて見た彼の顔はとてもかっこよかったけれど、私も彼も顔を真っ赤にしていたのはなんだか面白くて笑ってしまった
それから、少しずつ。
彼は顔を見せることが増えていったし、私も言葉を話せるようになっていった。
彼と出会ってから楽しいことも嬉しいことも、幸せなこともいっぱいあって…貰ってばかりでなんだか悔しい。
だから、ようやく1つ私から渡せるものが出来てそれがとても嬉しいくも少しの不安だった。
けれど、何とか私は心を決めて彼を見上げた。
いつもは隠れて見えない彼の瞳をしっかりと見つめれば、彼はふわりと嬉しそうに微笑んだ。
「ん?どうしたの?」
「あの、ねーー…」
彼の大きくて暖かい手をそっととって、私はそれを自らのお腹に当てるのだ。
◇
少しずつ、少しずつ。
私たちは幸せを積み重ねてゆく。