ドメスティックバイオレンス弁当
非常にライトですが暴力描写がありますので、苦手な方はどうぞご注意くださいませ。
〜プロローグ〜
新宿駅から電車を二回乗り換えて、約一時間。
各駅停車しか停まらないこの街は、マンションが立ち並ぶ閑静な住宅街だ。
街外れには小さな川が流れていて、川沿いの道は桜の連なる遊歩道になっている。
春には川面に落ちる花びらがピンクの絨毯となり、思わずため息が漏れるほど美しい。
私の住む部屋は、駅から徒歩十分の賃貸マンション。
六畳の洋室が二つと、十二畳のキッチンがついた2LDK。
少し古いけれど、ベランダから桜が見えるという立地の良さが決め手だった。
もう一点、はずせないポイントは、猫が飼えること。
おかげで敷金は三ヶ月分になってしまったけれど、なんとか粘って礼金を安くしてもらうことができた。
苦笑する不動産屋のおじさんを尻目に、二人とも大満足だった。
ふてぶてしいけれど可愛いミーコが居て、ナオキは優し過ぎるくらい優しくて。
私は……本当に幸せだった。
1.その手に恋をした私
友達と良く「何フェチ?」なんてくだらない会話をすることがある。
そんなとき「男の人の手が好き!」と主張する女の子はけっこう多い。
もちろん、私も同感だ。
厳密に言えば『ピアノが似合う手』が理想だと思う。
大きな手のひら、短く整えられた爪、節くれだった長い指。
そんな手が力強く鍵盤を叩くシーンをイメージするだけで、胸が高鳴る。
ある日私は、理想の手に出会った――。
* * *
私は、派遣社員をしている。
派遣という働き方は、短くて三ヶ月、長くても一年ほどで会社を変わるのが一般的だ。
働き手はいくつもの会社を経験できるし、会社側は安い賃金で欲しい時期だけ人材を確保できる。
そんなメリットがある反面、デメリットも発生する。
全てを一から教えなければならない、能力の低い人材……つまり『使えない』人間を雇ってしまったときだ。
今の私は、まさにソレだった。
大きな会社の総務や営業部を何社か経験して、今年二十二歳になった私は、少し欲が出て「手に職をつけたい」と思ってしまった。
一念発起し、『未経験者歓迎』と告知されていたウェブデザイン会社に採用されたのが、四月の始め。
最初は派遣からスタートし、うまく行けば契約社員、いずれは正社員とステップアップできる……そんな触れ込みだった。
しかし現実は、そう甘くない。
未経験者歓迎といっても、研修などのシステムは無く、仕事を教えてくれる先輩も居なかった。
ドサリと置かれたマニュアルを片手に、覚えた端から入力作業を行う毎日。
お昼どころかトイレ休憩さえなかなか取れないほど、仕事は過酷だった。
入社一ヵ月後、いわゆる五月病にかかり集中力が切れた私は、ミスをした。
大事なデータを丸々消してしまったのだ。
フロアの真ん中で上司から長時間叱責され、涙を堪えながら自分のデスクへ戻った私は、ぼんやりとパソコン画面を見つめていた。
画面上の文字は頭に入らず、『退職』のニ文字が揺れる。
契約期間は六月末まで、あとニヶ月弱も残っている。
しかし、私が今日で辞めても、この会社にとっては痛くも痒くもない。
派遣会社の営業さんも、事情を話せば納得してくれるだろう。
そんなことを考えていた私の前に、突然一つの手が現れた。
缶コーヒーを摘んだ細く長い指と、ゴツゴツ骨ばって血管の浮いた白い手の甲。
まさに私の理想どおり、パーフェクトな手だった。
缶が置かれる『コトン』という音を残して、その手は一瞬で消えてしまった。
その側面には、黄色の小さな付箋が貼られている。
『頑張れ』
やや右上がりの綺麗な文字に見入った私は、振り返るのが遅れた。
手の主は、オフィスの中をせわしなく動き回る社員たちに紛れて消えた。
2.温かい手の恋人
それから私は、理想の手の持ち主を探した。
彼が残してくれた『頑張れ』のメッセージに応えるためにも、私は会社を辞めなかった。
そして数日後、私は運良く彼を見つけることができた。
彼はフロアの違うシステム部に所属していて、トラブルがあったときだけうちの部署に顔を出すという存在。
見た目が特別カッコイイというわけではないけれど、背がすらりと高くて、清潔感のある短めの黒髪、そして優しげな笑顔が印象的な好青年だ。
時々メガネをかけていて、それが少し切れ長の細い目にとても良く似合っていた。
女子社員の間でも噂にのぼる『ナオキさん』が、彼のことだと初めて知った。
真面目で穏やかで、しかも社内でも数少ない二十代の独身男性だから、当然モテる。
噂を入手するたびに胸を焦がされた私は、ダメで元々と思い切って告白した。
結果OKの返事をもらったときは、思わず「どうして?」と聞いてしまった。
『あの課長は、新人の女の子をいじめるのが趣味なんだ』
課長から怒られている私を、フォローに来たナオキはずっと見ていたらしい。
たいていの女の子が途中で泣き出してしまうのに、最後まで泣かなかった私に心惹かれたと教えてくれた。
生まれて初めてのパーフェクトな両思いが嬉しくて、私は涙を堪えることができなかった。
