沢畑耕司という男3
アズモ・ネスティマス。
聞いた事の無い名前を耕司が呟いた。
少なくとも日本人名では無いようだが、耕司はまた何処かで知り合いを増やしたのだろうか。
今度は一体どういう経緯で知り合ったのだろうか、アズモという人は一体どのような人間なのだろうか。
俺は呑気にそう考えていたが、先生は違った。
「誰の名前なんだそれは! というかお前、このテストはゼロ点になるからな! 夏休み補修だぞ! こんな良い点数を取っているのに何をしているんだお前は!?」
怒った先生が言葉を捲し立てる。
「凄惨な事件があったから低い点数を取るのなら仕方無いぞ? それで学校に長い間来れていなかったんだから。だがな、名前ミスは見逃せない。先生は――」
耕司に対して先生が説教をするが、アズモ・ネスティマスと呟いた耕司は再び呆けていた。
先生が目の前で怒っているのにも関わらず何も喋らないし、相槌もしない。
「おい、聞いているのか? 返事をしろ」
暫くすると、先生も耕司が呆けている事に気付いたようだ。
「起きろ、耕司! 耕司!」
「やっと起きたな。お前今日はどうしたんだ? 寝てばっかりだぞ」
「すみません先生。やっと目が覚めました」
「そうか。なら良い。んで、このテストの事だが……」
耕司の行動に毒気を抜かれた先生が、再び答案用紙をテストに見せる。
「おいで、スズラン」
先生が今度は語気を強くせず冷静に耕司に問い質し始めたが、耕司はそう呟いた。
その直後、教卓に幾何学的な模様が浮かび上がった。
それは白い煙を出しながら輝き、教卓を赤色に染め上げる。
「ナーン」
煙が晴れると、教卓の上には猫が座っていた。
やけに鼻に掛かった声で鳴く純白の猫。
「えっ、猫!?」
「何処から現れたんだ……」
「でも可愛いよ」
クラスのあちこちから声が上がる。
反応はどれも突然現れた猫に対しての物だった。
暇を持て余し喋っていた連中も前で行われた事に気付き、喧噪に混ざる。
「ありがとう、スズラン。おかげで全部思い出せた」
「ナーン」
この喧噪を起こした張本人であろう耕司は後ろで行われる事など気にもせずに、猫を撫でる。
家で飼っているペットを撫でるかの如く、突如現れた猫と戯れる。
あそこだけ外界から隔離された異空間のようだった。
「こ、耕司、これはお前がやったのか?」
目の前で行われた事が理解出来ていない先生は暫く放心していたが、気を取り直したのか耕司にそんな質問をする。
「すみません、俺がやりました。一刻も早くスズランに感謝を伝えたくて」
「そ、そうか……」
「あと、もう一つすみません」
「な、なんだ?」
「会いに行かなければならない子がいるので、帰ります」
耕司は何てことないように至って冷静に先生の質問に答える。
やはり、白猫は耕司がどうにかして出したようだ。
何も無い場所から急に猫を出す。
魔法でも見せられているかのような気分に見舞われたが、耕司がそれ以上に驚く事を言った。
――会いに行かなければならない子がいる。
それは一体誰なのだろうか。
さっき耕司が呟いた名前と関係があるのだろうか。
その名前の子は、女の子なのだろうか。
やっと耕司に大事な子が出来たのだろうか。
アズモ・ネスティマス。
その名前の子が俄然気になった。
その子は、引く手あまただったのにずっと恋人を作って来なかった耕司の心を射止めた子なのかもしれない。
「——魔物化」
そんな事を考えていると、耕司が再び何かを呟いた。
すると、耕司の背中……ワイシャツの後ろの部分がもぞもぞと動き出し暴れる。
ワイシャツは暴れに暴れ、やがて破れる。
破れた穴から黒い何かが現れた。
それは完全に出現すると、扇子のように大きく広がり存在感を放つ。
黒い大きな翼だった。
耕司の背中から急に黒い翼が現れ、教室中の視線を釘付けにする。
俺もそれから目が離せなかった。
「嘘だろ……!」
「羽が生えた……?」
