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海岸通り

作者: 夕季きろ

 時々、怖くなることがある。彼女の朗らかに笑う表情を見ると、いつか僕という存在が君をどうしようもないぐらい傷つけてしまうのではないかと。

 


ロッツはゆっくりと歩きながらそんなことを考えた。その考えは数十年前、初めて彼女の笑顔を見た日に感じた恐怖だった。あの日、ロッツは海沿いの通りに築かれた小さな公園で、一人、ベンチに腰掛けクタクタになったノートを広げ詩を書いていた。塩の香りがする公園には背の低い桜が一本鮮やかなピンク色を称え静かにそこにあった。彼は小さい頃から花が好きだった。詩を書く時は決まって花を側に置いてペンを回す。そうやって花を見つめながらもくもくと考えふけるとふいに芽が開くように自分の中から詩がひょっこり顔を出す。ロッツはその感覚が好きだった。

 ――なにをしてるの?

桜の花弁が緩やかに舞う中にその声は柔らかく響いた。

 ――詩を書いているんです

ロッツは何気なくノートから顔を上げ答えた。

 ――どんな詩を書いているの

彼女は興味深そうに瞳を丸くして訊ねた。

 ――この桜を詩にしたいなと思って

彼は桜の木を指さして答える。

 ――よければ読ませてくれない?

首を傾げ、彼女は問いかけた。長く黒い髪がゆったりと揺れた。

 ――いいですよ。でもあんまり期待しないでくださいね

ベンチのスペースを開け、彼は書きかけの詩のページを彼女に渡した。

――ありがとう

彼女はロッツの隣に腰掛けると、つたない桜の詩を読み始めた。ロッツはあまり他人に自らの詩を読んでもらったことがなかった。だから彼女が詩を読んでいる間、ほんの少し緊張していた。緊張を紛らすために彼は道路を挟んだ先の青い海を見つめていた。波が数回寄せては返すとパタンと優しくノートを閉じる音がした。ロッツは隣に座る彼女に視線を戻した。

 ――どうですか?

ロッツはどきどきしながら、心配そうに彼女に訊いた。

すると彼女は彼の瞳を見て、微笑んだ。

――あなたの詩はほんとうに綺麗ね

 その瞬間、彼は彼女に恋をした。波風が桜を乗せて通り過ぎた。



駅前はがらんとしていた。ロータリーにはそれ程人が居らず、駅の入り口の近くのベンチは誰も座ってはいなかった。ロッツはベンチに座ると彼女が乗っているはずの電車を待つことにした。ベンチに腰掛けると、疲れがどっと肩に覆いかぶさるようだった。家から駅までそれ程の距離があるわけではなかった。が、ロッツの老体には中々の重労働だった。

――年だな

彼は肩をトントンと叩きながらそう思った。

カン、カン、カン、カン――

 踏切が閉じる音が響き始めた。彼女の乗る電車がやってきたのだ。ロッツはまだホームに電車が滑り込んではいないというのに浮足立ってベンチを後にする。疲れのことを忘れて彼は改札の前に立ち、電車がやってくるのを待った。踏切が泣き止むと同時に電車が緩やかな速度で入り込んでくる。ロッツは初めて彼女と出会い詩を読んでもらった時とは違う緊張を感じていた。彼は彼女をいつだって愛おしいと思っていた。同時にいつだって失うことを恐れていた。やってきた電車に彼女は乗っていなくて、既に何処か遠い場所へと行ってしまったのではないか。彼は乗客の中に彼女の姿を見つけるまで、そう怖がる。

「あら、あなた」

けれど、彼の不安とは裏腹に彼女は決まってやってきた電車から降りてくる。ホームに居る彼を見つけると変わらない笑顔を浮かべて、改札に切符を通す。

「おかえり」

ロッツは彼女の笑顔を見て、生じた恐怖心を見せないように微笑む。

「荷物持つよ」

「ありがとう」

彼は食料品の入ったスーパーの袋を受け取ると、そっと彼女の手を握った。荷物を持つのは彼女と手を繋ぐための口実だった。

「策士ねあなたは」

小さなその手を握ると彼女は嬉しそうに彼を見て言った。

「そうかなぁ」

「女たらしね」

ロッツは困った表情になる。どんな言葉を返せばいいか分からなかった。彼は詩を書くのは好きではあったが気の利いた言葉を返すのは得意ではなかった。すると、彼女は悩むロッツの表情を見てくすくすと鈴なりに笑った。