ナオキは、「女の子に泣かれるの苦手なんだよ」と困ったように笑いながら、そっと私を抱き寄せてくれた。
* * *
おろしたてのサンダルの踵が、明るいレンガ色の石畳の地面を蹴るたびにグラグラ揺れる。
無事転ばずにナオキの元へ辿り着いた私は、ペコリと頭をさげた。
「――お待たせ! 今日はよろしくお願いします」
時間は、待ち合わせの五分前。
たまにはナオキより早く着いて、「待たせてゴメン」と言わせたいのに、毎回出かける間際で髪型や服装が気になってとっかえひっかえするから、結局ギリギリになってしまう。
「じゃ、とりあえず不動産屋を何件か回ってみようか。その後ご飯にしよう」
「うんっ」
うなずきつつも、私はこっそりナオキを観察する。
いつもの細身なスーツもいいけれど、私服姿もかなり素敵だ。
一度だけ訪れた部屋は、男の一人暮らしだけあってお世辞にもキレイとはいえなかったけれど、センスの良いインテリアが揃い、ファッション雑誌が何冊か積まれていた。
こういう本をちゃんと読む人なんだなと、私は納得した。
好きな人に影響されやすい私は、ナオキに相応しい大人の女性になりたいと頑張った。
デパートでブランド物のメイク用品を一式買い揃えたり、雑誌に出ていた小柄なモデルさんの髪型や服装を真似したり。
今日は久しぶりのデートだから気合いを入れて、今季の新作ワンピースを着てきた。
ベージュのツイード生地に、襟ぐりが大きく開いたデザインは……少し大人っぽすぎたかもしれない。
私が胸元を気にしてうつむくと、つむじのあたりにポンと手のひらが乗せられた。
「ほら、行くぞ?」
差し出された大きな手に、私はするりと手を重ねた。
ナオキの温かい手が、私は大好きだった。
3.百円の不思議なジュース
電話とメールで我慢することにも慣れたけれど、こうして手を繋ぐと私の胸はじわりと熱くなる。
ナオキの骨ばった手は私より二まわりも大きくて、指が絡まるだけで体ごと包まれているようだ。
ふわふわと夢心地で歩いていた私に、ナオキが現実を突きつけてきた。
「そういえば、もう新しい会社見つかりそうだって?」
「あ……うん。今の会社で基礎は覚えたし、経験アリって言えるからすぐ決まると思うけど、面接はまだちょっと先かな」
私は複雑な気持ちを胸の奥に押し込め、アハハと声を上げて笑った。
本当は今の会社を続ける意欲が湧いていたし、課長も周囲の先輩たちも私の努力を認めてくれつつあった。
でも、ナオキから『交際を内緒にしたい』と言われ、私は契約更新を諦めた。
不器用な私は、フロアを横切るナオキのことをどうしても目で追ってしまうから。
「会社が別になったら、堂々と平日デートもできるしね。せっかく付き合い始めたのに、周りにバレないようにビクビクするなんてもったいないもん。そうじゃなくても、忙しくてなかなか会えなかったのに……」
「来月からは、いつでも会えるようにするよ」
「うん、楽しみにしてるっ」
久しぶりに会ったせいか、それとも明るい太陽の下で見るせいか……今日のナオキはどことなく違って見える。
私を見る目が、やけに甘く艶めいている気がして、私は思わず目を伏せた。
やっぱり、この大人っぽいワンピのせい?
あまり胸元の露出が高すぎないように、一応スカーフを巻いてきたんだけれど……。
「――ごめん、ちょっと喉渇いたからジュース買ってくるね」
私はナオキの手を解き、目に付いた自販機へと駆け出した。
その間に、さりげなくスカーフを巻きなおす。
ナオキが苦笑しながら歩み寄ってきた。
「お前は子どもみたいだなあ」
「ねえナオキ、なんかこの自販機変わってるね」
好奇心旺盛で、感情がコロコロ変わるのが私の癖だ。
意識は胸元から自販機へと移った。
コイン投入口の脇に『すべて百円!』と書かれた派手なPOPが貼られ、見たことの無いジュースのラインナップが並んでいる。
新作のお菓子など珍しいものに目が無い私は、思わずはしゃいだ。
「ねえ、大阪名物みっくすじゅーちゅだって! どんな味かなあ? でもすごく甘そうだし、飲んだ後もっと喉乾きそうだよね……」
「とりあえず好きなの買えよ」
ナオキが二百円を差し出してくれたので、私は「やったあ」と声を上げた。
すごく気になるあの甘そうなジュースと、普通のお茶にしよう。
私が投入口にお金を入れようとしたとき、ナオキはまるで世間話のように告げた。
「どうせ結婚するなら、少し広めの部屋借りて一緒に住もうか」
軽い金属音を立てて落ちた、二枚のコイン。
ナオキは「おっと」と呟いて、それを拾おうと身を屈めた。
ちょうど私の足元、白いサンダルのつま先に転がった一枚に手を伸ばしたナオキは、アスファルトにポタポタ落ちる雫に気づいた。
それは雨じゃなく、私の涙。
マスカラが流れ落ちるのも忘れて泣きじゃくる私を、ナオキはあの日のように優しく抱き寄せた。
* * *
プロポーズの思い出は、ちょっと不思議な甘いジュースの味。
その自販機は、私たちがこの街に来て一年も経たないうちに撤去されてしまった。