「え、どういう事?」
「どうして耕司君に翼が!?」
クラスの連中が耕司の背中を見て驚いた声を上げる。
もしかしたら夢でも見ているのでは無いかと思ったが、ちゃんと皆にも目の前で起こった不可解な現象が見えていたようだ。
教室はこれ以上無いくらいのどよめきに包まれる。
耕司はそんな物には意を介さず広がった翼を閉じると、窓に向かって歩いて行く。
畳まれてコンパクトになっていてもそれは一際存在感を放っていた。
耕司が歩くのに従って揺れる黒い翼に目が吸い寄せられる。
耕司はおもむろに窓の鍵を解き放ち、窓を全開にする。
「すまん皆、夏休みは何処にも行けない! 大切な女の子に会いに行く!」
教室中を見て耕司がそう話す。
その言葉でハッとした。
耕司がまた何処かに行ってしまおうとしている。
死んでしまってもおかしく無い事件に巻き込まれて、なんとか一命を取り留めてやっと帰って来たのに、また何処かに行ってしまう。
耕司は窓枠に足を掛け、今にも飛んで行ってしまいそうだった。
……俺に出来る事はなんだろうか。
友人として、同じ中学からこの高校に進学した身として、耕司に救われた人間として俺は今何が出来るだろうか。
そうこう考えている内に、耕司は外の方に向き直りもう飛び立とうとする。
行ってしまう。
最後に何かしなくては。
訳も分からず、俺は勢い良く立ち上がった。
立ち上がる時の勢いで椅子が音を立てて倒れ、教室が静まり返る。
クラスの連中が俺の方を向く。
耕司も俺の方を見ていた。
今、教室中の視線は俺に注がれている。
……耕司は大切な女の子に会いに行く、と言っていた。
本当に耕司には大事な女の子が出来ていたんだ。
これは友達の新たな門出。
——なら俺は、旅立とうとしている耕司の応援をするべきだろう。
「必ず帰って来てその子を紹介してくれよ!」
そう言った。
伝えたい言葉は他にも沢山ある。
でも急ぐ耕司にはこの言葉だけで良い。
旅立ちは湿っぽくしたくない。
明るく笑顔で、元気に送り出す。
耕司なら、この言葉で全部理解してくれる。
そう言うと、俺の方を見る耕司の瞳が揺れたように見えた。
「やっと帰って来たと思ったらもう行くのかよー」
「ちゃんと無事に帰って来いよ!」
「気を付けてね、コウジ君!」
「俺にもその子を紹介してくれよな、耕司がどんな女の子を引っ掛けたのか見てみてえ!」
「はあー、狙っていたのに遅かったか……ったく、行ってこい!」
俺がそう喋ったのを皮切りにクラスの連中も同じような事を一斉に喋り出した。
俺だけでも祝福しなくてはと思っていたが、考えていた事は皆も同じようだった。
本当に耕司は、俺みたいな良い友達を沢山持っている。
俺みたいに耕司に絆された奴しか居ないのかよ、このクラスには……。
少し呆れたが、これも耕司が頑張ってきた証拠だろう。
「お、お前、夏休み中に帰って来いよ! 九月になったらまた生徒が一人居ないなんて嫌だからな!」
教卓の陰に隠れて見えなくなっていた先生も耕司にそう言った。
「皆、ありがとう。行って来る」
「ナーン」
耕司が全員の方に視線に向け、行って来ると言った。
白猫が耕司の肩に飛び乗ると、耕司は窓から身を投げる。
クラスの連中は一斉に窓の方に移動し、耕司の方を見る。
地面に落下していく耕司を見た女子が悲鳴を上げたが、その次の瞬間には翼を広げ青空を翔けていた。
「やるじゃねえか……」
いつか誰かが俺に散々掛けて来た言葉を耕司に掛ける。
耕司は段々と小さくなっていき見えなくなる。
ふと、飛んでいる耕司の背中に女の子の姿が見えたような気がした。
「まさかな……」
夏の陽炎が俺に幻覚を見せたのだろう。
耕司の背中には黒い翼しか見えない。
次回、エピローグです。
ここに来て凄まじい虚無感に襲われています。
完結ボタンを押したくないですねー…。
…とは言え、今日の夕方辺りにでも出します。




