百二十九話 夢を見ていた
『――――――ジ、コウジ。起きろ』
誰かが俺を呼ぶ声が聞こえる。
懐かしいような、でも最近まで聞いていたような不思議な声。
悪いがまだ起こさないでくれ。
今日は一段と瞼を開くのが億劫なんだ。
『――――早く起きろ』
だから寝かせてくれって。
何か早く起きなきゃいけない理由でもあったか?
今日はいつもと同じ……。
あれ、今日は何をする日だ……?
何をしようとしていたのか全然思い出せない。
『――早く目を覚まさなければ』
なあ、お前は何か知っているのか?
良ければ教えてくれないか?
『大変な事になるぞ』
―――――
「――ジ! コウジ起きなさい!」
また声が聞こえた。
でも今度はさっきのとは違う声だ。
不思議な声よりももっと懐かしい声。
「先生! 確かにさっき一瞬だけうちの子が動いたんです! 早く来てください!」
「それは本当なのかね? 確かにここに来て耕司君は驚異的な速度で回復しているが……」
懐かしい声が誰かを呼び、知らない声が増えた。
「もう一度だけ動いて耕司! お願いだから!」
懐かしい声が俺を呼ぶ。
この声は誰だったか。
少し気になった。
億劫だったがそろそろ目を開けてみよう。
直ぐに視界が明るくなった。
目を開くのってこんなに簡単だったっけ? という気持ちになったが、そんな事を考えるよりも先に視界一杯に誰かの顔が移り込んでくる。
「起きた! 起きましたよ先生! 耕司が起きました!」
「信じられん……」
誰かが泣きながら俺の事を抱きしめてきた。
誰かの後ろに困惑していた表情のおじさんと目が合う。
白衣を来た白髪の老人だった。
この人が先生なのだろうか。
この人達はどうして俺にそんな感情を向けて来るのだろうか。
俺の身に何かがあったのか?
「あの、ここは何処ですか? 二人は一体? 俺はどうしてここに?」
……あれ、俺の声ってこんな低い声だったか?
もっと高くて女の子っぽい声だったような気がする。
いや待て、女の子……?
俺は男のはずだ。
何を考えているんだ俺は。
何故だか自分の性別にすら違和感を抱いた。
「なんと、もう喋れるのか。……だが、意識は混濁しているようだ」
「それでも、それでも嬉しいです! やっと耕司が目覚めてくれましたから!」
誰かが俺の事をより強い力で抱きしめる。
何処かに行ってしまわないように、離れないように強く。
「お母さん、耕司君が困惑しているのでその辺で。まだ彼は目覚めたばっかだ」
白髪のおじさんにそう声を掛けられた誰かが俺の事を放す。
俺を抱きしめていた誰かは泣いていた。
見覚えはあるが、とても懐かしい記憶の誰か。
俺の間違えでなければこの人はさっきこう呼ばれていた。
「……母さん?」
「まあ! 私の事を覚えていたのね!」
お母さんと呼ばれた誰かは感極まったのかもう一度涙を流す。
泣いているところ悪いが、俺はひたすら困惑していた。
黒髪の日本人らしい顔の女の人が俺を見て泣いていた。
だが俺の母さんは茶髪で海外の人みたくもっと彫が深い顔だった気がする。
でも何故だかこの人も俺の記憶の中の母さんと同じ顔。
どういう事だ?
まるで記憶が二つあって混ざりあっているような……。
「……ふむ。色々と聞きたい事はあるが、君は事件の記憶はあるかね?」
白髪の老人が俺の顔をジッと見ながらそんな事を聞いてきた。
「事件、ですか?」
やはり俺の身には何かあったのだろうか。
思い出したいのだが、何故だか思い出せない。
記憶に靄がかかっているかのようにうっすらとベールがかかり思い出せない。
おまけにその記憶は段々と薄れて見えなくなっていく。
一瞬だけ頭に浮かんでいた茶髪の母さんの顔も今はもう思い出せない。
この記憶は何だろうか。
このまま流れに任せて忘れ去っても大丈夫な記憶だろうか。
何故だか物凄く手放したくない夢のような時間だったかのように感じるが、思い出せないという事は大事な記憶では無いのだろう。
きっと何か素敵な夢でも見ていたのだろう。
……おっと、そうだった。
質問に答えなければだった。
頭の中で自分の考えを羅列していっても、誰にも伝わらないもんな。
話し相手が居る訳でも無いし。
「分かりません。気付くまでの記憶も曖昧です。俺に何かあったのでしょうか?」
「なるほど。なら、落ち着いて聞いて欲しい。君は通り魔に刺されて二週間も眠っていたんだ」
「え……?」
「驚くのも無理は無いだろう。だが何があったかは知ってほしい。犯人もまだ捕まってな――」
白衣の老人は尚も喋り続けるが、何も頭の中に入ってこない。
二週間という言葉が俺の中で強く響いていた。
夢の内容は思い出せないが、俺の見た夢はもっと長い物だった気がする。
二週間どころではなく、それこそ五、六年分くらいの夢だった。
「――あの」
「ん、どうしたのかね?」
「俺が眠っていたのは本当に二週間だけだったんですか?」
喋り続けていた医師の言葉を遮って質問する。
二週間という時間があまりにも短く納得出来なかった。
「二週間も寝たきりというのは十分長いんだがね。……君は六月十七日に何者かから心臓を一突き。そのまま意識を失ってこの病院に運び込まれた。心臓を刺されたのに何故か君は血を一滴も流さなかった上、鼓動も止まっておらず、おまけにどれだけ手を施しても刺された後が塞がらない。しょうがないからこの部屋で様子見していると、二日前に突然君の傷は治り今日七月一日に目覚める。……逆に私は君に何があったのかを君に聞きたいよ」
言われて机に置いてあったデジタル時計に目を向けて日付を確認する。
2025年7月1日午後3時14分。
「本当だ……。一年も経っていない……」
最後の記憶は何時だっただろうか。
2025年になり高校二年生になったのは覚えてる。
部活に入らなかった俺は毎日家で母さんの手伝いをしながら過ごしていた気がする。
家で育てている沢山の花に水やりをして、不器用な母さんの代わりに摘芯して、霧吹きに入れた肥料液を吹きかける。
ふと、傍に置いてあった黄色い花が香る。
花瓶に挿された早咲きの向日葵が窓から入ってきた風に少し揺られた。
窓の外を見ると白い花を咲かせた泰山木とその直ぐ近くから俺を見る白い猫が見えた。
向日葵の人を選ぶ匂いと、泰山木の良い匂いが混ざり鼻に届く。
匂いというのはこんなに強く感じられる物だっただろうか。
……なんでか分からないが、日本に帰って来たな。
という感じがした。
俺は帰って来てしまったんだ……。
「色々と聞きたい事はあるが、後にしておこう。整理する時間も必要なようだ」
「……いや、別に大丈夫ですよ。何でも聞いてください」
「流石の私も泣いている病人にあれこれ質問する程、人間性は捨てていないつもりなんだ。ではお母さん、頼みましたよ」
そう言って医師が部屋を出て行くと、水が布団に垂れるのが分かった。
「あれ、俺なんで泣いて……」
俺の顔から垂れる水がポタポタと垂れて止まらない。
自分でも分からない感情が濁流となって自分の中に渦巻く。
俺は本当に夢を見ていただけだったのだろうか。
三章と書いてますが、この物語上での終章になります。
終わりが近いのでその分、一話一話大事に書いていきます。
ですので、毎日投稿が出来なくても許して欲しいです。