ナオキと腕を組んで歩く私は、「なんだかサミシイね」と話しかけたけれど、ナオキは黙っていた。
私の左手に、まだ指輪ははめられていなかった。
4.ミーコのおトイレ
会社では大人に見えたナオキが、実はそうではないと気づいたのは、一緒に暮らし始めてすぐのこと。
気付かせてくれたのは、猫のミーコだった。
ミーコは、元々ナオキが拾った猫だ。
住んでいたアパートはペット禁止だったため、しばらく隠れて飼っていたけれど、鳴き声が漏れて隣人からクレームが来ていたという。
ナオキは悪びれもせず「だから、ちょうど俺も引っ越したかったんだ」と笑った。
『だらしないよ』
ついそんな言葉が漏れかけて、私は作り笑いでごまかした。
子どもが「アレ欲しい」と玩具をねだる感覚で動物を飼うなんて、信じられなかった。
世話がしきれなくなって困った頃に、ナオキは私という人材を見つけたのだ。
我慢強くて泣かない、自分の言いなりになってくれる家政婦を。
ナオキの本音に気付いてしまった私は、それまでと同じ気持ちではいられなかった。
増殖する不満と足並みを合わせるように、私は結婚への歩みを遅らせた。
* * *
決定的な出来事が起きたのは、一緒に暮らし初めて二度目の夏。
ナオキと夏休みの日程が合わなかった私は、お盆の一週間を使って九州の実家へ帰った。
上京してから初めての帰省だったし、私はそれなりに楽しみにしていたのに……到着して早々、お母さんから「あんた、そろそろ同棲相手とケジメつけなさいよ!」と頭ごなしに怒鳴りつけられた。
お父さんは何も言わなかったけれど、ただ悲しそうに私を見ていた。
古くて堅い土地柄だし、一人娘の私が心配なのは良く分かる。
でも、滞在中ずっと『だらしない』と責められ続け、かなり後味の悪い帰省になってしまった。
疲れた体と重い荷物を引きずりながら東京へ戻り、家のドアを開けた瞬間……私は思わず眉をひそめた。
「なんか、臭い」
悪臭の元は、玄関脇に置いてあるミーコのトイレだった。
一週間は持つというシートを取り替えたのは、私が帰省する三日前。
シートを見てみると、そこには気持ちの悪い小さな虫が大量にわいていた。
乱暴にリビングの扉を開け放つと、寝間着姿でカーペットに寝転がっているナオキがいた。
ただいまという挨拶も忘れて、私は怒鳴った。
「ちょっと! あんたなんでミーちゃんのおトイレ掃除してくれなかったの!」
「俺も、一昨日からミー連れて実家帰ってたからさー」
「家空ける前に、おトイレ綺麗にしてってよ!」
言ったところで、無駄だということは分かっていた。
主人であるナオキが、家政婦の言うことなど聞くはずが無いのだ。
私の心は、湧き上がってくる醜い感情に支配された。
食器を洗わずシンクに放置したり、洗濯物を丸めたままにしたり、お風呂の排水溝を詰まらせたりするのはもう当たり前。
好きだから何でもやってあげたいというポジティブな気持ちは、同棲一年目で枯れ果てた。
最初の約束では、結婚して私が専業主婦になるまでは交代制のはずだったのに。
アレもしてくれない、コレもしてくれない。
気持ちの悪い虫のついたシートをゴミ袋へ放り込みながら、私はくすぶり続けていた不満を洗いざらいぶちまけた。
今朝までさんざん聞かされた、母親そっくりの粘着質な口調で……。
ヒステリックに怒鳴り散らす私を、ナオキは無視し続けた。
5.DVストアのお弁当
その夜。
くつろげなかった夏休みと、明日からまた仕事が始まること、なによりナオキと本格的なケンカをしてしまったというショックが重なり、私は疲れ切っていた。
普段なら栄養バランスを考えた晩御飯を作るのだけれど、そんな気力は残っていなかった。
私が何を言っても無反応で、カーペットに寝転がったまま一切動かなかったナオキが、一言「メシは?」と呟く。
一緒に暮らし始めた頃、良く二人で料理を作ったことを思い出し、私は涙混じりのため息をついた。
ソファに寝転がり、面白くもないテレビを眺めながら、私は吐き捨てるように言った。
「もう私、今日はご飯作らないから。コンビニでお弁当でも買ってくれば!」
ナオキは無言で出ていき、しばらくすると『DVストア』とプリントされたビニール袋をぶらさげて帰ってきた。
駅前にはチェーンのコンビニもあるけれど、うちから一番近いのがこの店だ。
住宅街には珍しく夜十一時まで開いているので、たまに利用する。
元々『二村商店』という名前の古い酒屋だったのが、改装と同時にそんな洒落た名前になり、手作り惣菜などの食品を置くようになった。
半透明のビニール袋からは、二つのお弁当が透けて見える。
正直私は、それを見て少しだけ反省したのだ。
この街に初めて来た日、ナオキが差し出してくれた二百円を思い出して。
内気な私が勇気をふりしぼって自分からアタックして……その後ニ年も一緒に過ごしてきた大事な人。
その時、私が一言「ごめんね」と口にすれば、別の未来が待っていたのかもしれない。
でも、意固地になった私は、ふてくされた顔を崩せなかった。
ナオキは、無表情のままキッチンに向かい、二つのお弁当のうち一つをレンジにかけた。