「冗談よ」

街の空は朱色に染まりつつある。午後の水色はほんの少し滲む程度だ。

「今日はどうだった?楽しかったかい?」

ロッツは繋いだ手の温もりを感じながら、彼女の歩調に合わせて歩き訊ねる。

「ええ、とても」

彼女はとなり街で開かれている朗読サークルに月に一度参加していた。彼女はそのサークルの中でも古参の方で仲良しの友達が多く居た。昼前には出かけていき朗読会に参加した後そのまま友達とお喋りに花を咲かせる。それに、夕飯の買い物もするものだから帰りはいつも夕暮れ時なるのだった。彼女の帰りを待つ間ロッツは寂しい気持ちになる。そんな時は詩を書いて気をまぎわらせるようにしていた。それでも足りないときは数分に一回時計を見るようになる。我ながら幼いなと彼は常々思っていた。

「なにか面白い物語は読めた?」

「あなたも知っている作品を読んだの」

頷くと、小さなハンドバックから彼女は一冊の本を取り出した。表紙には黄色い髪の毛の少年が小惑星の上で佇む絵が描いてあった。その絵には見覚えがあった。

「『星の王子さま』だね。僕は大好きだよその物語」

にこやかにロッツは微笑んだ。けれど、視線を彼女の方に向けるとさっきまでそこにあった笑顔とは違うとても悲しい表情を彼女は浮かべていた。

「私は大嫌い」

彼女はロッツの手をぎゅっと握った。

「大切な人を残して消えるなんてありえないわ…残された人の気持ちを何も考えていないのよこの少年は…」

彼は彼女の悲しみに答えるようにその手をもう一度包んだ。

「そうだね」

「あなたはいなくならないでね…」

「うん」

 王子さまは蛇に貰った毒を使い命を終えることで故郷の星に帰ることになる。地球に大切な人を残して。ロッツは星の王子さまという物語が好きだからこそ彼女の悲しみが十二分に分かった。なによりその悲しみはロッツが今なお抱えているものだ。

「約束するよ」

「ありがとう…あ、」

彼女は前方に指を刺した。

「あれ、桜の木」

彼女の指先を目で辿ると、そこにはあの公園があった。まだ気温が低いからだろう、桜の木はまだ芽を閉じ眠っていた。ロッツの手を引き、彼女は眠る桜へと歩む。

「今年もあなたと一緒にお花見したいわ」

二人はあの日出会って以来、毎年お花見をしていた。彼が桜の側で詩を考える間、彼女は詩が芽吹くのを嬉しそうに待つ。そんな時間を過ごすのが二人は好きだった。

「楽しみだね」

「ええ、本当に楽しみ」

彼女はロッツを見て朗らかに笑った。その時、その笑顔を見て彼の中にあった怯えが顔を覗かせてしまった。隠すはずだったのに彼は悲しそうな表情を彼女に漏らしてしまった。

「どうしたの…?」

不安そうに彼女は問いかける。ロッツは辛かった。自分の命よりも大切な人を悲しませてしまった。自分を許せなくなりそうだった。

「アン…聞いてくれるかい」

ロッツはアンの名前を呼んだ。

「話して、ロッツ」

アンはロッツの瞳を見つめた。

「僕は、、僕は怖いんだ…君は僕の生涯で何よりも大切な人だ、、だからもし、君のことを途方もなく傷つけてしまう日がきたらどうしようって…君を失くしてしまったらどうしようって、、そんなことを思ってしまうんだ…」

車道を車が緩やかに通り過ぎた。彼の目には少しばかり涙が滲んでいた。彼女は手を伸ばした。泣き出しそうな彼の頬に触れた。彼女はあの時のように目を細め優しく微笑んだ。

「あなたは私のことが大切なのね」

頬に触れる彼女の手はやっぱり温かくて、心まで届くようだった。

「嬉しい、こんなに嬉しいことはないわロッツ」

「君が大切なんだ…本当に僕は…」

「ええ、分かっているわ、だから泣かないで」

ロッツは少し無理をしてはにかんだ。ほろりと涙が一粒流れた。

「君はほんとうに綺麗だ…」

彼は愛の言葉を何よりも大切な彼女へ、確かな思いが、願いが、こもった言葉を送った

「ありがとう」

アンはあの頃と変わらずに大切な彼を愛した。白髪増え、体力が衰え、皺が増えても変わらずにロッツを愛し続けた。

 まだ芽吹かない桜が未来を予感させた。産まれればいずれ消えていく波が二人を見守った。


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