容器を包んでいるラップが溶けるほど加熱されたお弁当を、あちいなと呟きながら運んでくる。
それをリビングのローテーブルに置き、私の目の前でひしゃげた蓋をはずし……。
「――てめえはそれでも食ってろ!」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
私の顔に張り付いた照り焼きハンバーグが、ベチャリと胸元へ落ちる。
大ぶりのから揚げ、赤いケチャップをまぶされたスパゲッティー、ポテトサラダとほうれん草のおひたしが少し、あとは大量の米粒が……私の頭めがけて投げつけられ、合革のソファやオフホワイトのカーペットに飛び散った。
ナオキはもう一つの弁当を温めると、呆然として座り込む私に見向きもせず、自分の部屋へ消えた。
* * *
「昨日はすまなかった……許して欲しい」
翌朝、ナオキは私に頭を下げてきた。
プライドの高いナオキが、知り合ってから初めて口にする謝罪の言葉だった。
一晩中リビングで泣きじゃくり目を腫らした私は、なぜかナオキのことを『可哀想なひとだ』と思った。
口が勝手に「わかった、ゆうべのことは忘れるね」と囁いていた。
あの時、ナオキは人として越えてはいけない線を越えてしまったのだと思う。
ナオキに押し出されるように、私もその線を越えた。
ナオキの態度は、それから少しずつ変わっていった。
ささいな口論からスタートして、最後は容赦なく振るわれる暴力。
背が高いだけで、運動などは一切していない細身な体だけれど、やはりその手は男の手だ。
たった一振りで、私は人形のように吹き飛んだ。
ぶつかった壁はへこみ、リビングのガラス戸にはヒビが入ったけれど、そのまま放置されている。
私もナオキもお金が無いし、修理したところでまた同じことになると分かっていたから。
しだいに壊れていく部屋を見ないように心を麻痺させながら、私はナオキとの暮らしを続けた。
* * *
その夏の終わりに、ミーコが死んだ。
お前が殺したのかと殴られ、蹴られ、ミーコの遺体を投げつけられても、私は抵抗しなかった。
鼻血が止まった後、私は彼女の遺体を三枚重ねたビニール袋に入れた。
一番外側には黒いゴミ袋、内側のニ枚はDVストアの袋だ。
あの日食べた弁当のから揚げが相当気に入ったらしく、ナオキは毎晩DVストアに通うようになった。
食事の支度をしなくて済む分、私は部屋の片付けや通院に時間を取られるようになった。
仕事も相変わらず忙しく、食べるものといえば、チョコレートやポテトチップなどのお菓子ばかり。
おかげで肌が荒れて化粧品もかぶれるようになったし、ずいぶん太ってしまった。
私はミーコと一緒に、要らなくなった化粧品や洋服をゴミ袋に詰めた。
ずっしりと重いそれを抱えてマンションのゴミ捨て場へ行き、青いポリバケツに放り込んだ。
これで、少し家事が楽になる。
余計な出費も減る。
「ごめんね、ミーコ」
一瞬浮かびかけた笑みを消し、私は部屋に戻った。
6.今日のおかずは鮭
ミーコが死んでから、一年。
ナオキは相変わらず、暴力と謝罪を繰り返した。
私はもうすっかり慣れてしまったけれど、周囲の人には私たちの関係が理解してもらえない。
リストカットをすることで命の大切さを知る人がいるように、私にとってもそれは単なる確認作業でしかないのに。
いろいろなことが鬱陶しくて、私に干渉しようとする友人や知り合いとは、縁を切ってしまった。
この部屋は“賽の河原”だと私は思った。
ここには、ナオキという名の鬼が住んでいる。
積み上げたものを何度崩されても、また積み上げることしかできない私は、罪人なのだ。
ナオキの期待に応えられない……使えない女。
* * *
「ただいま……」
玄関から、張りの無いしゃがれた男の声が聞こえた。
近頃ナオキは毎晩飲んでくるから、たいてい帰宅するのは夜十時過ぎだ。
古い木目の床が震えるくら乱暴な足音が響き、数秒後にはリビングの戸が開かれた。
「あー、今日も疲れた。おい、てめえそこのゴミどかしとけよ」
ボサボサの髪を飾りの無いヘアゴムでひとつにくくり、黒い安物のジャージを着た私は、ソファからのそりと起き上がった。
重い体をなんとか動かし、ローテーブルに広げたポテトチップの袋を片付けはじめる。
砕けたポテトのカケラがカーペットに落ちるけれど、気にしない。
どうせ、この部屋を掃除するのは私なのだから。
それ以前に、このカーペットは、もう汚れきっている。
上着を脱いでワイシャツ姿になったナオキは、私に見向きもせずキッチンへ向かった。
その手には、いつもどおり『DVストア』のビニール袋がぶら下がっている。
ブーンと羽虫が飛ぶようなレンジの稼動音に、珍しく鼻歌が重なる。
今日のナオキはいつもより機嫌が良いみたいだ。
テレビを見るフリをしながら、私の目も耳も頭も……細胞の全てが、ナオキ一人に集中していた。
『――チーン!』
レンジが温め終了の音を鳴らした。
それは、私のレクイエム。
ナオキは頬を緩ませながら、私が座るソファの斜め右、赤いケチャップの跡が残るカーペットに座り込んだ。
骨ばった手が、乱暴に割り箸袋を引き裂き、箸を割る。
蓋を開けてまず口をつけるのは、どの種類の弁当にも必ず一つだけ入っている大きなから揚げだ。
香ばしい脂の香りに包まれ、ナオキは恍惚とした表情を浮かべると、時間をかけてしつこく咀嚼し、喉仏を上下させてそれを飲み込む。
「あー、やっぱこのから揚げうめえ」
その台詞は、一字一句変わらず、毎晩繰り返される。
そこから徐々に、ナオキのテンションは下がっていく。
少しずつ震え出す体をなんとか押さえながら、私はナオキの一挙手一投足を見つめる。
「ここの弁当、確かに安いよ。でも、他の具は手ぇ抜きすぎだろ?」
私に話しかけているのか、独り言なのか分からないけれど、とりあえず私は黙ったままうなずいた。
揺れた後れ毛が頬の吹き出物にかかり、チクチクしてかゆかったけれど、私は我慢した。
今日のメインは、ナオキがそれなりに好きな照り焼きハンバーグではなく、薄っぺらく干からびた鮭の切り身だった。
ナオキはしばらく迷い箸をした後、その鮭に手をつけた。
口に含んだ直後、ナオキの薄い眉の間にくっきりと縦ジワが入った。
どうやら骨が残っていたらしい。
ナオキは、顔をしかめて口の中から小骨を抜き取ると、ソファに腰掛けた私に向かって投げつけた。
「てめえ、この魚に骨があるの、見えてただろ?」
いいえと言えば、歯向かうのかと殴られる。
はいと言えば、何故教えなかったと殴られる。
私は口を開かず、黙ってナオキを見つめ返した。
大丈夫、今日はまだ大丈夫。
心の中で言い聞かせながら、私は命を持たない人形のように身動き一つせず、ナオキを見つめていた。
7.お弁当の美味しい食べ方
ノーリアクションの私に、チッと舌打ちしたナオキの興味は、再びテレビと食べかけの弁当へ向かう。
幸い、テレビにはナオキの好きなアイドルが出ているため、その横顔はいつもより穏やかだ。
出会った頃のような柔らかい微笑で、自分好みの美少女へと視線を向けていたが、しばらくすると無情にも画面はCMへ切り替わった。
同時に、ナオキにいつものスイッチが入る。
「不味いな、このポテトサラダ、温まっちまってよ! なあ、この弁当オカシイよな? サラダも、おひたしも……熱いと不味くなるモノが混じってるのに、全部一緒くたにレンジで温めるなんて、ありえねーだろ?」
独り言じゃない合図は、私から目を逸らさないこと。
私は、ナオキのすべてを理解しているのだ。
何か返事をしなければ。
「それは……同じ容器に入ってるから、仕方ないと思う……」
これは、本当に私の声だろうか?
蚊の泣くような微かな声が部屋に漂った。
「おい、俺の質問の答えになってないだろ?」
私はごめんなさいと謝った。
なるべく猫背になって、伸ばした前髪と横髪で顔が隠れるようにして。
「あの……レンジに入れる前に、その、冷たく食べたいものだけ、別のお皿に取れば……」
うちにはもう、陶器の食器は一つも無い。
包丁もフライパンもキッチンバサミも、凶器になりそうなものは全て捨ててしまった。
そういえば紙皿は用意していただろうか? と、私は一瞬余計なことを考える。
だから、ナオキの変化に気付くのが遅れた。
私は、答えを間違えてしまった。
ナオキは涼しげな目を細め、薄ら笑いを浮かべて立ち上がった。
忘れないように、テレビのボリュームを上げて。
CMが終わって歌のコーナーに入り、決して上手とはいえないラブソングが部屋に充満する。
私は、ニ人がけのソファのなるべく奥へと腰を引いた。
殴られるなら、窓際や壁際はダメだ。
ソファの上なら、自分の体でモノを壊すこともないし、多少はクッション性があって怪我も軽くてすむ。
なにより撥水加工された皮の上なら、血で汚れても掃除しやすいし。
「あのなあ、俺は毎日疲れて帰ってくるんだよ。この弁当に入ってるから揚げだけが俺の癒しなんだ。それを一秒でも早く食べたいと思ったら悪いのか? 別の皿にいちいち移せっつーのか! ああっ!」
私はナオキの額に浮き出る青筋と、小刻みに震え出す体を見つめた。
謝罪の言葉は、目の前の鬼には届かない。
* * *
星占いなんてちっとも当てにならないと、私は落胆した。
ナオキは、食べかけの弁当を手に取らなかった。
ナオキが弁当を手に振りかぶり、私に投げつけてくるのが一番ラッキーな日。
次にラッキーなのは、平手。
その次は、体への蹴り。
最悪なのは、拳で顔を殴られること。
それとも、モノで殴られることだろうか。
頭の皮膚は思ったより薄くて、すぐに切れてしまう。
血がたくさん出ると、たいした怪我でもないのに病院へ行かなきゃならない。
そのたびに、新しい病院を開拓するのが面倒だ。
ハズレの病院に当たると、前に作った傷のことをしつこく問いただされるから。
ぼんやり考えていた私の顔に、まず拳が一度飛んできた。
やっぱり、今日はちょっとだけラッキーかもしれない。
鼻血は出たけれど骨は折れなかったし、歯も無事だ。
ニ発目は、どうやらモノで行うらしい。
ローテーブルの上の灰皿は、一度軽いアルミ製に変えたのだけれど、それを縦に使われると皮膚が切れやすいことに気づいてから、丸みがあって軽いプラスチック製に交換しておいた。
案の定、灰皿を手に取ったナオキは、私ではなく壁に向かって投げつけた。
ああ、これもラッキー。
そこはもう既に穴が開きかけているところだから、被害の度合いは低い。
血走ったナオキの目は、室内のあちこちをスキャンする。
悪さをしたこの人形を、効果的に躾ける手段を求めて。
ナオキが次に視線を定めたのは、テレビの上に飾ってある……特別なアイテムだった。
「ナオ、キ……?」
人の魂を取り戻した私は、ソファの上を降り、ずるずると壁際へ移動する。
ナオキは、手にしたモノを見つめ一度微笑むと、私を見て「別人だな」と嫌悪感を滲ませた。
部屋の隅に座り込んだ私は、額をカーペットに擦り付けた。
「お願い……許してください……」
それは、この部屋に引っ越した日からずっと置いてある写真立て。
フォトフレームの中には、頬を染めてはにかむ私と、華奢な肩を抱き寄せるナオキがいる。
あの写真を撮ったのは、ちょうど引越しの荷解きを終えた夜だ。
ナオキは「記念に」と私の肩を抱き、長い腕を伸ばしてアップで撮影した。
一生この人と寄り添い、支え合って暮らしていく……そんな実感がじわりと湧いてきて、私の頬は赤く染まった。
写真の中の二人は、今も変わらず幸せそうに笑っている。
写真と同じように微笑んだナオキは、笑わなくなった私に罰を与えるため、それを振りかざした。
* * *
毎晩私を殴った後、必ずナオキはその写真を私に見せてきた。
『この頃は良かった。お前は可愛かった。俺のために何でもしてくれた。ミーコもいた。変わったのはお前だ。早く元に戻ってくれ。そうすれば俺はこんなことしない。本当はしたくないんだから』
そして私は、写真のナオキに誓いの言葉を伝えるのだ。
『もしこの日に戻れたら、もうニ度と同じ過ちはくりかえしません。私はナオキのために働き、ナオキの妻として一生ナオキを支えて生きていきます』
毎晩繰り返しても、私はその誓いを守れたことがない。
私は殴られなければ家事をしない、だらしない女になってしまった。
もうミーコはいないというのに、部屋にはあの気持ち悪い虫が常に飛び回っている。
床にも壁にも、黒い虫が這いずり回る。
私の目の前を、枯れ葉のような黒い虫が必死で手足を動かして走り去った。
それを追って動いた額に、一度目の衝撃。
笑顔のナオキは、改心した振りをして何も変えようとしない私に、もう謝らせてもくれない。
分厚い金属のフォトフレームが、私の頭に容赦なく振り下ろされた。
――痛い。
プラスチック製の丸いフォトフレームに入れておけばよかった。
でも、もう遅い。
始まってしまったから。
一、二、三、四、五、六……その先は、数えることすらどうでも良くなった。
しばらくすると痛みは熱に変わり、そのうち何も感じなくなった。
ただ鈍い音が、頭の中に響いてくるだけ。
口から自動的に漏れていた悲鳴や嗚咽も止まり、代わりに私の頭からは赤黒い液体がぽたぽたと落ちていく。
いったいどのくらいの時間が経ったのだろう。
人形遊びに飽きたナオキは、気まぐれに写真立てを放り投げ私の上から降りた。
再びカーペットに座り込み、テーブルに残された食べかけの弁当に向き合うと、ポンと手を叩く。
「――あっ、俺、すげーイイコト思いついた!」
サラダとおひたしは、最後に食えばいいんだよな。
しばらく置いとけば、あっという間に冷めるんだから。
ナオキは嬉しそうに笑いながら、程よく冷えたポテトサラダを頬張った。
弁当が投げつけられる“ラッキーデー”は、もう来ないだろう。
ナオキは、弁当を最後まで美味しく食べる方法を見つけてしまったから……。
〜エピローグ〜
私はナオキの広い背中が好きだった。
だから、少し汗ばんだワイシャツ姿のナオキに、背中からよく抱きついた。
ナオキは「こら、着替えられないだろ?」と困ったように笑いながら、大きな手のひらで私の腕をやさしく引いて、体の正面に引き寄せ、しっかりと抱きしめなおしてくれた。
栗色にカラーリングし、ふんわり巻いた髪を何度も優しく撫でてから……額に、頬に、そして唇に触れた。
ナオキが私の髪を撫でる、その大きな手はいつも温かかった。
ナオキ……。
ナオキ……。
私のせいで、こんな風になっちゃって、本当にごめんなさい。
私は体を横たえたまま、パチパチと瞬きを繰り返した。
いつの間にか溢れた涙が、視界を曇らせていた血液を洗い流し、私は視力を取り戻した。
白いシャツの袖口から胸元にかけて、赤い花を散らせたナオキの姿が見える。
早く洗わなきゃ、あの染みがまた落ちなくなってしまう。
シャツのストックは、まだ残っていただろうか。
明日は新しいシャツと、丸いフォトフレームを買って帰ろう。
その前に、一度病院へ行かなきゃいけないな。
最近病欠ばかりだけど、会社で傷が開くと迷惑をかけてしまうし。
またお金借りなきゃ足りないかな……。
――あっ、私、すごいイイコト思いついた!
明日の帰りは、DVストアに寄ってみよう。
それで『から揚げ弁当』を作ってもらえないか、頼んでみるんだ。
そしたら、きっとナオキ、喜ぶよね……?
そしたら、もう一回、私のこと撫でて、くれる……かも……。
「ナオキ……」
私の声は、ひゅうひゅうと掠れて、もう誰にも伝わらないただの音でしかなかった。
私は、あの写真立てのように微笑みながら……瞳を、閉じた。
〜後日談〜
私は今、爽やかな井草の香りが漂う和室で、温かいコーヒーを飲んでいる。
今時珍しい掘りごたつ式のテーブルは、コタツ布団がかけられていないとレトロなテーブルにしか見えない。
艶のある木目を見ていると、徐々に気持ちが落ち着いていく。
一辺に二人ずつ座れる、正方形の掘りごたつ。
そのテーブルに、私の知らない男の人が三人と、女の人が四人いた。
私を入れて八人と大所帯だけれど、居酒屋みたいに大きな掘りごたつにはぴったりの人数だった。
コタツの下、誰かの動かした足が、私の足に触れた。
ずっとうつむいていた私が、びくりとして顔を上げると、そこにいた七人の知らない人たちは……優しく微笑んだ。
私の斜め右にいるのは、この家族のお父さんなのだろうか。
還暦を過ぎたくらいのおじいちゃんが、シワだらけの顔をますますしわくちゃにしながら、泣き笑いのような表情を浮かべている。
私の正面に座る、三十才くらいの男二人は、たぶん息子だろう。
頭にタオルを巻いたTシャツ姿の男たちは、毎日重たい荷物を運ぶ仕事のせいか、かなりガタイが良い。
息子とおじいちゃんの間に座っているのは、きっとお母さんだ。
息子たちにそっくりな顔をした、眉毛の太い彼女が豪快に笑った。
「お嬢さん、安心していいからね。うちの息子はチビの頃から空手をやらせてきたんだから!」
その台詞に、強くうなずく息子たち。
弟と思われる方の息子には、すでにお嫁さんが居るらしい。
掘りごたつの影に隠れているけれど、しっかりと手を握りあっているのが見えた。
弟のお嫁さん……二十代半ばくらいのその女性は、線が細くエプロンが似合うロングヘアの美女だ。
私と目が合うと、彼女は目を伏せて腰を浮かせた。
「あの、コーヒーお代わりします? それともお茶にしましょうか? あ、確かいただきもののお菓子が……」
立ち上がりかける彼女に、私は首を横に振った。
頭を動かすと、縫ったばかりの傷が引き攣れて気持ちが悪い。
「いいのよ、少し落ち着きなさいよ」
三十代後半くらいの、少し化粧の厚い女性が、彼女の腕を掴んで引きとめた。
三人きょうだいの、長女にあたる人かもしれない。
細面で目つきの鋭い彼女は、お父さんの方にそっくりだ。
最後の女性は、五十才くらいのおばさん。
お店のエプロンをつけているし、玄関を上がるときにお邪魔しますと言っていたので、パートさんだろう。
このパートのおばさんに声をかけたことが、私の運命を変えた。
「しかし、あの弁当男が、まさかこんなひでえことを……」
おじいちゃんが、私の腫れあがった頬を見つめながら、ポツリと呟く。
パートのおばさんは、私の隣に座って、ずっと背中をさすってくれた。
「大丈夫、大丈夫。私も酒飲んで暴れるダンナから逃げてきたのよ。あなたまだ若いんだから、いくらでもやり直せる、ね?」
この人は、自分の経験からすぐに分かったのだ。
私が発した「から揚げ弁当を作ってくれませんか」という一言だけで、私に何が起きているのかを。
ナオキは、この店では有名な常連客だった。
夜十時前から店に居座り、「から揚げ以外の具が不味すぎる」と店員に文句つけながら、半額シールが貼られるのを待つという奇行によって。
外面は良かったはずのナオキが、そんなことをしていたのだと聞かされて、私は本当に驚いた。
壊れていたのは、私だけじゃなかったのだと知った。
「そうだよ! あいつ警察に突き出そう! 俺が……いや俺たち全員、協力するからさ!」
長男と思われる男が、日に焼けた顔をくしゃくしゃにしながら、微笑みかけてきた。
笑い方はおじいちゃんそっくりだけれど、母親似のコワモテな顔立ちなので、笑うとさらに怖い。
ちょっと、ゴリラに似てるかも……。
私がそんな失礼なことを考えたとき、母親と姉が「あんたの笑顔は怖すぎ!」「お嬢さんが怯えてるじゃない!」と同時に突っ込んだ。
「そんなつもりじゃ……」
彼はその外見にまったく似合わない気弱な声で呟き、がっくりと肩を落とした。
私は……一年ぶりに、笑った。
* * *
その後ナオキは、いなくなった。
二村家の長男さんに付き添われて警察を訪れた、その翌日だった。
再度事情を聞かれた私は、「プライドの高いナオキには、警察に目をつけられたことが耐えられなかったのかもしれない」と伝えた。
私は部屋に残された家財道具を処分し、お金が足りない分は親に頭を下げて、ボロボロの部屋を修理し……不動産屋さんに鍵を返した。
「もう疲れたでしょう? うちに帰っておいで」
田舎から駆けつけてくれたお母さんは、私を抱き締めながらそう言ってくれたけれど、私はまだこの街にいる。
その理由は――。
「おーい、そろそろ昼飯にしよう」
後方から店長が声をかけてきた。
パソコン入力の手を止めた私は振り向くと、笑顔でうなずいた。
店長の手には、二つのお弁当がある。
あれから私は『DVストア』の住み込み店員となった。
そして一年後には、コワモテだけれど本当は優しい店長……二村家長男のお嫁さんとして、温かく迎えられていた。
「それにしても、お前毎日から揚げ弁当なんて……本当にいいのか?」
彼が小さな折り畳みテーブルとパイプ椅子を用意しながら、昨日と同じ質問を投げてきた。
私は二人分のお茶を淹れながら、もちろんとうなずく。
普段お店が忙しくて出かけられない分、狭い事務室にニ人きりで過ごすお昼休憩は、私たちのささやかなデートタイムだ。
準備が整うと二人並んで手を合わせ、いただきますと頭を下げた。
秘伝のタレに漬け込まれた、肉汁たっぷりのジューシーなから揚げを、私は一口で頬張り良く咀嚼する。
彼が「門外不出、お前でも教えられない」と言っていたタレの原料は、調理場奥の冷凍庫に保管されている。
その扉には鍵がかけられ、私以外の家族も近寄らせないほどの徹底っぷりだ。
「あー、やっぱうちのから揚げ美味しい!」
大きな肉塊を飲み込んで私が満面の笑みを浮かべると、彼は顔をくしゃくしゃにしながら笑って、私の髪を撫でてくれる。
毎日鮭弁当を食べる、優しい彼。
私と出会ってからすぐに、「ダイエットする」なんて言い出してお肉を食べなくなった。
彼が冷凍庫に鍵をかけるようになったのも、同じ時期らしい。
私は密かに、その鍵を複製していた。
深夜、彼が夢を見てうなされている間に調理場へ忍び込み、冷凍庫を開ける。
携帯ディスプレーの明かりを頼りに、霜の張り付いたアイスケース型の冷凍庫から、大量の鶏肉と液体の入った重いポリタンクを取り出す。
その奥には黒いビニールのゴミ袋がある。
緩めに縛られた口を開き、三重に重ねられた袋の中から私が選ぶのは、ぶつ切りにされた右手だ。
冷気の靄が立ち上るその青黒い手に頬を寄せ、私は一時の逢瀬を楽しむのだ。
「ナオキ、大好きだよ……」
桜並木の美しいこの街で、私は愛する人に囲まれて、幸せな生活を送り続ける――。
↓作者の言い訳(痛いかも?)です。読みたくない方は、素早くスクロールを。
以前からDVという社会問題に興味がありました。知人に被害者がいて、考えさせられることが多かったので。(DVネタは掌編でも一作書きましたが、こっちが先に書いた方です)今回なるべくライトな描写を心がけたので、ホラー度かなり低いです。救いようのないエンド(殺し合い)も考えたのですが、個人的に苦手なのでボツにしました。またホラーだとよく発狂シーンもありますが、DV被害者が主人公の場合は『内向』とか『受容』がキーワードになるため、そこもあまり怖くない要因(敗因)に……加害者の男を主人公にすれば狂気が描けたような気がします。来年はソレ系でリベンジしたいです。一点補足を。店名の由来は、二村=『DOUBLE VILLAGE』です。家族会議で『TWO』と迷った結果「TVストアはさすがにカッコ良すぎるっぺ」となった平和な元ヤン一家という裏設定でした。
※企画ボツ作品『悪魔なサンタにお願いを』アップ済です。本当はそっちを出す予定でしたが……。余裕がある方はぜひ見てやってください。
※追加補足:本文に書けなかった裏設定をもう一つ。ナオキは警察訪問後、DVストアに潜入しようとして店長に捕まり……というイメージで考えております。当然温厚な店長がバラバラにして隠すくらいですから、それなりの理由が。(あとはご想像にお任せってことでスミマセン)